書信至りて深く下情を慰む。雪寒し。
伏して惟れば、止観の座主、法友の勝れたることは常なりと。
貧道の易く量るらくは、貧道と闍梨と契りて積むこと年歳有りと。
常に思わくは、膠漆の芳しさと、松柏の凋まざるとなり。
乳水の馥は芝蘭とともにいよいよ香ぐわし。
止観の羽翼を舒べて、高く二空(人法両空のこと)の上に翥(とびあが)り、
定慧の驥騮(きりゅう)を騁(は)せて遠く三有(三界のこと)の外に跨り、
多宝と座を分かちて、釈尊の法を弘む。
この心とこの契り、誰か忘れ誰か忍ばん。
然りといえども、顕教の一乗は公に非ざれば伝えず、
秘密の仏蔵はただ我が誓う所なり。
彼とこれと法を守って談話するに遑あらず。謂わざるの志、何れの日にか忘れん。
忽ち封緘を開いて具に覚る、理趣釈を覓むと。
然りといえども疑わくは、理趣は端多し、求むる所の理趣とは何れの名相を指すやと。
それ理趣の道、釈経の文は天も覆うこと能わざる所、地も載すること能わざる所なり。
塵刹の墨、河海の水、誰かよく敢えてその一句一偈の義を尽くすことを得んや。
自ら如来心地の力、大士の空の如き心に非ずんば、豈よく信解受持せんや。
余不敏なりといえども、略して大師(釈迦)の訓旨を示さん。
冀くは、子汝が智心を正し、汝が戯論を浄めて、理趣の句義と、密教の逗留とを聴け。
それ理趣の妙句は無量無辺不可思議なり。
広を摂めて略に従い、末を棄てて本に帰すに且三種あり。
一は可聞の理趣、二は可見の理趣、三は可念の理趣なり。
もし可見の理趣を覓むれば、見る可きは汝が四大等、即ちこれなり。
更に他の身辺に覓むるを須いざれ。
また次に三種あり。
心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣なり。
もし仏の理趣を求むれば、汝が心中の能覚の者、即ちこれなり。また諸仏の辺りに求むべし。
凡愚の所に覓むるを須いざれ。
もし衆生の理趣を覓むれば、汝が心中に無量の衆生あり。
それに随うて覓むべし。
また三種あり。
文字と観照と実相となり。
もし文字を覓むれば、則ち声の上の屈曲、即ちこれ不対不碍なり。
紙墨和合して文字を生ずるがごときは、彼の処にもまたあり。
また須らく筆と紙と博士の辺りに覓むべし。
もし観照を求むれば、則ち能観の心、所観の境なり。
色なく形なし。誰か取り誰か与えん。
もし実相を求むれば、則ち実相の理に名相なし。
名相なければ、虚空と冥会す。
彼の処にも空あり、更に外を用いざれ。
また所謂理趣釈経とは、汝が三密、即ちこれ釈経なり。
汝が身等は不可得、我が身等も不可得、誰か求め誰か与えん。
また二種あり。汝が理趣と我が理趣が、即ちこれなり。
もし汝が理趣を求むれば、則ち汝が辺に、即ち有り。
我が辺に求むるを須いざれ。
もし我が理趣を求むれば、則ち二種の我あり。
一は五蘊の仮我、二は無我の大我なり。
もし無我の大我を求むれば、則ち遮那の三密、即ちこれなり。
遮那の三密は、何処にか遍ねからざる。
汝が三密は、即ちこれなり。外に求むるべからず。
また余は、未だ知らず、公はこれ聖化なりや、凡夫に当たると為すや。
何の闕くる所か有りて、更に求覓を事とする。
もし権の故に求覓すれば、則ち悉達は外道に事え、文殊は釈迦に事えたるが如し。
もし実の凡なれば、則ちまさに仏の教えに随うべし。
もし仏の教えに随えば、則ち必ず須らく三昧耶を慎むべし。
越三昧耶すれば、則ち伝者と受者とともに無益なり。
それ、秘蔵の興廃は、ただ汝と我にあり。
汝はもし非法に受け、我は非法に伝うれば、則ち将来の法を求むる人は、何によりてか道を求むるの意(こころ)を知るを得ん。
非法の伝受は、これを法を盗むと名づく、即ちこれ仏を誑くなり。
また秘蔵の奥旨は、文を得ることを貴ばず。ただ心を以って心に伝うるなり。
文はこれ糟粕、文はこれ瓦礫、糟粕と瓦礫を受くれば、則ち粋実と至実とを失う。
真を棄てて偽を拾うは、愚人の法なり。
また古の人は道の為に道を求め、今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは、道を求むる志にあらず。
道を求むる志は、己を忘るる道法なり。
なお輪王の如きも仙に仕えたり。
途に聞き途に説くは、夫子もまた聴したまえども、時機応ぜざれば、我が師は黙然たり。
所以は何んとなれば、法はこれ思い難く、信心のみよく入る。
口は信じ修むると唱うれど、心は則ち嫌い退けば、頭ありて尾なし。
言いて行わざれば、信じ修むるが如きも信じ修むると為すに足らず。
始め淑にして終りは君子の人たるべし。
世人は宝女を厭うて卑賤を愛し、
摩尼を咲うて燕石緘み、偽龍を好んで真像を失い、
乳粥を悪んで鍮石を宝とし、
癭者はこれ左手を鑽るとは、則ちこれなり。
渭を別たざるもの、醍醐を誰か知らん。
面の妍媸)を知らんと欲せば、鏡を磨くにしかず。
金薬の有無を論ずべからず。
心海の岸に達せんと欲せば、船に棹さすにしかず。船と筏の虚実を談ずべからず。
毒箭を抜かずして空しく来処を問い、道を聞いて動かざれば千里を何にして見ん。
双の丸は以って鬼を却し、
一匕(さじ、の仙藥)、以って仙を得べし。
たとい千年、本草大素を読誦すれども、四大の病は何んがかつて除くことを得たる。
百歳、八万の法蔵を談論して、三毒の賊は寧ぞ調伏すべきや。
自ら海を酌むの信、鎚を磨くの士に非ざれば、誰かよく一覚の妙を信じ、三磨の難思を行修せん。
止みね止みね。舎(すてお)きね舎きね。吾、未だその人を見ず。
その人、豈遠からんや。信じ修れば、則ちその人なり。
もし信じ修ること有れば、男女を論ぜずして皆これその人なり。
貴賎を簡ばず、悉くこれその器なり。
その器にして来たり鐘を扣(たた)けば、谷に則ち響あり。
妙薬、篋に盈てども嘗めずんば無益なり。珍衣、櫃に満てども著ざれば則ち寒し。
阿難、多聞なれども是とするに足りず。釈迦は精勤したもう。
伐柯(ばつか)は遠からず。代を挙げて皆然り。
悲しきかな、濁世の化仏は、所以に棄てて入りたまい、五千は所以に退せり。
毒鼓の慈、広くして無辺なりといえども、干将の誡め高うして、あるは淬(にら)ぐ。
師師の誥訓は慎まざる可からず。
子、もし三昧耶を越さずして、護ること身命の如く、四禁を堅持すること眼目に均しく愛し、
教えの如く観を修し、坎に臨んで積むこと有れば、則ち五智の秘璽も踵を旋らすと期すべし。
況んや乃ち髻中の明珠すら、誰かまた秘し惜しまん。努力自愛せよ。
還るに因り、ここに一二を示す。
釈遍照
伏して惟れば、止観の座主、法友の勝れたることは常なりと。
貧道の易く量るらくは、貧道と闍梨と契りて積むこと年歳有りと。
常に思わくは、膠漆の芳しさと、松柏の凋まざるとなり。
乳水の馥は芝蘭とともにいよいよ香ぐわし。
止観の羽翼を舒べて、高く二空(人法両空のこと)の上に翥(とびあが)り、
定慧の驥騮(きりゅう)を騁(は)せて遠く三有(三界のこと)の外に跨り、
多宝と座を分かちて、釈尊の法を弘む。
この心とこの契り、誰か忘れ誰か忍ばん。
然りといえども、顕教の一乗は公に非ざれば伝えず、
秘密の仏蔵はただ我が誓う所なり。
彼とこれと法を守って談話するに遑あらず。謂わざるの志、何れの日にか忘れん。
忽ち封緘を開いて具に覚る、理趣釈を覓むと。
然りといえども疑わくは、理趣は端多し、求むる所の理趣とは何れの名相を指すやと。
それ理趣の道、釈経の文は天も覆うこと能わざる所、地も載すること能わざる所なり。
塵刹の墨、河海の水、誰かよく敢えてその一句一偈の義を尽くすことを得んや。
自ら如来心地の力、大士の空の如き心に非ずんば、豈よく信解受持せんや。
余不敏なりといえども、略して大師(釈迦)の訓旨を示さん。
冀くは、子汝が智心を正し、汝が戯論を浄めて、理趣の句義と、密教の逗留とを聴け。
それ理趣の妙句は無量無辺不可思議なり。
広を摂めて略に従い、末を棄てて本に帰すに且三種あり。
一は可聞の理趣、二は可見の理趣、三は可念の理趣なり。
もし可見の理趣を覓むれば、見る可きは汝が四大等、即ちこれなり。
更に他の身辺に覓むるを須いざれ。
また次に三種あり。
心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣なり。
もし仏の理趣を求むれば、汝が心中の能覚の者、即ちこれなり。また諸仏の辺りに求むべし。
凡愚の所に覓むるを須いざれ。
もし衆生の理趣を覓むれば、汝が心中に無量の衆生あり。
それに随うて覓むべし。
また三種あり。
文字と観照と実相となり。
もし文字を覓むれば、則ち声の上の屈曲、即ちこれ不対不碍なり。
紙墨和合して文字を生ずるがごときは、彼の処にもまたあり。
また須らく筆と紙と博士の辺りに覓むべし。
もし観照を求むれば、則ち能観の心、所観の境なり。
色なく形なし。誰か取り誰か与えん。
もし実相を求むれば、則ち実相の理に名相なし。
名相なければ、虚空と冥会す。
彼の処にも空あり、更に外を用いざれ。
また所謂理趣釈経とは、汝が三密、即ちこれ釈経なり。
汝が身等は不可得、我が身等も不可得、誰か求め誰か与えん。
また二種あり。汝が理趣と我が理趣が、即ちこれなり。
もし汝が理趣を求むれば、則ち汝が辺に、即ち有り。
我が辺に求むるを須いざれ。
もし我が理趣を求むれば、則ち二種の我あり。
一は五蘊の仮我、二は無我の大我なり。
もし無我の大我を求むれば、則ち遮那の三密、即ちこれなり。
遮那の三密は、何処にか遍ねからざる。
汝が三密は、即ちこれなり。外に求むるべからず。
また余は、未だ知らず、公はこれ聖化なりや、凡夫に当たると為すや。
何の闕くる所か有りて、更に求覓を事とする。
もし権の故に求覓すれば、則ち悉達は外道に事え、文殊は釈迦に事えたるが如し。
もし実の凡なれば、則ちまさに仏の教えに随うべし。
もし仏の教えに随えば、則ち必ず須らく三昧耶を慎むべし。
越三昧耶すれば、則ち伝者と受者とともに無益なり。
それ、秘蔵の興廃は、ただ汝と我にあり。
汝はもし非法に受け、我は非法に伝うれば、則ち将来の法を求むる人は、何によりてか道を求むるの意(こころ)を知るを得ん。
非法の伝受は、これを法を盗むと名づく、即ちこれ仏を誑くなり。
また秘蔵の奥旨は、文を得ることを貴ばず。ただ心を以って心に伝うるなり。
文はこれ糟粕、文はこれ瓦礫、糟粕と瓦礫を受くれば、則ち粋実と至実とを失う。
真を棄てて偽を拾うは、愚人の法なり。
また古の人は道の為に道を求め、今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは、道を求むる志にあらず。
道を求むる志は、己を忘るる道法なり。
なお輪王の如きも仙に仕えたり。
途に聞き途に説くは、夫子もまた聴したまえども、時機応ぜざれば、我が師は黙然たり。
所以は何んとなれば、法はこれ思い難く、信心のみよく入る。
口は信じ修むると唱うれど、心は則ち嫌い退けば、頭ありて尾なし。
言いて行わざれば、信じ修むるが如きも信じ修むると為すに足らず。
始め淑にして終りは君子の人たるべし。
世人は宝女を厭うて卑賤を愛し、
摩尼を咲うて燕石緘み、偽龍を好んで真像を失い、
乳粥を悪んで鍮石を宝とし、
癭者はこれ左手を鑽るとは、則ちこれなり。
渭を別たざるもの、醍醐を誰か知らん。
面の妍媸)を知らんと欲せば、鏡を磨くにしかず。
金薬の有無を論ずべからず。
心海の岸に達せんと欲せば、船に棹さすにしかず。船と筏の虚実を談ずべからず。
毒箭を抜かずして空しく来処を問い、道を聞いて動かざれば千里を何にして見ん。
双の丸は以って鬼を却し、
一匕(さじ、の仙藥)、以って仙を得べし。
たとい千年、本草大素を読誦すれども、四大の病は何んがかつて除くことを得たる。
百歳、八万の法蔵を談論して、三毒の賊は寧ぞ調伏すべきや。
自ら海を酌むの信、鎚を磨くの士に非ざれば、誰かよく一覚の妙を信じ、三磨の難思を行修せん。
止みね止みね。舎(すてお)きね舎きね。吾、未だその人を見ず。
その人、豈遠からんや。信じ修れば、則ちその人なり。
もし信じ修ること有れば、男女を論ぜずして皆これその人なり。
貴賎を簡ばず、悉くこれその器なり。
その器にして来たり鐘を扣(たた)けば、谷に則ち響あり。
妙薬、篋に盈てども嘗めずんば無益なり。珍衣、櫃に満てども著ざれば則ち寒し。
阿難、多聞なれども是とするに足りず。釈迦は精勤したもう。
伐柯(ばつか)は遠からず。代を挙げて皆然り。
悲しきかな、濁世の化仏は、所以に棄てて入りたまい、五千は所以に退せり。
毒鼓の慈、広くして無辺なりといえども、干将の誡め高うして、あるは淬(にら)ぐ。
師師の誥訓は慎まざる可からず。
子、もし三昧耶を越さずして、護ること身命の如く、四禁を堅持すること眼目に均しく愛し、
教えの如く観を修し、坎に臨んで積むこと有れば、則ち五智の秘璽も踵を旋らすと期すべし。
況んや乃ち髻中の明珠すら、誰かまた秘し惜しまん。努力自愛せよ。
還るに因り、ここに一二を示す。
釈遍照