覚りと空
2018-07-20 | 法話
[大乗仏教の根底には『空』の思想がある。特に我(主体的存在)の空のみでなく、法(客観的存在)の空をも説いたことが部派佛教とは決定的にことなる点であった。『我空法有(我は空であるが法則は有である)』に対する『我法俱空(我も法則も空である)」』あるいは『人法二空』の立場こそ、大乗の世界観の核心である。・・主体的存在として構想されている我も、事物を構成する要素的存在として想定されている法も、一切はなんら本体を持つものではなく、空・無自性で、ゆえに仮のもの、幻のようなものでしかない、というのが大乗仏教の根本的立場なのである。・・我のみでなく法も空・無自性であるということは、この我々の世界のどんなものも、実は真に生まれたものでもないし、滅したものでもない、ということになる。すなわち本来生滅も去来もなく、したがって、本来寂静であり、本来涅槃に入っているということである。つまり、我々の生死の世界も、実は本来涅槃の世界そのものだったのである。(三島由紀夫は「豊饒の海」の最後を「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる…… 」と結んでいるが、彼は唯識仏教をも勉強していたのかもしれません)
逆に言えば我々は、修業して覚りを開いた後、ことさらに涅槃の世界にはいらなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入って、しかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住所涅槃(衆生を救うために涅槃にも生死界にもとどまらないこと)という世界がある。この無住所涅槃をみることによって、永遠の利他行も可能とされることとなるのである。・・(我執・法執双方を断つことにより)世界にはなんら実体は存在しないという透徹した智慧が生じる。この智慧が自他平等の本質を如実に解らせ、苦悩に陥っている人々を救おうとする心を発動させていくのである。・・」(「覚りと空」竹村牧男)
逆に言えば我々は、修業して覚りを開いた後、ことさらに涅槃の世界にはいらなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入って、しかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住所涅槃(衆生を救うために涅槃にも生死界にもとどまらないこと)という世界がある。この無住所涅槃をみることによって、永遠の利他行も可能とされることとなるのである。・・(我執・法執双方を断つことにより)世界にはなんら実体は存在しないという透徹した智慧が生じる。この智慧が自他平等の本質を如実に解らせ、苦悩に陥っている人々を救おうとする心を発動させていくのである。・・」(「覚りと空」竹村牧男)