福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今朝のお月さまとお星様

2020-08-13 | 法話
最近も週に数日は未明にゴミ拾いに出かけています。折角仏さまに無数のおかげをいただいていても何の恩返しもできてないのでせめて少しでもと思い続けています。今朝も3時ころ起きて出かけました。今日は月齢が 23.4歳ということで東の空に煌々と掛かっていました。またその横には明けの明星が赤々と輝いていました。今日13日は「未明から明け方の東の空で輝いている明けの明星の金星が太陽から最も離れて西方最大離角となる」日のようでした。
私はいつもお月様や輝いている星を見ると思わず拝んでしまいます。特に明星は10年前に四国21番太龍寺で求聞持を修行させていただいたとき、毎朝午前1時に舎心ヶ嶽の絶壁の上で108回礼拝行をしながら虚空蔵菩薩様として拝んでいたものですから何とも言えない気持ちになるのです。

カントは『実践理性批判』で「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」といいましたが、実際に未明に星空を見上げるとそのようなむつかしい言葉よりも、R.W.エマソンの「・・この美の使者たちは夜毎に出てきては、その諭すような笑みで世界を照らすのだ。・・星々はある意味敬虔な気持ちにさせる。」とか「(宗教的感情は)山の大気のようである。それは世界に薫香を満たす力である。それは空と丘とを崇高なものにする。それは星辰の沈黙の歌である。」という一節を思い出します。
一方、経典には
「もし佛道を求めるのであれば十方の仏の生身を夜空の星を見るように観ぜよ(坐禅三昧経)」とあります。
10年前の百日の求聞持行の最終日は満天の星空でしたが、絶壁の礼拝行が終って漆黒のお堂で修法を始めると堂内に満天の星空がくっきりと広がったのを今でも思い出します。

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