今朝行法をしていて、今更ながら、我々衆生の業にはそれぞれ無限の違いがある、ということに改めて思い至りました。古来、世間には数限りない種類の不幸があります。
ずっと昔、鈴木宋忠禅師という臨済宗の名僧の講演を聞いたことがあります。
師は演台にのぼると開口一番「みなさんご苦労さまです。ここから見るとみなさんは因果の博覧会です」と言いました。衆生の因果因縁は一段上の世界から見るとそれぞれ言葉にできない位オドロオドロしいことになっているのでしょう。
我我はいつのまにか前提なしに世俗の価値観の上でも皆平等でなければならないと思い込んでいますが、実際は無限の世俗的因果の真只中に蠢いて生きているのです。そこに世俗の価値観からみると無限の幸・不幸の世界が生まれてくるのです。
「この世もあの世も衆生の業によってつくられた無限の因果の集積体で海のようなものであると見るのを海印三昧という。(かくのごとく因果縁起の挙体、理實法界の無自性の理である。即ち因果即実相、有即空、事即理にして、無二唯一なるがゆえに、事々無礙の玄旨を成ずるのである。この無尽法界の実相を證見せるを海印三昧といふ。金山穆韶師「仏教における個体の観念」)」とあります。
そこで、衆生にはまず自己の因果を分らせることが必要とされます。
「衆生にはそれぞれ各自の因果を覚らせ,善行につとめるようにしむけるべきである。(汝今當應に是の如く修學し亦た衆生をして因果に了達せしめ善業を修習せしむべし。十善業道經 )」とあります。
しかしこれは容易ではありません。各自の過去世からの因果が分らないからそれぞれしなくてもいい苦労をしているのですから・・。華厳経では「菩薩は衆生のそれぞれの因縁を知って導くべきである。(華厳経巻十明法品第十四 ・・佛子よ、云何が菩薩摩訶薩は其の所應に随って而も衆生を化するや。 此菩薩は諸の衆生の所宜の方便を知り、諸の衆生の種種の因縁を知り、 諸の衆生の心心所の念を知る)」とされます。菩薩は衆生にそれぞれの因縁をおしえてやれと言っているのです。しかしこれを現代でできる人はなかなかいないと思われます。私自身も一人一人の因縁の違いを感じることはできても具体的内容は分かりません。
そこで次のステップに一気に飛ばざるを得ないのではないかと思う次第です。
いま不運に泣いている人は、あくまでも自他は別で自分は他人と比べてなぜこんなに不運かと嘆いているわけです。ここで一挙に根本に戻って、佛教の本来の教え「自他不二」に帰れば、一挙に「運・不運」の問題は解決します。運不運問題自体が成立しなくなります。自他が区別できないわけですから。
「聖人に己(おのれ)なし。己ならざるなし」といいますが、「自分におのれなし、世界は己ならざるはなし」と観念すれば運不運は成立できなくなります。
元来、私たちは、自他を超越した仏性そのものであり、宇宙・大日如来そのものなのですから、境遇も、家庭も、社会も、国家も、天地も、宇宙も、全部自分が作り出して自分が眺めているともいえるのです。これを自受法楽の世界といいます。ひとたび真の自己(大日如来)に目覚めると、宇宙は全部自己の作り出した荘厳であったことに気が付くとともに、「衆生無辺誓願度」という利他行のみが「不運をかこつ自己、を乗り越える道」であると気がつくのではないでしょうか。
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