原文「
問う。陀羅尼は、是れ如来の秘密語なり。(とう。だらには、これにょらいのひみつごなり。
所以に、古の三蔵、諸の疏家、皆口を閉じ、筆を絶つ。(このゆえに、いにしえのさんぞう、もろもろのしょけ、みなくちをとじ、ふでをたつ。
今、この釈を作る、深く聖旨に背けり。(いま、このしゃくをつくる。ふかくしょうしにそむけり。
如来の説法に二種有り、一には顕、二には秘なり。(にょらいのしょほうににしゅあり、ひとつにはけん、ふたつにはひなり。
顕機の為には、多名句を説き、秘根の為には、総持の字を説く。(けんきのためには、たみょうくをとき、ひこんのためには、そうじのじをとく。
この故に、如来自らア字オン字等の種種の義を説きたまえり。(このゆえに、にょらいみずからあじおんじとうのしゅじゅのぎをときたまえり。
是れ則ち秘機の為に、この説を作す。(これすなわちひきのために、このせつとなす。
龍猛・無畏・広智等もまた、その義を説きたもう。(りゅうみょう・むい・こうちらもまた、そのぎをときたもう。
能不の間、教機に在り。(のうふのかん、きょうきにあり。
之を説き、之を黙する、並びに仏意に契えり。(これをとき、これをもくする、ならびにぶっちにかなえり。
問う。顕密二教、その旨、天に懸なり。(とう。けんみつにきょう、そのむね、はるかにはるかなり。
今この顕経の中に、秘義を説く、不可なり。(いまこのけんきょうのなかに、ひぎをとく、ふかなり。
医王の目には、途に触れて、皆薬なり。(いおうのめには、みちにふれて、みなくすりなり。
解宝の人は、礦石を宝と見る。(げほうのにんな、こうしゃくをたからとみる。
知ると知らざると、何誰が罪過ぞ。(しるとしらざると、たれがざいかぞ。
またこの尊の真言儀軌観法は、(またこのそんのしんごんぎきかんぽうは、
仏、『金剛頂』の中に説きたまえり。(ほとけ、『こんごうちょう』のなかにときたまえり。
此れ、秘が中の極秘なり。(これ、ひがなかのひなり。
応化の釈迦は、給孤園に在して、(おうけのしゃかは、きつおんにいまして、
菩薩・天人の為に、画像・壇法・真言・手印等を説きたもう。(ほさつ・てんにんのために、がほう・だんぽう・しんごん・しゅいんとうをときたもう。
また是れ秘密なり。(またこれひみつなり。
陀羅尼集経第三巻、是れなり。(だらにじっきょうのだいさんのまき、これなり。
顕密は人に在り、声字は、即ち非なり。(けんみつたにんにあり、しょうじは、すなわちひなり。
然れども猶、顕が中に秘、秘が中の極秘なり。(しかれどもなお、けんがなかのひ、ひがなかのごくひなり。
浅深重重まくのみ。(せんじんじゅうじゅうまくのみ。
訳・・・
質問する者がいう。
「陀羅尼は、仏の秘密の言葉である。
そのために、古来の鳩摩羅什や玄奘などの顕教の翻訳三蔵たちや、窺基、法蔵等疏釈を書いた祖師たちが、詳しく論じることを避けて、執筆することもなかったのである。
いま、この陀羅尼に注釈をほどこしたことは、仏の御心に甚だしく背くものではないか。」
答えていう。
「そうではない。仏の教えに、二種類ある。第一は、顕教であり、第二は、密教である。
顕教えによってさとる者のためには、多くの言葉や文句を費やして説法し、密教によってさとる者のためには、一字に千里を含む陀羅尼を説くのである。
この故に大日如来は、ア字、オン字(梵字表記)などのさまざまの秘密の意味をお説きになったのである。(大日経等の密教経典で)
これはすなわち、密教により悟る資格をもつもののためには、秘義も説かれたということである。
密教の祖師たち、たとえば龍猛は「菩提心論」で、善無畏は「大日経疏」で・不空は「仁王般若陀羅尼釈」で真言を釋している。
仏が法を説いたり、あるいは黙していたりする違いは、ひとえにそれを受け取る側にかかっているのである。
だから、陀羅尼を説くことも、説かないことも、いずれも仏のみ心にかなっているのである。」
再び質問者が問う。
「顕教と密教の二つの教えは、その主旨がはるかにかけはなれている。
いま、『般若心経』という顕教の経典の中に、密教の意味を論じているが、それは不可能なことである。」
答えていう。
漢方に優れた人の人の目から見れば、道端の雑草に薬草に見る。
宝石を見分ける者には、路傍の石に宝石を見る事ができる。
これを密教経典と理解できるか、できないかは、心経の咎ではない、理解できないものの咎である。
そうであればこそ、般若菩薩の真言・修法・観想について法身如来が金剛頂経に属する『修習般若波羅蜜菩薩観行念誦儀軌』に説かれているのである。
さらに応化身の釈迦如来も祇園精舎において菩薩や天人のために、仏たちの像や、曼荼羅の作法、真言、印等について「陀羅尼集経・第三巻」に説かれた。これもまた、秘密の経である。
顕教と密教の相違は、教えを受ける側の人によるのであって、経文に、違いはない。
しかし、顕教の中にも陀羅尼のような秘密があり、密教の中にも秘と極秘がある。
このように秘密にも浅深があり、教えは幾重にも重なりあっているのである。」
問う。陀羅尼は、是れ如来の秘密語なり。(とう。だらには、これにょらいのひみつごなり。
所以に、古の三蔵、諸の疏家、皆口を閉じ、筆を絶つ。(このゆえに、いにしえのさんぞう、もろもろのしょけ、みなくちをとじ、ふでをたつ。
今、この釈を作る、深く聖旨に背けり。(いま、このしゃくをつくる。ふかくしょうしにそむけり。
如来の説法に二種有り、一には顕、二には秘なり。(にょらいのしょほうににしゅあり、ひとつにはけん、ふたつにはひなり。
顕機の為には、多名句を説き、秘根の為には、総持の字を説く。(けんきのためには、たみょうくをとき、ひこんのためには、そうじのじをとく。
この故に、如来自らア字オン字等の種種の義を説きたまえり。(このゆえに、にょらいみずからあじおんじとうのしゅじゅのぎをときたまえり。
是れ則ち秘機の為に、この説を作す。(これすなわちひきのために、このせつとなす。
龍猛・無畏・広智等もまた、その義を説きたもう。(りゅうみょう・むい・こうちらもまた、そのぎをときたもう。
能不の間、教機に在り。(のうふのかん、きょうきにあり。
之を説き、之を黙する、並びに仏意に契えり。(これをとき、これをもくする、ならびにぶっちにかなえり。
問う。顕密二教、その旨、天に懸なり。(とう。けんみつにきょう、そのむね、はるかにはるかなり。
今この顕経の中に、秘義を説く、不可なり。(いまこのけんきょうのなかに、ひぎをとく、ふかなり。
医王の目には、途に触れて、皆薬なり。(いおうのめには、みちにふれて、みなくすりなり。
解宝の人は、礦石を宝と見る。(げほうのにんな、こうしゃくをたからとみる。
知ると知らざると、何誰が罪過ぞ。(しるとしらざると、たれがざいかぞ。
またこの尊の真言儀軌観法は、(またこのそんのしんごんぎきかんぽうは、
仏、『金剛頂』の中に説きたまえり。(ほとけ、『こんごうちょう』のなかにときたまえり。
此れ、秘が中の極秘なり。(これ、ひがなかのひなり。
応化の釈迦は、給孤園に在して、(おうけのしゃかは、きつおんにいまして、
菩薩・天人の為に、画像・壇法・真言・手印等を説きたもう。(ほさつ・てんにんのために、がほう・だんぽう・しんごん・しゅいんとうをときたもう。
また是れ秘密なり。(またこれひみつなり。
陀羅尼集経第三巻、是れなり。(だらにじっきょうのだいさんのまき、これなり。
顕密は人に在り、声字は、即ち非なり。(けんみつたにんにあり、しょうじは、すなわちひなり。
然れども猶、顕が中に秘、秘が中の極秘なり。(しかれどもなお、けんがなかのひ、ひがなかのごくひなり。
浅深重重まくのみ。(せんじんじゅうじゅうまくのみ。
訳・・・
質問する者がいう。
「陀羅尼は、仏の秘密の言葉である。
そのために、古来の鳩摩羅什や玄奘などの顕教の翻訳三蔵たちや、窺基、法蔵等疏釈を書いた祖師たちが、詳しく論じることを避けて、執筆することもなかったのである。
いま、この陀羅尼に注釈をほどこしたことは、仏の御心に甚だしく背くものではないか。」
答えていう。
「そうではない。仏の教えに、二種類ある。第一は、顕教であり、第二は、密教である。
顕教えによってさとる者のためには、多くの言葉や文句を費やして説法し、密教によってさとる者のためには、一字に千里を含む陀羅尼を説くのである。
この故に大日如来は、ア字、オン字(梵字表記)などのさまざまの秘密の意味をお説きになったのである。(大日経等の密教経典で)
これはすなわち、密教により悟る資格をもつもののためには、秘義も説かれたということである。
密教の祖師たち、たとえば龍猛は「菩提心論」で、善無畏は「大日経疏」で・不空は「仁王般若陀羅尼釈」で真言を釋している。
仏が法を説いたり、あるいは黙していたりする違いは、ひとえにそれを受け取る側にかかっているのである。
だから、陀羅尼を説くことも、説かないことも、いずれも仏のみ心にかなっているのである。」
再び質問者が問う。
「顕教と密教の二つの教えは、その主旨がはるかにかけはなれている。
いま、『般若心経』という顕教の経典の中に、密教の意味を論じているが、それは不可能なことである。」
答えていう。
漢方に優れた人の人の目から見れば、道端の雑草に薬草に見る。
宝石を見分ける者には、路傍の石に宝石を見る事ができる。
これを密教経典と理解できるか、できないかは、心経の咎ではない、理解できないものの咎である。
そうであればこそ、般若菩薩の真言・修法・観想について法身如来が金剛頂経に属する『修習般若波羅蜜菩薩観行念誦儀軌』に説かれているのである。
さらに応化身の釈迦如来も祇園精舎において菩薩や天人のために、仏たちの像や、曼荼羅の作法、真言、印等について「陀羅尼集経・第三巻」に説かれた。これもまた、秘密の経である。
顕教と密教の相違は、教えを受ける側の人によるのであって、経文に、違いはない。
しかし、顕教の中にも陀羅尼のような秘密があり、密教の中にも秘と極秘がある。
このように秘密にも浅深があり、教えは幾重にも重なりあっているのである。」