五輪九字明祕密釋・・16
(阿字曼荼羅観)
復た次に凡人の汗栗駄心(質多心(思慮分別する心)に対し、汗栗駄心“かりだしん”は肉体の心臓)は形猶ほ合蓮華の如し。筋脈あり八に分かれる、是れ八葉の心蓮華・八分肉團是也。此の心蓮華において觀じて開敷八葉の白蓮華となる。臺上にAM+uH(あーんく、阿字に空点涅槃点等を加えたもの)字を観じて金剛色になせ。是則ち方便具足究竟心王・大日如來・法界體性智・常寂滅相本地法身・華臺總體にして邊葉を超えて方に心言の境にあらず。唯し佛と佛のみ乃し能く之を知る。此の方便を以て大空に同じて衆像を現ず。中臺の心は空にして一切色を具し、無相法身にして色相を現ず。即れ是ち加持十方世界の曼荼羅、普門の海會なり。無所不至にして遍く法界に応ず。皆是れ大日如來一體の色身なり。衆徳を具足するが故に佛陀なり。佛陀は皆是大日薩埵なり。薩埵は悉く是れ毘盧なり。天羅鬼神も是れ法身の相なり。故に知んぬ、五字(あびらうんけん)は諸佛の總呪なり。若し衆生あって此教法を伝えて當に供養をいたすべきこと猶し制底(仏塔)のごとくすれば應供の徳を備ふ。何に況んや信修するをや。是れ人中の芬荼利華、是れ法身の舍利(佛の骨)なり。毘盧の四身を積集す。即ち是れ自性清淨諸佛の五智に等同なり。我性の九識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿頼耶識・菴摩羅(あんまら)識)は依正不二(依報(周囲)正報(自分)が一つ)にして相性(現象と本質)同如なり。眞言の大我は三密平等にして太虚空の如し。法界を宮とすれば所處の道場は密嚴にあらざるなし。六大(万象を構成する、地・水・火・風・空・識)は本尊なれば衆生即ち是れ本尊にあらざるなし。本尊・行者は本來平等なれば我覺本初、我は是れ古佛なり。智界(智慧)・理界(真理)は我が心の曼荼、五部三部は即ち是れ我身なり。能く五大に迷えば三界を城となして五藏五行は生死に流轉す。a字を迷本として苦を受くること無窮なり。能く五大を悟れば四曼の相を造して、五佛五智涅槃を證得す。即是れ本初なり。萬法を總歸して一のa字に入りぬれば、地獄・天堂・佛性・闡提・煩惱・菩提・生死・涅槃・邊邪・中正・有・偏圓・二乘・一乘・苦樂の相は皆是れ六大業影果報なり。既に是れ六大の所作を因となす、還って六大所受を以て果と為す。實智によるがゆえに能く六大を悟る。五智・四身・四曼・三密・善心を熏修して能く顯はし、能く證して無盡莊嚴大曼荼羅を成ず。妄執によるがゆえに能く五趣に迷ふ。生死・煩惱・四重・八重・五逆謗罪、惡心を熏習して能く受け能く悲しみ、大苦果・大那洛迦(地獄)を感ず。
迷悟は己にあり、執無うして到る(迷いは自分になるのだから執着をなくすれば苦を離れ悟りに到る)。餘字も亦た然なり。
(阿字曼荼羅観)
復た次に凡人の汗栗駄心(質多心(思慮分別する心)に対し、汗栗駄心“かりだしん”は肉体の心臓)は形猶ほ合蓮華の如し。筋脈あり八に分かれる、是れ八葉の心蓮華・八分肉團是也。此の心蓮華において觀じて開敷八葉の白蓮華となる。臺上にAM+uH(あーんく、阿字に空点涅槃点等を加えたもの)字を観じて金剛色になせ。是則ち方便具足究竟心王・大日如來・法界體性智・常寂滅相本地法身・華臺總體にして邊葉を超えて方に心言の境にあらず。唯し佛と佛のみ乃し能く之を知る。此の方便を以て大空に同じて衆像を現ず。中臺の心は空にして一切色を具し、無相法身にして色相を現ず。即れ是ち加持十方世界の曼荼羅、普門の海會なり。無所不至にして遍く法界に応ず。皆是れ大日如來一體の色身なり。衆徳を具足するが故に佛陀なり。佛陀は皆是大日薩埵なり。薩埵は悉く是れ毘盧なり。天羅鬼神も是れ法身の相なり。故に知んぬ、五字(あびらうんけん)は諸佛の總呪なり。若し衆生あって此教法を伝えて當に供養をいたすべきこと猶し制底(仏塔)のごとくすれば應供の徳を備ふ。何に況んや信修するをや。是れ人中の芬荼利華、是れ法身の舍利(佛の骨)なり。毘盧の四身を積集す。即ち是れ自性清淨諸佛の五智に等同なり。我性の九識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿頼耶識・菴摩羅(あんまら)識)は依正不二(依報(周囲)正報(自分)が一つ)にして相性(現象と本質)同如なり。眞言の大我は三密平等にして太虚空の如し。法界を宮とすれば所處の道場は密嚴にあらざるなし。六大(万象を構成する、地・水・火・風・空・識)は本尊なれば衆生即ち是れ本尊にあらざるなし。本尊・行者は本來平等なれば我覺本初、我は是れ古佛なり。智界(智慧)・理界(真理)は我が心の曼荼、五部三部は即ち是れ我身なり。能く五大に迷えば三界を城となして五藏五行は生死に流轉す。a字を迷本として苦を受くること無窮なり。能く五大を悟れば四曼の相を造して、五佛五智涅槃を證得す。即是れ本初なり。萬法を總歸して一のa字に入りぬれば、地獄・天堂・佛性・闡提・煩惱・菩提・生死・涅槃・邊邪・中正・有・偏圓・二乘・一乘・苦樂の相は皆是れ六大業影果報なり。既に是れ六大の所作を因となす、還って六大所受を以て果と為す。實智によるがゆえに能く六大を悟る。五智・四身・四曼・三密・善心を熏修して能く顯はし、能く證して無盡莊嚴大曼荼羅を成ず。妄執によるがゆえに能く五趣に迷ふ。生死・煩惱・四重・八重・五逆謗罪、惡心を熏習して能く受け能く悲しみ、大苦果・大那洛迦(地獄)を感ず。
迷悟は己にあり、執無うして到る(迷いは自分になるのだから執着をなくすれば苦を離れ悟りに到る)。餘字も亦た然なり。