五輪九字明祕密釋・・20
(九字九品往生門)
次に九字九品往生門。此門中に二あり。一は句義門。二は字義門。
(一、字義門)
初の句義門とは所謂o@mam@rtateseharah@u@m(おんあみりたていせいからうん、阿弥陀真言)。此九字において略して五句あり。
第一のo@m(おん)字に三義あり。一には三身の義。二には歸命頂禮の義。三には廣大
供養の義。廣には守護經のごとし。
次の三字(あみりた)は甘露の義。十甘露(阿弥陀大呪中に「あみりた」が10回)の釋の如し。
次の二字(てい・せい)に六義あり。一には大威徳の義、六臂の威徳を具する故に。二には大威光の義、遍照光明を具する故に。三には大威神の義、神境通を具する故に。四には大威力の義、六大の威力を具する故に。五には大威猛の義、速滅怨家の徳を具する故に。六には大威怒の義、入地菩薩(初地の菩薩)の徳を具するが故に。
次二字(か・ら)に又た六義あり。一には作佛の義、是の心作佛して久來始覺の如くことを得るが故に。二には作業の義、來迎引接間斷無きが故に。三には作用の義、神力自在有るが故に。四には作念の義、十念の衆生を迎ふるが故に。五には作定の義、妙觀察智三摩地定に入るが故に。六には作願の義、六八(阿弥陀48願)の大願を発するが故に。末後の一字(うん)は四字合成。Ahauma(あ・か・う・ま)也、摧破の義なり、佛法の怨家を破する故なり、能生の義、能く無量の眞如を生ずるが故に、恐怖の義、天魔外道を恐れしむるが故に。「吽字義」の釋に具さなり(大師の「吽字義」には、「「あ」は法身「か」は自受用身、「う」は他受用報身、「ま」は変化身」等と説かれている))。之れ用ふべし。
(二、字義門)
(うん字義、阿字を合成)
a字は如前。又た一百の義は經の如し(守護国界主陀羅尼経・陀羅尼品に「所謂阿字とは一切法無来なり、・・一切法無去なり・・」等と百種の字義を説いている」)。しばらく三諦の義について略して十種あり。中において有諦に一重の諦を出さば頌に曰はく、
縁起の三諦即空諦、 縁起の三諦即假諦、
縁起の三諦即中諦、 無量の一心即空諦、
無量の一心即有諦、 無量の一心即中諦、
法界三密は不生諦、 法界三密は本有諦、
法界三密は即ち中諦、 法界三密は曼荼諦。
是の如きは顯教の中には猶ほ其の一義すら知らず。何況んや具足して
十諦の深義を知らん乎。前の三諦は顯教所立の三諦の上において不思議三諦の妙觀を作す。即ち是れ遮情の三諦也。
次の三諦は密教淺略門中において且く一心に約して不思議三諦無量の名言を成立す。
前の諸教は若しは三乘、若しは一乘、皆な悉く一心の位に無量の數量あることを知らず、或は六識を知り、或は八識を知り、或は九識を知り、或は十識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿梨耶識・多一識心・一一識心)を知る。第二の三諦の中に無量の三諦を置くのみ。
第三の三諦は直に事事理理に約して廣く三諦の理を談ず。第三の三諦の中に
事理法界を摂して説く、猶ほ是れ諸法を摂すべし。未だ事事祕密自法不動の諸法ならざるが故に、今は直ちに本來平等にして能所あることなき自性不生の離一離多の法佛の三密に約して三諦の名義を建立す。第四の一諦は本有法界體性智自性法身に約す、不二大乘曼荼羅、深密の體相用の上の妙諦の義なり。
次にu字は一切諸法損減不可得なるが故に、六義を以ての故に諸法損減と名ずく。所
謂、苦空無常無我の故に。四相遷變の故に。不得自在の故に。不住自性の故に。因縁所生の故に。相觀待の故に。今此u字の實義如是如是。當に知るべし、一切諸法本來常樂我淨なれば一如不動にして罣礙あることなし。自性に安住して無來無去なり。因縁を遠離して本來不生なり。性は虚空に同なるがゆえに同一性なり。故に經に云はく「u字は報身の義なり」(守護國界主陀羅尼經卷・陀羅尼功徳軌儀品第九)。復次に九種の損減あり。所謂る前の九種の住心は未だ無邊の三密無盡の數量を知らざる故に。後のma字は一切諸法吾我不可得の義なり。謂はく、我とは自在の義、二種の主宰の義なり。自我は己なり。吾我は一切の凡夫なり。外道二乘・三乘同教一乘・別教一乘等、皆な此吾我の執あって皆な自乘を計して究竟自在の果佛の如くすれども、眞言門においては初心とするが故に。復次に一切諸法本來平等不二智の境界は能生にあらず所生にあらず。能遍に所破してにあらず唯是れ三密の一心なるが故に。既に二相なし。何ぞ吾我あらん。我とは他に対するが故に。而るに他相を離るるが故に。我も亦た不可得也。又ma字は化身の義。
(みり字の字義)
第三のm@r(みり)字門は此字二合なり。謂くma ま字に「り」字を加ふ。染不可得の義なり。或は神通不可得の字之を出だす。m@rみり字は化身の義。神通變化の義、化身の義に近きが故に此義を以て勝となす。又@lり字は是れ一切諸法本性清淨にして染淨を遠離する義なり、又た三昧の義なり。妙觀察智蓮華三昧也。
(た字の字義)
第四のta字門は、一切諸法如如不可得の故に。中論に云はく、「涅槃の實際と及び世間際と是の如くの二際は毫釐も差別なし」。差別なきを以ての故に一切諸法怨對なし。怨對なきが故に執持なし。執持なきが故に亦た如如解脱なし。
(てい字義)
第五にteてい字門は、加ふる所のe字は是れ則ち求不可得の字なり。
彼の頌(大師の「吽字義」)に曰ふが如し。「同一を如と名ずく。多の故に如如なり。理理無數、智智無邊なり。恒沙も喩にあらず。刹塵も猶は少なし。雨足多しといえども並びに是れ一水なり。燈光は一の非ざれども冥然として同體なり。色心無量にして實相無邊なり。心王心數主伴無盡なり。互ひに渉入して帝珠錠光の如く重重難思にして各の五智を具す。多にして不異、不異にして多なり。故に一如と名ずく。一は一にあらずして一なり。無數を一と為す。如は如に非らずして常なり。同同相似せり(吽字義)」。此理を説かざるは即ち是れ隨轉なり。無盡の寶藏。之によって秏竭し、無量の寶車、此において消盡す。之を損減といふ。地墨の四身、山毫の三密、本より自ら圓滿して凝然として不變なり。求不可得の義とは、頌に曰はく
「六道四生の諸の衆生は 本來、無盡の徳を具足せり
行住坐臥皆密印、 麁細言語悉く眞言なり。
若しは悟、若しは迷、是れ般若。 或は沈み、或は動、即ち三昧なり。
萬得已に我に具して遠からず、 何を以てか更に他處に求めん。」
(せい字義)
第六のseせい字門者。Sa(さ)にまたeえい點の畫を加ふる也。Saさ字とは
一切諸法諦不可得の故に。Sa(さ字)とは梵に薩跢也(さたや)。
此に翻じて諦となす。諦は謂はく諸法の眞相の如く知って不倒不謬なり。日は令やかならしむべく、月は熱からしむべくとも佛の説きたまふ苦諦は異ならしむべからず。「集」は眞に是れ因なり。更に異の因なし。因滅すれば則ち果滅す。「滅苦」の道は即ち是れ眞の道なり。更に餘の道なし、と説くがごとく、復た次に涅槃に云はく、「苦を苦無しと解す。是の故に苦なくして眞諦あり。餘の三も亦た爾なり。乃至四諦を分別するに無量の相及び一實諦あり。」聖行品(涅槃経)の中に之を説くが如し。是を字門之相となす。然も一切の法は本不生なり。乃至畢竟無相なるが故に。語言斷道の故に。本性寂靜の故に。自性鈍の故に。當に知るべし、見もなく斷もなく證もなく修もなし。是の如くの見斷證修は悉く是れ不思議法界なり。亦空亦假亦中なり。實にあらず、妄にあらず、定相として示すべき無し。故に諦不可得と言ふ。點畫は上のごとし。
(か字義)
第七のha(か)字門は、一切諸法因不可得の故に梵に係怛縛(けいとば)といふ。即ち是れ因の義なり。若しhaか字門を見れば即ち一切の諸法は因縁より生ぜざること無しと知る。是れを字相と為す。諸法は展轉して因を待って成ずるを以ての故に。當に知るべし、最後
は因縁無きが故に無生を説いて諸法の本となす。然る所以は「中論」に説くが如し(中論第一、観因縁品「諸法は自ら生ぜず. また他より生ぜず. 共ならず、無因ならず. 是の故に無生と知る」)。種種の門を以て諸法の因縁を観ずるに悉く不生なるが故に、當に知るべし萬法は唯心なり。唯心の實相は即ち是れ一切種智(仏のもつ最高の智慧)なり。即ち是れ諸佛の法界なり。法界は即ち是れ諸法の體なり。因とすることを得るべからず。以って之を知るべし。因も是れ法界、縁も是れ法界、因縁所生の法も亦た是れ法界なり。前説のa字門は本より末に帰して畢竟じて如是の處に至る。今亦たhaか字門も亦た末より本に帰して畢竟じて如是の處に至る。a字は本より不生なれども一切の法を生ず。今亦haか字無因を以て諸法の因と為し始終同歸す。則ち中間の旨趣、皆な悉く知んぬべし。
(ら字義)
第八のra字門は一切諸法は一切塵染を離るるが故に梵に羅逝(らじゃ)と云ふ。是れ塵染の義なり。塵は是れ妄情所行の處なり。故に眼等の六情、色等の六塵を行ずと説く。若しra字門を見れば即ち一切の見聞觸知すべき法は皆な是れ塵相なりと知る。猶ほし淨衣の塵垢の為に染せらるるがごとく、亦た遊塵紛動して太虚を昏濁し日月を明ならざらしむるが如し。是を字相と為す。中論に見法(見とは見る主体、法とは客体)を諦求するに見者あることなし、「若し見者無くんば誰か能く見法を用いて外色を分別せん。見と可見と不可見と見法と無なるが故に。識觸受愛の四法も皆な無なり。愛無きを以ての故に、十二因縁分も亦た無なり」。(中論・観六情品に「若無見見者亦不成。見者無故。云何有見可見。若無見者。誰能用見法分別外色。是故偈中説。以無見者故何有見可見。復次見可見無故 識等四法無 四取等諸縁 云何當得有見可見法無故。識觸受愛四法皆無。以無愛等故。四取等十二因縁分亦無」とある。)
是の故に眼に色を見る時、即ち是れ涅槃の相なり。餘も例するに亦た爾なり。復た次に一切諸法は悉く是れ毘盧遮那の淨法界なり、豈に如來の六根を染汚せん耶。鴦掘摩羅(おうくつまら)經に云はく。「佛は常眼具足して減無きを以って明らかに常色を見たまふ。乃至意法も亦た如是等」。是れra字門の眞實の義也。
(うん字の義)
第九h@u@mうん字門は三身の義を具す。極略して之を説かば、ha(か)は是れ
字體報身なり。中にa聲あり。是れ法身。U字は是れ應身。ma字は是れ化身なり。
(九字九品往生門)
次に九字九品往生門。此門中に二あり。一は句義門。二は字義門。
(一、字義門)
初の句義門とは所謂o@mam@rtateseharah@u@m(おんあみりたていせいからうん、阿弥陀真言)。此九字において略して五句あり。
第一のo@m(おん)字に三義あり。一には三身の義。二には歸命頂禮の義。三には廣大
供養の義。廣には守護經のごとし。
次の三字(あみりた)は甘露の義。十甘露(阿弥陀大呪中に「あみりた」が10回)の釋の如し。
次の二字(てい・せい)に六義あり。一には大威徳の義、六臂の威徳を具する故に。二には大威光の義、遍照光明を具する故に。三には大威神の義、神境通を具する故に。四には大威力の義、六大の威力を具する故に。五には大威猛の義、速滅怨家の徳を具する故に。六には大威怒の義、入地菩薩(初地の菩薩)の徳を具するが故に。
次二字(か・ら)に又た六義あり。一には作佛の義、是の心作佛して久來始覺の如くことを得るが故に。二には作業の義、來迎引接間斷無きが故に。三には作用の義、神力自在有るが故に。四には作念の義、十念の衆生を迎ふるが故に。五には作定の義、妙觀察智三摩地定に入るが故に。六には作願の義、六八(阿弥陀48願)の大願を発するが故に。末後の一字(うん)は四字合成。Ahauma(あ・か・う・ま)也、摧破の義なり、佛法の怨家を破する故なり、能生の義、能く無量の眞如を生ずるが故に、恐怖の義、天魔外道を恐れしむるが故に。「吽字義」の釋に具さなり(大師の「吽字義」には、「「あ」は法身「か」は自受用身、「う」は他受用報身、「ま」は変化身」等と説かれている))。之れ用ふべし。
(二、字義門)
(うん字義、阿字を合成)
a字は如前。又た一百の義は經の如し(守護国界主陀羅尼経・陀羅尼品に「所謂阿字とは一切法無来なり、・・一切法無去なり・・」等と百種の字義を説いている」)。しばらく三諦の義について略して十種あり。中において有諦に一重の諦を出さば頌に曰はく、
縁起の三諦即空諦、 縁起の三諦即假諦、
縁起の三諦即中諦、 無量の一心即空諦、
無量の一心即有諦、 無量の一心即中諦、
法界三密は不生諦、 法界三密は本有諦、
法界三密は即ち中諦、 法界三密は曼荼諦。
是の如きは顯教の中には猶ほ其の一義すら知らず。何況んや具足して
十諦の深義を知らん乎。前の三諦は顯教所立の三諦の上において不思議三諦の妙觀を作す。即ち是れ遮情の三諦也。
次の三諦は密教淺略門中において且く一心に約して不思議三諦無量の名言を成立す。
前の諸教は若しは三乘、若しは一乘、皆な悉く一心の位に無量の數量あることを知らず、或は六識を知り、或は八識を知り、或は九識を知り、或は十識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿梨耶識・多一識心・一一識心)を知る。第二の三諦の中に無量の三諦を置くのみ。
第三の三諦は直に事事理理に約して廣く三諦の理を談ず。第三の三諦の中に
事理法界を摂して説く、猶ほ是れ諸法を摂すべし。未だ事事祕密自法不動の諸法ならざるが故に、今は直ちに本來平等にして能所あることなき自性不生の離一離多の法佛の三密に約して三諦の名義を建立す。第四の一諦は本有法界體性智自性法身に約す、不二大乘曼荼羅、深密の體相用の上の妙諦の義なり。
次にu字は一切諸法損減不可得なるが故に、六義を以ての故に諸法損減と名ずく。所
謂、苦空無常無我の故に。四相遷變の故に。不得自在の故に。不住自性の故に。因縁所生の故に。相觀待の故に。今此u字の實義如是如是。當に知るべし、一切諸法本來常樂我淨なれば一如不動にして罣礙あることなし。自性に安住して無來無去なり。因縁を遠離して本來不生なり。性は虚空に同なるがゆえに同一性なり。故に經に云はく「u字は報身の義なり」(守護國界主陀羅尼經卷・陀羅尼功徳軌儀品第九)。復次に九種の損減あり。所謂る前の九種の住心は未だ無邊の三密無盡の數量を知らざる故に。後のma字は一切諸法吾我不可得の義なり。謂はく、我とは自在の義、二種の主宰の義なり。自我は己なり。吾我は一切の凡夫なり。外道二乘・三乘同教一乘・別教一乘等、皆な此吾我の執あって皆な自乘を計して究竟自在の果佛の如くすれども、眞言門においては初心とするが故に。復次に一切諸法本來平等不二智の境界は能生にあらず所生にあらず。能遍に所破してにあらず唯是れ三密の一心なるが故に。既に二相なし。何ぞ吾我あらん。我とは他に対するが故に。而るに他相を離るるが故に。我も亦た不可得也。又ma字は化身の義。
(みり字の字義)
第三のm@r(みり)字門は此字二合なり。謂くma ま字に「り」字を加ふ。染不可得の義なり。或は神通不可得の字之を出だす。m@rみり字は化身の義。神通變化の義、化身の義に近きが故に此義を以て勝となす。又@lり字は是れ一切諸法本性清淨にして染淨を遠離する義なり、又た三昧の義なり。妙觀察智蓮華三昧也。
(た字の字義)
第四のta字門は、一切諸法如如不可得の故に。中論に云はく、「涅槃の實際と及び世間際と是の如くの二際は毫釐も差別なし」。差別なきを以ての故に一切諸法怨對なし。怨對なきが故に執持なし。執持なきが故に亦た如如解脱なし。
(てい字義)
第五にteてい字門は、加ふる所のe字は是れ則ち求不可得の字なり。
彼の頌(大師の「吽字義」)に曰ふが如し。「同一を如と名ずく。多の故に如如なり。理理無數、智智無邊なり。恒沙も喩にあらず。刹塵も猶は少なし。雨足多しといえども並びに是れ一水なり。燈光は一の非ざれども冥然として同體なり。色心無量にして實相無邊なり。心王心數主伴無盡なり。互ひに渉入して帝珠錠光の如く重重難思にして各の五智を具す。多にして不異、不異にして多なり。故に一如と名ずく。一は一にあらずして一なり。無數を一と為す。如は如に非らずして常なり。同同相似せり(吽字義)」。此理を説かざるは即ち是れ隨轉なり。無盡の寶藏。之によって秏竭し、無量の寶車、此において消盡す。之を損減といふ。地墨の四身、山毫の三密、本より自ら圓滿して凝然として不變なり。求不可得の義とは、頌に曰はく
「六道四生の諸の衆生は 本來、無盡の徳を具足せり
行住坐臥皆密印、 麁細言語悉く眞言なり。
若しは悟、若しは迷、是れ般若。 或は沈み、或は動、即ち三昧なり。
萬得已に我に具して遠からず、 何を以てか更に他處に求めん。」
(せい字義)
第六のseせい字門者。Sa(さ)にまたeえい點の畫を加ふる也。Saさ字とは
一切諸法諦不可得の故に。Sa(さ字)とは梵に薩跢也(さたや)。
此に翻じて諦となす。諦は謂はく諸法の眞相の如く知って不倒不謬なり。日は令やかならしむべく、月は熱からしむべくとも佛の説きたまふ苦諦は異ならしむべからず。「集」は眞に是れ因なり。更に異の因なし。因滅すれば則ち果滅す。「滅苦」の道は即ち是れ眞の道なり。更に餘の道なし、と説くがごとく、復た次に涅槃に云はく、「苦を苦無しと解す。是の故に苦なくして眞諦あり。餘の三も亦た爾なり。乃至四諦を分別するに無量の相及び一實諦あり。」聖行品(涅槃経)の中に之を説くが如し。是を字門之相となす。然も一切の法は本不生なり。乃至畢竟無相なるが故に。語言斷道の故に。本性寂靜の故に。自性鈍の故に。當に知るべし、見もなく斷もなく證もなく修もなし。是の如くの見斷證修は悉く是れ不思議法界なり。亦空亦假亦中なり。實にあらず、妄にあらず、定相として示すべき無し。故に諦不可得と言ふ。點畫は上のごとし。
(か字義)
第七のha(か)字門は、一切諸法因不可得の故に梵に係怛縛(けいとば)といふ。即ち是れ因の義なり。若しhaか字門を見れば即ち一切の諸法は因縁より生ぜざること無しと知る。是れを字相と為す。諸法は展轉して因を待って成ずるを以ての故に。當に知るべし、最後
は因縁無きが故に無生を説いて諸法の本となす。然る所以は「中論」に説くが如し(中論第一、観因縁品「諸法は自ら生ぜず. また他より生ぜず. 共ならず、無因ならず. 是の故に無生と知る」)。種種の門を以て諸法の因縁を観ずるに悉く不生なるが故に、當に知るべし萬法は唯心なり。唯心の實相は即ち是れ一切種智(仏のもつ最高の智慧)なり。即ち是れ諸佛の法界なり。法界は即ち是れ諸法の體なり。因とすることを得るべからず。以って之を知るべし。因も是れ法界、縁も是れ法界、因縁所生の法も亦た是れ法界なり。前説のa字門は本より末に帰して畢竟じて如是の處に至る。今亦たhaか字門も亦た末より本に帰して畢竟じて如是の處に至る。a字は本より不生なれども一切の法を生ず。今亦haか字無因を以て諸法の因と為し始終同歸す。則ち中間の旨趣、皆な悉く知んぬべし。
(ら字義)
第八のra字門は一切諸法は一切塵染を離るるが故に梵に羅逝(らじゃ)と云ふ。是れ塵染の義なり。塵は是れ妄情所行の處なり。故に眼等の六情、色等の六塵を行ずと説く。若しra字門を見れば即ち一切の見聞觸知すべき法は皆な是れ塵相なりと知る。猶ほし淨衣の塵垢の為に染せらるるがごとく、亦た遊塵紛動して太虚を昏濁し日月を明ならざらしむるが如し。是を字相と為す。中論に見法(見とは見る主体、法とは客体)を諦求するに見者あることなし、「若し見者無くんば誰か能く見法を用いて外色を分別せん。見と可見と不可見と見法と無なるが故に。識觸受愛の四法も皆な無なり。愛無きを以ての故に、十二因縁分も亦た無なり」。(中論・観六情品に「若無見見者亦不成。見者無故。云何有見可見。若無見者。誰能用見法分別外色。是故偈中説。以無見者故何有見可見。復次見可見無故 識等四法無 四取等諸縁 云何當得有見可見法無故。識觸受愛四法皆無。以無愛等故。四取等十二因縁分亦無」とある。)
是の故に眼に色を見る時、即ち是れ涅槃の相なり。餘も例するに亦た爾なり。復た次に一切諸法は悉く是れ毘盧遮那の淨法界なり、豈に如來の六根を染汚せん耶。鴦掘摩羅(おうくつまら)經に云はく。「佛は常眼具足して減無きを以って明らかに常色を見たまふ。乃至意法も亦た如是等」。是れra字門の眞實の義也。
(うん字の義)
第九h@u@mうん字門は三身の義を具す。極略して之を説かば、ha(か)は是れ
字體報身なり。中にa聲あり。是れ法身。U字は是れ應身。ma字は是れ化身なり。