霊魂不滅論 上田照遍
「山僧阿國に生まれ、幼歳に出家し孜々として仏教を学ぶ。儒を学ぶと雖も傍として耽らず。若冠の時より明師を尋ねて諸国に周遊し、倶舎・唯識・因明論・華厳・天台等の疏章を学ぶ。三十の歳より此の河内の山中に錫を留めて密教を精研す。慮らず今年七十六の壽算を重ぬ。近頃若年の僧四方より尋ね来りて我が講を開かんと請ふ。因って常に講座虚日なし。聴者時々人魂滅不の議論を作し、而して決択を予に問ふ。予応に随て決着しぬ。熟ら思ふに、今世、人智大に進みて、是の如きの理を学ぶに至る。然るに佛理は難解難入にして動(やや)もすれば邪智に走る。若し邪智を堅く結べば永劫に迷はん。予筆を執って曰く、今、世上に人魂は滅無に帰すと云ひ、或いは霊魂不滅と云ふ。皆是迷夢中の所論にして、畢竟盡理の説に非ず。唯佛世尊の説のみ盡理と称すべし。釈尊の大弟子たる迦葉・舎利弗・目連等はもと外道にして百千の弟子を有する人なるに、佛に降伏せられて仏道に入れるなり。仏道の理、もし長ぜざれば誰か帰入せん。之を思ふて仏教の理を信ずべし。釈尊五十年間説法度生し給ふ中に、教理の綱要を拾い取りて云はば、小乗・大乗・権・実の区別あり。
(小乗では悟れば霊魂は滅するとなす)
その中、小乗教は極浅き理趣なり。謂く、法性無為の理に迷ふて生死の夢中に住す、故に生死を感ずるうちは三界流転して霊魂断絶なし。然れども生滅無常にして霊魂相続すること必然たり。一切有為法として必ず無常印を有すること知りぬべし。然るに若し法性無為を覚悟すれば永く生死を離るなり。この時、有為妄法の人魂、滅無に帰す。二乗の人、無余の灰断に帰すとは此の事なり。この教の行人は声聞縁覚の二人にして、菩薩の人ありと雖も真実にはその人なし。故に仮立に帰する也。
(權大乗教(法相・三論)では無漏種子を有する者は汚れた霊魂を無漏清浄の霊魂に替て安楽になる)
一段進みたるは權大乗教(法相・三論)なり。その教意は謂く、声・縁・菩の三乗の別ありて菩薩は成仏す。之を頓悟の菩薩と称す。声・縁二乗の中に不転の者と大乗へ転ずる者とあり。不転の者は本より小乗の種子のみを具する故なり。転ずる者は本より菩薩の種子と小乗の種子とを具する故なり。此の転ずる人を漸悟の菩薩と称す。已上の頓悟漸悟の菩薩は有為妄法を捨てて仏果に登り、盡未来際、安楽に住す。是の如く有為妄法を捨てて深く法性を照らす所の無漏智は、別にその種子ありて、種々善法の縁に藉りて道芽を生じ、終に成仏の果に至るなり。故に有為妄法の霊魂を捨てて無漏清浄の霊魂に替へ得て、常に安楽に居る。譬へば貧乏世帯の苦を捨て離れて、結構に富貴安楽の暮らしをするが如し。誰か之を願はざらんや。上来の所述の旨趣は、前の小教に望むれば高深なれども、若し後教に望むれば猶ほ是れ權大乗の教旨なり。
(華厳・天台一乗に拠れば霊魂不滅)
その後教の実大乗の談門は謂く、仏性あるがゆえに仏果安楽に登ることを得。其の仏性とは別に有るに非ず、有為生滅の色心が即ち仏性にてあるなり。煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふにて、仏性の旨領解あるべし。今解説せば、何が故に煩悩即菩提なるや。謂く、因縁性の法は無自性にして善悪一多・自他不二平等の旨趣なり。若し因縁生差別なるに實あらば、一多平等無碍融摂せざるなり。故に無自性の道理にて融摂不二を知るべし。具に別の具なし。唯だこれ縁生なり。是れ仏性の妙体なり。因に約しては煩悩即菩提と云ひ、果に約しては生死即涅槃と云ふなり。凡夫迷ふて此の旨を知らず。故に仏、教法を垂示し給ふて、この煩悩即菩提・生死即涅槃の旨を解知し修業し成仏せしむ。故に今日、我等の色心は凡夫等の思ふ如きの隔歴差別浅浅の者に非ず。華厳・天台一乗の談門大略是の如し。故にこの両箇一乗(華厳・天台)の旨に拠れば人の霊魂不滅の旨趣なり。
(密教の立場からは、衆生の仏性は時空を貫いているゆえ霊魂は不滅である。)
然るに両箇一乗の教旨を前の權大乗に望むれば甚深なれども、若しは秘密一乗教に望むれば猶ほ未だ方便の教えたるを免れず。所以は何とならば、謂く煩悩即菩提なる旨を談ずれども、因縁無性の道理を以て之を成ずるのみ、未だ直に其の体徳を説示せず。故に差別の事法と空理とは不離なれども、体別を成ずれば事の霊魂を滅して不生不滅の霊魂に仕替へる道理に帰す。故に唯だ遮情の空理にして方便の分域を出でざること明らかなり。故に弘法大師は「顕薬塵を払ひ、真言庫を開く」(「秘蔵宝鑰」のお言葉。「真言宗義章」に「この文の意は、彼の顕教において智観の利刀を以て煩悩を断じて真如を証するは唯是れ差別の迷情を断じて無相の空理に入るものにして、未だ自心本具の曼荼羅荘厳を開見せざるがゆえにたとへば宝蔵を開かんとして其の戸口なで行きて戸の塵を払いたるがごとし。真言において三密の金剛を揮って微細難断の爾二の隔執を取り除き諸法本具の性徳を開見して無尽荘厳法界曼荼羅を成ずるはたとへば正しく宝蔵の戸を開きて其中にある七珍万宝を自在に受用するが如し、といふ意なり。この故に意業一つのみにては究竟の成仏の果を得ること能わざることを知るべし。」)と相対し給へり。その能説の教主釈迦尊は法性佛本地の垂迹にして能説の主、所説の法、共に方便の分斉なり。故に無畏三蔵の大疏(『大日経疏』)には、今此の本地の身は妙法蓮華の最深秘所なりと釈し給へり。
(「大毘盧遮那成佛經疏卷第十五・祕密漫荼羅品第十一之餘」「今祕藏中亦以大悲胎藏妙法蓮華。爲最深祕吉祥。一切加持法門之身坐此華臺也」)顕密の浅深差別、これを察し、これを思へよ。
其の本地たる法性佛は、真言開庫の分斉にして其の所説の教門は六大法界四曼不離三密加持の法理にして、釈迦五十年間不説の法門なり。此の法は法性の体徳にて常に遮情に対して表徳と称するはこれ也。此中の六大とは地水火風空の五大と識大となり。五大は色なり。識大は心なり。又、四曼とは大三法羯の四種曼荼羅にして、四種皆色法に約すれども亦心法にも通ず。謂く、法曼の中に能詮の声字は是れ色法なり。所詮の中に心法あり。又一義には謂く、四曼は先ず色相に就て分別すと雖も、實には色法に通ず。之に依りて亦四智印とも称するなり。大曼荼羅の如きは五大色なれども是れ有情の表相なり。又三昧耶は内心の本誓を表示す。法曼荼羅は是れ心法の理を詮顕す云々と。故に四曼は色心の二法なり。又三密は身語の二密は色法、意密は心法なり。是の如き故に六大四曼三密の体・相・用は色心の二法、即ち我等衆生の色心の二法なり。是を衆生本具の仏性と称する也。故に衆生の仏性、横に十方に遍じ、竪に三世を貫く有相の妙法なり。然るに凡夫は迷情の見にて唯差別の一相を見て、融妙絶待の全体を見ず。凡夫は迷へども法体は常に妙なり。是の如く凡の色心即仏性の故に、凡の霊魂不滅の旨、是れ真言教の深旨なり。我が宗門の者は初より此の即事而真の理を学ぶなり。此の旨趣を委しく知らんと欲せば大師の二教論及び即身成仏義を学ぶべし。今唯その大略を云ふのみ。
或が難じて曰く「師の説は、ただ古来伝来する仏教上の小大権実顕密の理趣にして、今人の所談は直に窮理して不滅の理を論ず。故に師の言ふ所は死法なり。今人の論ずる所は活法なり、如何」。
答ふ。「古来所伝の仏教の理こそ善良にて活法なり。天竺の数論勝論の大道外道の如きも、佛理の為に破斥せらる。陳那菩薩(5・6世紀の人。《因明正理門論》《集量論》の二大主著において,従来の諸派の説を批判して,唯識思想に立脚して仏教論理学を組織し,新因明を形成)出でて破邪顕正し給ふを観よ。今人の所談の種々の戯論、佛理を以て破斥せんこと、何の難きことか是れあらん。故に佛理の外に言ふべき事なし。今の佛教家として佛理を置きて余論に及ぶは心得がたき事なり。重々思察し給ふべし。」
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