福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「日本國體の研究、田中智學」・・その15

2017-05-10 | 法話

「日本國體の研究、田中智學」・・その15
第十一章、第三十六節
神人一如主義
「神人一如」といふことは神の心と人の心の奥底が貫流して、その実体に融如してそれが人間業の上に、神意の発動することを云う。是が離れ離れでいるうちは只々堕落し退化するばかりで果てはとんでもないところへ堕ちていく。それを防いで向上の一路をあたえるのがこの「神人一如」といふことである。・・人間は人間以上の道の方へ引き上げて居てそれで中々よい位になる・・・人は常に人より以上のものを予想しなければいけない。人間の値打というものをば聖人とか賢人とか神とか仏とか云ふものと離してしまって赤裸々の人間ばかりの欲望を基礎としたならば後に何が残るかと言えば・・禽獣より世話が焼ける・・犬猫よりもっと劣等なものになる・・獣以下だ。
      神武天皇は「我が皇祖皇宗乃ち神乃ち聖にして慶を積み暉を重ねて多く年所を経たり(日本書紀・神武紀)」とおおせられた。久遠の太古よりして積功累徳、道の為に尽くしたる所の神聖なる「神」である。・・「恭しく宝位に臨んで以て元元を鎮めん」とある、元元といふのは民のこと、神がこの国を授けたまへる思召しを継いで、その神意たる「正道」を推しひろげようぞと宣告されてその正道を守るといふことについてその力の要素たるものが「君位」と「民」であるから君位を『天津日嗣』といひ、人民を 『元元』 と美称されたのである。

神武天皇は「乾霊國を授くるの徳に答へる(日本書紀)」とおおせられた。天の神様がこの日本を先祖に授けた。何と言って授けたかといえば、即ち人類を保護するため道の保護者として人間界に降って道を行へ、場所が悪いといけないから良い場所を選んでやる。道を行うに便宜の地をば、天照大神がご覧になってこの中枢たる日本、豊蘆原の中津国は適当の國とお看做しになった。それは理由のあることで,吾々人間が考えてさへ色々な理由があるのだから神様が考えたら理由があったに違いない。「葦原の千五百秋の瑞穂の國は是れ吾が子孫の王たるべきの地なり(日本書紀)」とこう仰せられた。その詔に従って「王統」といふものが定まってこの仕事が地上に建設せられたのである。正義正道を保護するといふことの為に我は此位に即くと斯く云ふので、日本書紀には天津日継といふことを「天業」と云ふ文字を宛て、天の仕事としてある。それからもう一箇所には「天基」と云ふ文字が宛ててある。・・(神武天皇は)御即位の四年春二月の詔「我皇祖の霊や天より降臨して朕が躬を光助す、今諸虜すでに平ぎ海内無事なり、以て天の神を郊祀り用て大考を申ぶべし(日本書紀)」と仰せられた。・・この「大考」の二字は実に神武天皇の思想及び事業の中枢である。そこではじめて鳥見山と云う所へ霊疇(まつりのにわ)といふものをば建てられた、そうして殆ど國家的大儀式として天下に公示し、萬世に遺す模範とされた。・・世には法律経済の思想が盛んになっても理屈や法律が殖えれば殖えるほど悪事が盛んになる。是れ畢竟深さを欠いているからである。神武天皇は自然萬物の神人一如主義を身で示された、人間界の内容には道徳の深いものが存してゐる、しかもそれが天理と通じてなければ人の道も槿花一朝の栄で永久の平和を地上に打ち建てることは出来ないぞと宣せられて「神人一如」の大御法を以て「天業」とあそばされた、是が神武天皇の神人一如主義である。
神武天皇の建国はご自分が神の裔であるから御自分だけ神と一致すればよい、といふのでなく、世の全部を神の世と為し、人の心すべてを神の心と一致させやうといふ為に即ち人間界へ神の事業を建設するために我は天より遣わされたのであるとふ思召しから、政治のすべては皆神を標準としておいでになるので、所謂神人一如を遍く世に実現せしめようといふ真に人間界の究竟した救済を建立せられたのである。・・さてこの「天津日嗣」の御位といふものは、天祖日の神より御代々徳より徳へと伝えて、日の神の大御業を相続するといふことが所謂「天津日嗣」だ、これは必ず日の神の御血統でなければならない。・・天祖が「我子孫の王たるべきの地なり」と仰せられた以上堅く御子孫の血統に相続しなければならない理由があるからだ。・・必ず指針に限るといふのは御血統とともに御事業が一貫して伝わるからである。所謂「慶を積み暉を重ね」た積功累徳が「天津日嗣」の光と成って世を照らすので、故に御代々の天子を皆「現形神」と申し上げる、即ち「神人一如」の表現である。・・天の神が國土を選んで道統を保護するために、子孫の統を垂れてその国の主と定められたといふ事は、霊界の高い約束が人間の事実に結ばれたのであって、日蓮上人は「日本国の王と成る人は天照大神の御魂の入り代らせたまふ王なり」との断案を下された、・・饒束日命がいぜんから大和を経営しておりそれを征服したとする説は誤りである。・・日本書紀によれば天皇の日向を発せられる前、皇族群臣に,東方の経営を諮らせられて、「東によき國がある、其の地は蓋し六合の中心で天下の経営に思弁の場所である。にみならず元来、天津神が吾等の為に選ませられた國土で既に饒束日命が天より降りて経営に任じておるといふことを朕はかって鹽土の翁から聞いた。仍てこれより其の地へ移ろうと思ふ」とのおおせがあった、(長髄彦が・饒束日命に誅せられたのはいつまでもききわけがなかったから)

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