福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は建国記念日(紀元節)です

2024-02-11 | 法話

今日は建国記念日(紀元節)です。皇紀二千六百八十年にあたります。
紀元節は、日本書紀に「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歲為天皇元年(辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す。)」とあることから定められています。(この年の春正月(立春)に一番近い庚辰日はグレゴリオ暦換算では2月11日に当たり、日本の建国記念の日の由来となっている、ということです
これについて様々な批判があります(例えば以下に和辻哲郎が「古来、神武帝をもとに年号を定める習わしは日本にはなかった。歴史書はすべて天皇の元号で記録されてきている。明治6年に明治政府が無理やり定めたものである」と書いています(注1))。この明治政府批判は大部分同意しますが、しかし紀元節に関しては和辻に同意できかねます。日本国が建国以来何年経っているかをわかりやすく感じさせ、国民に一体感を持たせるという意味では大変有意義なものと思います。



(注1)「日本古来の伝統と明治維新後の歪曲について(和辻哲郎)」
「明治維新が尊王攘夷の標語のもとに達せられながら幕府を倒した維新政府が直ちに幕府と同様の開国主義に転じたことは周知のとおりである。・・攘夷派の主張が結局討幕の為の策略に過ぎなかった・・。しかし攘夷のほうはともかくとして尊王の立場が維新後に持続され一層力強く主張されていったことも周知のとおりである。特に維新直後は平田派の国学者を中心として著しくファナテックな尊王主義者が勢力をもっていた。大教宣布の運動(明治3年1月3日に、天皇に神格を与え神道を国教と定め大日本帝国を祭政一致の国家とする詔書を出させた)などがその現れである。・・その結果として千数百年にわたる日本の歴史的伝統とは異なるさまざまな現象が天皇崇拝の立場と結びついて現れてきた。紀元節とか宮城とか大元帥とかいふものは皆そうである。・・これらは日本の古い歴史的伝統と係りがないばかりでなくむしろ歴史的伝統とは相いれない点を持つものである。・・
紀元節は明治5年の太陽暦採用に関連して明治6年から考え出されたことであってそれ以前の日本人はかって考えたこともなかった。・・続日本紀では巻二の大宝元年以降年はすべて元号を以て記しているがその後はずっと千二百余年後の昭和時代に至るまでその風が続いている。・・以上の如きが日本の伝統であって一一年の位置は天皇の名或いは元号と結びついて定まることになっている。神武天皇即位の年を紀元元年としそれを規準としてその後の年を数えるというようなことはわれわれの祖先のかって考えもせず況や実行もしなかったところである。・・維新政府が紀元節を重大視したのは・・明治維新が武力を以て達成されたといふことと関係のある問題である。・・聖徳太子の憲法とか大宝養老の律令とかに示された天皇統治の理想によると、天皇はあくまで徳を以て治むべきものであって武力の上に立つべきものではなかった。武力は国を守るに必要であるがしかし政治の手段とすべきものではなかった。・・しかし武力を以て幕府を倒した「武士」たちは・・天皇の統治の理想など顧みず、神武東征の伝説の主人公すなわち遠征軍の指揮者神武天皇を我が国の建国者として特別に重んずるという態度をとったのである。・・もし年数の通計を併せて記憶したいというのであるならばここに西暦を参照した方がはるかに便利である・・紀元節の設定が王政復古は王朝への復古でなく神武時代への復古であるという主張、すなわち天皇を軍隊の最高指揮者大元帥たらしめようとする思想と連関しているように、江戸城を皇居たらしめそれを「宮城」と称したことも天皇を将軍の位置に据え大元帥にふさわしい体制を取るということと密接に関連しているように思われる。・・「宮城」という言葉が皇居を意味するようになったのは明治初年特有の現象であって日本の古来の伝統にかってないことなのである。・・皇居は久しい間、内裏・禁裏・大内などと呼ばれていた。・・防備を施した城郭ではなくただの建築であった。・・御所としての根本の形態は全然無防備の木造建築であっって・・・(それ以降も)皇居と武将の居城とは日本においては意識的に区別されていた。・・・(江戸遷都により)武将の城、武備によって・・これらはあくまで権力を誇示する城が突如として皇居とされそれが続いている間にいつのまにか皇居が「宮城」に変質していった。この変質と同時に天皇の将軍化、大元帥化がおこなわれ天皇は軍服姿で国民の前に現れるようになった。これらはあくまで明治維新後の現象であってそれ以前千数百年にわたる日本の伝統には全然見られなかったことである。・・京都御所の担っている意味、即ちあくまでも「武備」を持たない、最高のみやびの場所としての内裏の意味は(武力闘争によって幕府を倒した新政府には理解できなかった)。・・」


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