福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴『努力論』その9

2013-10-09 | 法話
修學の四標的

射を學ぶには的が無くてはならぬ、舟を行やるにも的が無くてはならぬ。路を取るにも的が無くてはならぬ。人の學を修め身を治むるにも亦的が無くてはならぬ。隨つて普通教育、即ち人々個々の世に立ち功を成す所以の基礎を與ふるところの教育にも、亦的が無くてはならぬ。又隨つて其の教育を受くるものに在つても、亦的とするところが無くてはならぬ。的無くして射を學べば、射の藝は空しきものになる。的無くして舟を行れば、舟は漂蕩して其の達するところを知らざることとなる。的無くして路を取れば、日暮れて驛うまやを得ず、身飢ゑて食を得ざることとなる。人にして的とするもの無ければ、歸するところ造糞機たるに止まらんのみである。教育にして的無く、教育を受くるものにして的とすべきところを知らざれば、讀書どくしよ※(「にんべん+占」、第4水準2-1-36)畢てんひつは、畢竟蚊虻の鼓翼に異ならず、雪案螢燈の苦學も、枉げて心を勞し身を疲らすに過ぎざるものであらう。然らば即ち基礎教育の的とすべきは、何樣どういふもので有らうか。又其の教育を受くるものの的として、眼まなこを着け心を注ぐべきは、何樣いふところで有る可きであらうか。
現今の教育は其の完全周浹しうせふなることに於て、前代の比す可きでは無い程度に發達して居る。其の善美精細なることに於いても、往時の及ぶべきにあらざる程度に進歩して居る。必ずしも智育に偏しては居ない。必ずしも徳育を缺いては居ない。必ずしも體育を懈つては居ない。教育家が十二分に教育方針を研究して、十二分に教育設備を圓滿になさんとして、努力して居る結果、殆ど容喙すべき餘地の無いまでに、一切は整頓して居るのが、現今の状態であるから、其の點に就ては、猶缺陷も有らうけれども、多く言はざるも可なりである。たゞ教育の標的が、最簡最明に擧示されて居らぬ。教育を受けるものも、明白に其の標的を自意識に上せて居らぬ如く見ゆるのは遺憾である。で、今其の點に就て少しく語らんと欲するのである。
もつとも教育の標的と云つても教育の精神と云つても宜しい教育勅語は、炳焉として吾人の頭上に明示されて居る。之を熟讀し爛讀して服膺すれば、萬事おのづから足るのであつて、別に更に予の如きものの絮説を要せぬのである。しかし予が別に言をなすものは、予の一片の婆心、已む能はざるに出づるのみであつて、固より勅語の外に別主張をなし、異意見を立つるが如き狂妄なことを敢てするのでは無く、ひそかに自ら我が言の必ず勅語と其の歸を同じうして違はざらんことを信じて居るのである。
予が教育及び教育を受くるもの若くは獨學師無くして自ら教ふるものの爲に、其の標的とせんことを奬むるものは僅に四箇の義である。標的たゞ四、其の題を稱ふれば、一口氣にして餘りあり、しかも其の義理、其の意味、其の情趣、其の應用に於けるや、滾々として盡きず、汪々として溢れんと欲するものがある。願はくは予は天下爲すあらんとするの人と共に、之を口稱心念して遺わすれざらんとするのである。
如何なるか是れ四箇の標的。一に曰く、正なり。二に曰く、大なり。三に曰く、精なり。四に曰く、深なり。此の四は是れ學を修め、身を立て、功を成し、徳に進まんとするものの、眼必ず之に注ぎ心必ず之を念ひ、身必ず之に殉したがはねばならぬところのものである。之を標的として進まば、時に小蹉躓あらんも、終に必ず大に伸達するを得べきは疑ふべくも無い。
正、大、精、深。是の如きは陳套である。今更點出して指示されずとも、我既に之を知れりと云ふ人も有らう。如何にも陳套である。新奇のことでは無い。併し修學進徳の標的としては、是の如く適切なものは無い。陳の故を以て斥け、新の故を以て迎ふるは、輕薄の才子と、淫奔の女子との所爲である。日照月曜は其久しきを以て人これに頼り、山峙河流は其常あるを以て人これに依り、三三が九、二五十の理は其の恆なるを以て人之を爭はぬのである。所謂大道理なるものは、其の行はるゝこと變ぜず、其の存すること誣ひ難きを以て、人之に信頼し、人之に依歸するのである。即ち愈々久しくして、愈々信ずべきを見、愈々古くして、愈々依るべきを見るのである。彼の毒菌のしふに生じ、冷・の朽くちきに燃ゆるが如き、※(「倏」の「犬」に代えて「火」)生忽滅して、常無きものは、其の愈々新にして愈々取るに足らず、愈々奇にして、愈々道いふに値せざるを見るのである。教育を受くるもの、若くは自ら教ふるもの等に對つて、新奇の題目を拈出し來つて其の視聽を驚かすが如きは、或は歡迎を受けるかも知れぬが其の實は事に益なきのみである。正、大、精、深の四標的、取り出し來つて奇無しと雖も、決して其の陳套の故を以て之を斥くべきでは無い。況んや又日月は舊しと雖も、實に朝暮に新しく、山河は老いたりと雖も、實に春秋に鮮あざらけく、三三が九、二五十の理は珍らしからずと雖も、實に算數の術日に新に開くるも、畢竟此の外に出でざるに於けるをや。之を思へば、此等皆愈々古くして愈々新あらたに、愈々易にして愈々奇なのである。正、大、精、深の四箇の事の如き、之を味へば味ひて窮り無く、之を取れば取つて竭きざるの妙が有る。如何ぞ之を新奇ならずとせんやである。
正とは中である。邪僻偏頗、詭※[#「言+皮」]傾側ならざるを言ふのである。學をなすに當つて、人に勝らんことを欲するの情の強きは、惡きことでは無い。しかし人に勝らんことを欲するの情強きものはやゝもすれば中正を失ふの傾きがある。人の知らざるを知り得、人の思はざるに思ひ到り、人の爲さざるを爲し了せんとする傾が生じて、知らず識らず中正公明のところを逸し、小徑邪路に落在せんとするの状をなすに至るものである。力めて之を避けて、自ら正しくせんとせざる時は、後に至つて非常の損失を招く。僻書を讀むのも、正を失つて居るのである。奇説に從はんとするのも、正を失つて居る。尋常普通の事は、都て之を面白しとせずして、怪詭稀有の事のみを面白しとするのも、正を失つて居るのである。たとへば飮食の事は、先づ善く其の飯を不硬不軟に作り得るを力むべきである。燕窩えんくわ鯊翅しやしの珍は、其の後に至つて之を烹※ほうがう[#「敖/火」、U+24385、88-12]すべきである。然るに只管珍饌異味を搜求して調理せんとし卻て日常の飯を作なすこと甚だ疎なるを致すが如きは、正しきを失つて居るのである。學をなすも亦然りで、學問の道もおのづから大門があり、正道があつて、師は之を教へ、世は之を示し、先づ坦々蕩々たる大道路を行かしめて、而して後人々の志すところに到らしめんとして居るのである。然るに好んで私見を立て、小智に任じ、傍門小徑を望んで走るのは、其の意蓋し惡むべからずと雖も、其の終や蓋し善からざるに至るのである。近來人皆勝つことを好むの心亢たかぶり、好んで詭※[#「言+皮」]の説を聽き、古往今來、萬人の行きて過たず、萬々人の行きて過たざるの大道路を迂なりとし、奮力向前して、荊棘滿眼、磊石填路の小徑を突破せんとするが如き傾がある。其の意氣は愛す可きも、其の中正を失へるは嘉よみす可からざる事である。學やや成つて後に、然樣さういふ路を取るならば、或は其の人の考次第で宜いかも知らぬが、それですら正を失はざらんとするの心が其の人に無くてはならぬのである。況んや書を讀んで未だ萬卷に達せず、識いまだ古今を照らすに及ばざる程の力量分際を以て、正を失はざらんとするの心甚だ乏しく、奇を追はんとするの念轉うたゝ盛んにして、たま/\片々たる新聞雜誌等の一時の論、矯激の言等に動かされ、好んで傍門小徑に走らんとするのは、甚だ危いことである。呉々も正を失はざらんとし、自ら正しくせんとするの念を抱いて學に從はねばならぬ。
大は人皆之を好む。多く言ふを須ひぬ。今の人殊に大を好む。愈々多く言ふを須ひぬ。然れども世或は時に自ら小にして得たりとするものあり。撼む可し善良謹直の青年の一派に、特に自ら小にするもの多きを。一二例を擧げんか、彼等の或者は曰く、予才拙學陋なり、たゞたま/\俳諧を好み、闌更に私淑す、願はくは一生を犧牲にして、闌更を研究せんと。或者は曰く、予詩文算數法醫工技、皆之を能くせず、たゞ心ひそかに庶物を蒐集するを悦ぶ。マツチの貼紙ペーパを集むる既に一年、約三五千枚を得たり。異日積集大成して、天下に誇らんと欲すと。是の如きの類、或は學者の如く、或は好事家の如く、或は畸人の如きものが甚だ少くない。別に又一派の青年が有つて、甚だ小さなことを思つて居る。或は曰く、予は大望無し、學成りて口を糊し、二萬圓を積むを得ば足れりと。或は曰く、予父祖の餘惠に依り、家に負郭の田數頃、公債若干圓あり、今學に從ふと雖も、學成るも用ひるところ無し、たゞ吾が好むところの書を讀み、畫を觀、費さず、得ず、一生を中人生活に送らんのみと。是の如きの類、或は卑陋の人の如く、或は達識の人の如きものも、亦甚だ少くない。此等は皆強て咎む可きでは無い。闌更を研究するも可、マツチのペーパを蒐むるも可、身を低くして財を積むも可、徒坐して徒死するも、犯罪をするに比して不可は無い。されども學を修むるの時に當つて、是の如くにして我が學ぶところを限り、毫も自ら大にせんとするの念無きは、甚だ不可である。苟も學に從ふ以上は常に自ら自己を大くしようと思はねばならぬ。浪りに大望野心を懷くべきを勸むるのでは無い。闌更の研究、マツチのペーパの蒐集を廢せよといふのでは無い。たゞ是の如きことは、學成り年やゝ長たけて後、之を爲すも可なりである。學に從つて居る中は、力めて限界を擴大し、心境を開拓し、智を廣くし、識を多くし、自ら自己を大になさんことを欲せなければならぬ。
七歳八歳の時に、努力して僅に擡あぐるを得たる塊石も、年長じ身大なるに至つては、容易に之を擡ぐるを得るものである。七歳八歳の我が、十五歳二十歳の我に及ばざりしは、明白である。此故に青年修學時代の我が、他日壯歳にして、學やゝ成れる頃の我に及ばざるも亦明白である。然らば今の我を以て、後の我を律せんよりは、今はたゞ當面の事に勉め、學んで而して習はんのみで、何を苦んで自ら小にし、自ら卑しくし、自ら劃り、自ら狹くするを要せんやである。修學の道最も自ら小にするを忌む、自尊自大も、亦忌むべきこと勿論であるが、大ならんことを欲し、自ら大にすることを力めるは最も大切なことである。人學べば則ち漸く大、學ばざれば則ち永く小なのであるから、換言すれば學問は人をして大ならしむる所以だと云つても宜い位である。決して自ら劃つて小にしてはならぬ。自ら自己をば眞に大ならしめんとして力めねばならぬ。
大には廣の意味を含んで居る。今や世界の知識は、相混淆し相流注して、一大盤渦を成して居るのである。此時に當つて、學を修むるものは、特に廣大を期せねばならぬ。眼も大ならねばならぬ。膽も大ならねばならぬ。馬を萬仭の峯頭に立てて、眼に八荒を見渡すの氣概が無くてはならぬ。大千世界を見ること、掌中の菴羅果あんらくわの如くすといふ程の意氣が無くてはならぬ。一卷の蠧書としよに眼睛を瞎卻かつきやくされて、白首皓髯、猶机を離れずといふやうではならぬ。これも亦須らく大の一字を念じて、然樣さやうな境界を脱し得なければならぬのである。
精の一語は之に反對する粗の一語に對照して、明らかに解し知るべきである。卑俗の語のゾンザイと云ふは精ならざるを指して言ふので、精は即ちゾンザイならざるものをいふのである。物の緻密を缺き、琢磨を缺き、選擇おろそかに、結構行き屆かざる類は、即ち粗である。米の精白ならず、良美ならず、食ひて味佳ならず、糟糠いたづらに多きが如きは、即ち粗である。之に反して物の實質の善く緻密にして、琢磨も十分に、選擇も非ならず、結構も行屆きて居る類は即ち精である。米の糟糠全く去り除かれ、良美にして精白、玉のごとく、水晶の如く、味ひて其の味も佳なるものは、即ち精である。精の一字を與へて之を評すべき机ありと假定すれば、其の机は必ずや之に對する人をして滿足を感ぜしむるのみならず、又必ずや長く保存され、長く使用に堪へ得るものたるに相違無い。如何となれば、其の材の選擇に、十分の注意が拂はれて居るならば、乾※けんしふ[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、92-2]に遇ひて、忽ち反つたり裂けたり歪んだり縮んだりするやうなことも無からうし、結構に十分の注意が拂はれて居るならば、少々位の撞突衝撃を受けても、忽ちにして脚が脱したり、前板や向板が逸はづれて、バラ/\に解體して仕舞ふやうな事も無からうし、又實質が緻密であるならば、鬆疎のもののやうに脆弱でも有るまいから、自然と傷つき損ずる事も少なかろうし、琢磨が十分ならば、外觀も人の愛好珍重を買ふに足りるだけの事は有らうから、乃ち長く使用さるゝに堪へ、長く保存さるゝに至り、そして人をして恆に滿足を感ぜしむる丈のことは、おのづからにして其處に存在するで有らう。米も亦然りで、若し精の一語を以て評すべきやうの米ならば、米としては十分なる價値を有して居るもので有らう。これに反して粗の一語を以て評すべきやうの机あらば、其の机は之に對する人をして、不滿足を感ぜしめ、不快を覺えしむるのみならず、幾日月の使用にも堪へずして、破損して廢物となるに至るであらう。如何となれば材料實質が惡くて、結構も親切ならず、琢磨も行屆かぬものならば、誰しも之を取扱ふに愛惜の情も薄らぐで有らうし、物それ自身も、少々の撞突衝撃にあつても直に損ずるで有らうから、さういふ運命を現ずるも必然の勢である。米もまた然りで、其の粗なるものは、卻つて他の賤しい穀物の精なるものには劣る位である。何によらず精粗の差たるや實に大なりである。學問の道にも、精粗の二つがある。勿論其の精を尚ぶのである。其の大ザツパで、ゾンザイであるのをば、斥けねばならぬのである。
併し机や米に對しては、誰しも精の一語を下して其の製作を評されたり、其の物を評されたりするやうなものを可とするが、學問に於ては時に異議あることを免れない。と云ふものは古からの大人や偉才が、時に精と云ふことには反するやうな學問の仕方を爲したかの如く見ゆることが有るので、後の疎懶の徒が、やゝもすれば之に藉口して、豪傑ぶつたことを敢て放言して憚らぬところより、おのづからにして精を尚ばぬ一流を生じて居るからである。併しながら其主張は、誤解から來て居るものが多い。
精を尚ぶことをせぬ徒の、やゝもすれば口にすることは、句讀訓詁の學なぞは、乃公おれは敢てせぬといふのが一つである。成程句讀訓詁の學は、學問の最大要用なことでは無いに相違無いけれども、古の人が句讀訓詁の學をなすことを欲しなかつた點に就ては、其の志の高くして大なるところに倣ふべきで有つて、其の語があるから句讀訓詁なぞは何樣どうでもよいと思ふのは間違ひである。句讀訓詁の學をなして、たゞ句讀訓詁に通ずるを以て足れりとし、句讀訓詁の師たるに甘んずるやうなる學問の仕方を爲したなら、其は非で有らう。併し句讀訓詁を全然顧みないでは、何を以て書を讀みて之を解し悟るを得んやである。句讀訓詁に沒頭して仕舞ふのは、勿論非である。句讀訓詁なぞは、と豪語してゾンザイな學風を身に浸みさせて仕舞ふのも決して宜しくはない。字以て文を載せ、文以て意を傳ふる以上は、全く句讀訓詁に通ぜずして、抑※(二の字点、1-2-22)亦何を學ぶを得んやである。文辭に通ぜざるは弊を受くる所以である。徂徠先生の如き豪傑の資を以て、猶且つ文辭に呶々するものは、實に已むを得ざるものが有るからである。
假に句讀訓詁を事とせざるは可なりとするも、書を讀んで句讀訓詁を顧みざるが如き習慣を身に帶ぶるに及んでは、何事を爲すにも、粗笨にして脱漏多く、違算失計、甚だ多きを致すを免れざるものである。事を做すに當つて、違算失計多きを惡まざるの人は、世に存せずと雖も、習癖既に成れば、之を脱するは甚だ難きものである。句讀訓詁を事とせざるは或は可なるも、事を做すに精緻を缺いて、而も之を意とせざるの習を身に積むは、百弊あつて一利無きことである。況んや學問日に精緻を加ふるは、今日の大勢である。似而非豪傑流の習慣は、決して身に積まざるやうにと心掛けねばならぬ。句讀訓詁を事とせよといふのでは無いが、學をなすには精を尚ばねばならぬといふのである。
學問精密なることを尚ばぬ徒の、やゝもすれば據りどころとするのに、諸葛孔明が讀書たゞ其の大畧を領した、といふことも亦其の一つである。陶淵明が讀書甚だ解するを求めずと云つたと云ふのも、亦其の一つである。淵明は名家の後であつて、そして如何とも爲し難き世に生れた人である。其の人一生を詩酒に終つて仕舞つたのである。情意甚だ高しと雖も、其の幽致は、直に取つて以て庸常の人の規矩とし難きものがある。まして不求甚解とは、粗漏空疎で可いと云つたのでは無い。甚解と云ふことが不妙なのである。それで甚解を求めざるのである。學問讀書、細心精緻を缺いて可なりとしたのでは無い。孔明の大畧を領すといふのも、領すといふところに妙味があるのである。何樣どうして孔明の如き人が、※※こつりん[#「囗<勿」][#「囗<侖」]※※(「にんべん+同」)ろうどう[#「にんべん+龍」]の學をなすものでは無い。孔明といふ人は、身漸く衰へ、食大に減じた時に當つても、猶自ら吏事を執つた位の人で、盲判を捺すやうな宰相では無かつた。それで敵の司馬仲達をして、『事多く食少し、それ豈久しからんや』と其の死を豫想せしめた程に、事を做す精密周到で、勞苦を辭さなかつた英俊の士である。其の孔明が書を讀み學を治むるに當つて、ゾンザイな事などを敢てしたと思うては大なる誤謬である。庸人の書を讀むや、多くは枝葉瑣末の事を記得して、卻つて其の大處を遺わするゝのである。孔明に至つては、その大畧を領得したのである。淵明や孔明の傳に是の如きあるを引き來つて、學を爲す精ならざるも可なるかの如くに謂ふものは、すなはち其の人既に讀書不精の過に落在してゐるのである。精は修學の一大標的とせねばならぬ。
殊に近時は人の心甚だ忙しく、學を修むるにも事を做すにも、人たゞ其の速ならんことを力めて、其の精ならんことを期せぬ傾がある。これもまた世運時習の然らしむるところであつて、直ちに個人を責むることは出來ないのである。併し不精といふことは、事の如何にかゝはらず、甚だ好ましからぬことである。箭を造る精ならずんば、何ぞ能く中るを得んやである。源爲朝養由基やういうきをして射らしむるも、※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)やがら直からず、羽整はずんば、馬を射るもまた中らざらんとするのは、睹易き道理である。學問精ならざる時は、人をあやまるのみである。
『一事が萬事』といふ俗諺の教ふる如く、學を修むるものにして、苟も學の精なるを力めざるが如くんば、其の人萬事の觀察施設、皆精ならずして、世に立ち事に處するに當つても、自ら過を招き失を致すこと、蓋し多々ならんのみである。
之に反して、學問其の精ならんことを力むるに於ては、萬事に心を用ひる。また自ら精なるを得て知らず識らずの間に、多く智を得、多く事を解するに至り、世に立ち事に處するに當つても、おのづから過を招き失を致すこと、蓋し少かるを得べきである。フアラデーの電氣諸則を發見せるも、ニユートンの引力を發見せるも、世の※(「耳+貴」、第4水準2-85-14)々くわい/\者しや流りうは、之を偶然に歸するが、實は精の功これをして然るを得せしめたので、學に精に、思に精に、何事にもゾンザイならず、等閑なほざりならざる習慣の、其の人の身に存し居りたればこそ、是の如き有益の大發見をもなし出したるなれ、と云ふのが適當である。ニユートンの如きは、現に自ら『不斷の精思の餘に之を得たり』と云つて居るでは無いか。およそ世界の文明史上の光輝は、皆精の一字の變形ならざるもの無し、と云つても宜い位である。
深は大とは其のおもむきが異なつて居るが、これもまた修學の標的とせねばならぬものである。たゞ大なるを努めて、深きを勉めなければ、淺薄となる嫌がある。たゞ精なるを勉めて、深きを勉めなければ、澁滯拘泥のおそれがある。たゞ正なるを努めて、深なるを勉めなければ、迂闊にして奇奧なるところ無きに至る。井を鑿る能く深ければ、水を得ざること無く、學を做す能く深ければ、功を得ざることは無い。學を做す偏狹固陋なるも病であるが、學を做す博大にして淺薄なるも、また病である。たゞ憾むべきは其の大を勉むる人は、多くは其の深きを得るに至らざることである。
しかし人力はもとより限有るものであり、學海は※(「水/(水+水)」)茫べうばうとして、廣闊無涯のものであるから、百般の學科、悉く能く深きに達するといふ譯に行かぬのは無論である。故に、深を標的とする場合は、自ら限られたる場合で無ければならぬ。一切の學科に於て、皆其の學の深からんことを欲すれば、萬能力を有せざる以上は、其の人の神疲れ精竭きて、困悶斃死を免れざらんとするのが數理である。深は此の故に其の專攻部面にのみ之を求むべきである。濫りに深を求むれば、狂を發し病を得るに至るのである。
たゞ人々天分に厚薄があり、資質に強弱は有るけれども、既に其の心を寄せ念を繋かくるところを定めた以上は、其の深きを勉めなければ、井を鑿して水を得るに至らず、いたづらに空坎くうかんを爲す譯である。甚だ好ましからぬことであると云はなければならぬ。何處までも深く/\力め學ばねばならぬのである。天分薄く、資質弱く、力能く巨井を鑿つに堪へざるものは、初めより巨井を鑿せんとせずして、小井を鑿せんことをおもふやうに、即ち初めより部面廣大なる學をなさずして、一小分科を收むるが可い。分薄く質弱しと雖も、一小科を收むれば、深を勉めて已まざるや、能く其の深きを致し得て、而して終に功あるを得べき數理である。たとへば純粹哲學を學得せんとするや、其の力を用ひる甚だ洪大ならざるを得ざるも、某哲學者を擇んで其の哲學を攻究せんとすれば、部面おのづからにして其の深きを致し易きが如き理である。美術史を攻をさむるを一生の事とすれば、其の深きを致さんこと甚だ易からざるも、一探幽、一雪舟、一北齋を攻究せんとすれば、質弱く分薄きものも、亦或は能く他人の遽に企及し易からざる深度の研究を爲し得べきやうの數理である。此故に深の一標に對しては人々個々によりて豫め考へねばならぬ。が、要するに修學の道、其のやゝ普通學を了せんとするに際しては、深の一標に看到つて、そして豫め自ら選擇するところが無ければならぬ。而して學問世界、事業世界のいづれに從ふにしても、深の一字を眼中に置かねばならぬことは、苟も或事に從ふものの皆忘れてはならぬところである。
以上述べたところは何の奇も無いことであるが、眼に正、大、精、深、此の四標的を見て學に從はば、其の人蓋し大過無きを得んとは、予の確信して疑はぬところである。
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