福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「我が国の万邦にまさること(慈雲尊者「神儒偶談」より大意)」

2018-12-14 | 法話
「我が国の万邦にまさること(慈雲尊者「神儒偶談」より大意)」
「論語に「君君たり、臣臣たり」と。(顔淵第十二の十一に「斉の景公、政を孔子に問う。孔子対えて曰わく、君(きみ)、君たり、臣(しん)、臣たり、父(ちち)、父たり、子(こ)、子たり。公の曰わく、善いかな。信に如し君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖も、吾豈に得て諸れを食らわんや。」・・・君臣の道が乱れては政治にならないの意味。)父子は恩によって住み、家の大本をなすものであり、君臣は義をもって本としており、國の紀綱である。この君臣の道をいえば我が国は万邦に勝っている。包羲(伏羲)氏八封を画せしより、・・その包羲没して神農氏起こる、神農氏没して黄帝軒轅氏おこる。堯に至って天下を舜に譲る。中庸章句序に「則ち允(まこと)に厥()の中を執れというは、堯の以て舜に授くる所なり。・・(まことにその真ん中を執れというのは、舜が禹に禅譲した時の教えである)。」とある。この(中庸をとれ)という教えは道のあるところを教えているというべきであろう。しかしこれは万邦に通じる道ではない。・・堯には丹朱という息子を始め9男がいたのであるから舜を摂政とすれば優秀な子孫を後継者とできたはずである。臣下を帝位に就けたというのは中庸とはいえまい。舜の子、商均は不肖であったため、禹は、舜の子で ある商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった。禹が帝位についたが久しからずして羿(げい)は、夏に対して反乱を起こし、夏の領土を奪ったがさらに羿は寒浞(かんさく)という奸臣に国土を奪われることになる。しかし我が国は、天孫瓊瓊杵尊のつぎはその子、彦火火出見尊、更にその子の鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と子子孫孫と皇位をついで万民を育撫し、万万世にも君臣綱常の乱れざるに比すれば我が国は支那に勝りて君臣綱紀乱れざる国にあることを知る。(中国は古来王朝が変わる毎に歴史が塗り替えられる、我が国は萬世一系である。)」
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