以下真言傳
「權僧正心誉は富小路右大臣右衛門左重輔の男なり。寛弘二年十二月十六日、灌頂を智静僧正に受く。長元元年に權僧正を授けらる。同年三井寺の長吏に補す。道長法成寺入道大相国、高野山に昇って弘法大師の廟室にして法華経等を供養せらる(治安三年十月十七日。注1)。僧正未だ小僧都たりし時、導師す。弘法・智証両大師、氏族相同じ、三井の門徒なり。門に異なるべきよし仰せられて導師に用ひられてけり。万壽三年の夏、後一条院、御薬の事あり。五月五日より五壇法を行はる。中壇は心誉僧正也。同二十六日、降三世以下の四壇結壇すと雖も、中壇独り留まりて祈り奉る。玉體すでに尋常なり。
是れ僧正の験徳なり。三条院の御眼、くらくおはします間、心誉をめして加持し奉る所に、民部卿・元方卿並に賀静僧都の霊 顕る。賀静申して云ふ、天台座主を贈らるべしと、然れども議ありて座主をば贈られず僧正を贈せる。是長和四年六月十九日なり。高陽院作事の間、宇治関白藤原頼道、騎馬にて御覧じ廻り給ひて後、たふれて心地違例したまひけり。此の僧正にいのらせんとてめしにつかはすほどに、少女に物つきて申して云ふ、別事なし、もの目を見入り奉るによりて如是におはすなり。僧正参ぜざる先に護法さきだちて参りて、追い払ふによりて逃げ去りぬ、と申す(注2)。則ち心地なほり給ひにけり。こはき物の気、わたらさる時々、しばらく目を閉じて観心に入りければ、邪気たちどころにわたる。後に人の問ひ申しければ、止観に先徳の示さる文の侍にこそこれを思へあbわたるなりとぞいはれける。
年来阿弥陀の法を行じて、順次の往生を願ふ。暮に至るごとに西に向ひて「但だ佛の名、二菩薩名を聞くすら、無量劫生死の罪を除く」の文を誦じて(『観無量壽経』に「もし善男子・善女人、仏の名、二菩薩の名を聞くすら、無量劫の生死の罪を除く。何にいわんや憶念せんをや。もし念仏せん者は、まさに知るべし。この人は、これ人中の分陀利華ふんだりけなり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友しょううとなる。まさに道場に坐すべきをもって、諸仏の家に生ずべし」)常に悲涙をのごふ。長元二年1029八月十二日、西に向て合掌し、「但だ佛の名・・」の文を唱てねぶるがごとく入滅す。年八十九。」
(注1、扶桑略記「(治安三年十月)同十七日丁丑。入道前大相国紀伊国金剛峯寺に詣づ。則ち是れ弘法大師の廟堂也。路次に七大寺并びに所々名寺を拝見す。相従ふ人等、内相府(教通)、并びに民部卿(俊賢)、中宮権大夫(能信)、修理権大夫長経朝臣、前備後守能通、前肥後守公則、散位隆佐、左衛門大尉宗相、散位範基、兵部大丞源致佐、右衛門権少尉真重、同高平、前権少僧都心誉、前権少僧都永円、権少僧都定基、権少僧都永照、三会已講教円等、都(すべ)て十六人、緇素轡を並べ、共に以て前駆す。巳の時、宇治殿に御す。膳所、御膳を供す。次に東大寺に留宿す。」)
(注2。宇治拾遺物語(巻一 九)にも心誉僧正の霊験あらたかなことが出ています。
「宇治殿倒れさせ給ひて実相房僧正験者に召さるる事」
これも今は昔、高陽院造らるる間、宇治殿、御騎馬にて渡らせ給ふ間、倒れさせ給ひて心地違はせ給ふ。「心誉僧正に祈られん」とて召しに遣はすほどに、いまだ参らざる先に、女房の局なる女に物憑きて申していはく、「別の事にあらず。きと目見入れ奉るによりて、かくおはしますなり。僧正参られざる先に、護法先だちて参りて追ひ払ひ候へば、逃げをはりぬ」とこそ申しけれ。すなはち、よくならせ給ひにけり。心誉僧正いみじかりけるとか。
( これも今は昔、宇治殿こと藤原頼通が、高陽院(かやのいん)の建設現場へ馬でお越しになった時、不意に倒れ、人事不省に陥った。心誉僧正に祈願をしてもらおうと、呼びにやったところ、僧正より先に、宇治殿お付の女性に憑きものが降りた。その女性がいうには、
「何でもありません、ちょっと魅入ってみただけです。僧正がお越しになるより先に、
わたくしこと護法童子が悪霊を追い払いましたので、もう大丈夫です。」
そう告げたと思うと、宇治殿の加減はすぐに良くなられた。)
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