福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

試練にあって苦しんでいる人をどう見るか

2019-08-17 | 法話
試練にあって苦しんでいる人をどう見るか



1、キリスト教では神の御業がその人に現れたとする見方もあるようです。
「ヨハネ9章1-7節。
イエスが道を通られているとき生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生この人が生まれつき盲人なのは誰かが罪をおかしたためですか、本人ですか、それともその両親ですか』イエスは答えられた。『本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神にみわざが彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを昼の間にしなければならない。夜が来る。するとだれも働けなくなる。わたしはこの世にいる間は世の光である。』イエスはそういって地に唾し、その唾でどろを作りその泥を盲人の目に塗っていわれた『シロアム(つかわされたもの)の池にいって洗いなさい。』そこで彼は行って洗った。そして見える様になって帰って行た。」


2、華厳経では「苦悩を取り除いて佛智慧を得て欲しい、と願う」とされてもいます。
華厳経・浄行品に
「苦惱の人を見れば 當に願くは衆生、衆苦を滅除して佛智慧を得んと。」



3、さらに華厳経の別の所では「代受苦の菩薩である」としています。
華嚴經金剛幢菩薩迴向品第二十一の一に
「(菩薩は)復た是の念をなす。我れ當に一切衆生のために無量の苦を受け、諸の衆生をして悉く生死の沃焦を免出することを得しむべし。我れ當に一切衆生の為に、一切の刹、一切の地獄の中において、一切の苦を受け、終に(衆生を)捨離せざるべし。我れ當に一一の惡道において盡未來劫において諸の衆生に代わりて無量の苦を受くべし。何を以ての故に。我れ寧ろ獨り諸の苦を受くるも、衆生をして諸の楚毒を受けしめじ。當に我身をもって一切惡道の衆生を免贖して、解脱を得せしむべし。・・」
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