
川崎大師法話板に「慈父導子の方大鋼此れに在り」とありました。これはお大師様の「般若心経秘鍵」の
「夫れ仏法遥に非らず、心中にして即ち近し。
真如外に非らず、身を棄てて何くんか求めん。
迷悟我れに在れば発心すれば即ち至る。
明暗他に非ざれば信修すれば忽に證ず。
哀れなる哉哀れなる哉長眠の子、苦しい哉痛い哉狂酔の人、
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。
曾て医王の薬を訪わずんば、何れの時にか大日の光を見ん。
翳障の軽重、覚悟の遅速の若くに至っては、機根不同にして性欲即ち異なり。
遂じて二教轍を殊んじて手を金蓮の場に分ち、五乘鏕を並べて蹄を幻影之垺に踠つ(あがつ)
其の解毒に隨うて薬を得ること即ち別なり。
慈父導子の方大鋼此れに在り。 」
(そもそも仏法は、はるかかなたにあるのではなく自分心の中にある。真理は、われわれの外部にあるものではないので、この身を離れて、どれに求め得るのか。
迷悟は自分の内に存在しているのであるから、発心すればそれが悟りだ。
明るい世界(さとり)と暗い世界(迷い)は自分にあるのだから、信じて努力すればたちまち証明されるであろう。
なんと哀れなことか、哀れなことか。愚かな世俗の価値観の上に眠りこけている者よ。
まことに苦しいことよ、痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれているものよ。
酔ったものは、酔わないものをあざ笑い、眠りこけている者は、目覚めているものを嘲るものである。
名医を訪ねて薬を手に入れなければ、いつの日に大日如来のさとりの光明を見ることができようか。
眼病で障礙が重い・軽いがあるようにさとりを得るにつけても遅速がある。機根や努力・性格で差が出るものである。
そこで、密教では、金剛界と胎蔵という二つの教えがあって、修行者があとをたどれるようになっている。
一方、華厳宗・三論宗・法相宗・声聞・縁覚・天台宗という五つの宗派は、おのおの馬の鞍をかけ、幻や影のような仮の教えの柵の中でひずめをかがめている。
いま病気の種類によって薬を与えることは、それぞれの特性があるからである。
慈しみ深い父親が子供を導くように仏様もさまざまな機根の衆生をもれなく導くために顕教や密教を説かれているのである。)
「夫れ仏法遥に非らず、心中にして即ち近し。
真如外に非らず、身を棄てて何くんか求めん。
迷悟我れに在れば発心すれば即ち至る。
明暗他に非ざれば信修すれば忽に證ず。
哀れなる哉哀れなる哉長眠の子、苦しい哉痛い哉狂酔の人、
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。
曾て医王の薬を訪わずんば、何れの時にか大日の光を見ん。
翳障の軽重、覚悟の遅速の若くに至っては、機根不同にして性欲即ち異なり。
遂じて二教轍を殊んじて手を金蓮の場に分ち、五乘鏕を並べて蹄を幻影之垺に踠つ(あがつ)
其の解毒に隨うて薬を得ること即ち別なり。
慈父導子の方大鋼此れに在り。 」
(そもそも仏法は、はるかかなたにあるのではなく自分心の中にある。真理は、われわれの外部にあるものではないので、この身を離れて、どれに求め得るのか。
迷悟は自分の内に存在しているのであるから、発心すればそれが悟りだ。
明るい世界(さとり)と暗い世界(迷い)は自分にあるのだから、信じて努力すればたちまち証明されるであろう。
なんと哀れなことか、哀れなことか。愚かな世俗の価値観の上に眠りこけている者よ。
まことに苦しいことよ、痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれているものよ。
酔ったものは、酔わないものをあざ笑い、眠りこけている者は、目覚めているものを嘲るものである。
名医を訪ねて薬を手に入れなければ、いつの日に大日如来のさとりの光明を見ることができようか。
眼病で障礙が重い・軽いがあるようにさとりを得るにつけても遅速がある。機根や努力・性格で差が出るものである。
そこで、密教では、金剛界と胎蔵という二つの教えがあって、修行者があとをたどれるようになっている。
一方、華厳宗・三論宗・法相宗・声聞・縁覚・天台宗という五つの宗派は、おのおの馬の鞍をかけ、幻や影のような仮の教えの柵の中でひずめをかがめている。
いま病気の種類によって薬を与えることは、それぞれの特性があるからである。
慈しみ深い父親が子供を導くように仏様もさまざまな機根の衆生をもれなく導くために顕教や密教を説かれているのである。)