先ほど立川から自転車で帰る道すがら下校途中の小学生二人が道端の電線にとっまているカラスに話しかけているのをみました。「やいカラス、そんなにじろじろこちらばかり見るんじゃない・・」といっています。するとカラスが「かあーかあー」とこころなしか我々に向って鳴くときとは違う優し気な声色で鳴いているのです。するとこどもたちはまた「かあ、かあ,いうんじゃない」とってカラスをからかっています。なんともほほえましい面白い光景でした。
梁塵秘抄の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」という句を思い出して、子供はカラスまで遊び相手にするのだ、と微笑ましい気持ちになりました。同時に明恵上人や聖フランシスコが鳥と会話したという故事(注)をも思い出し、皆子供の時はこういう能力があったのだろうと懐かしくなりました。
(注)明恵上人伝記に「ある時行法の最中に侍者を召して、手水桶に虫の落ち入りたると覚えぬ、取り上げて放てと仰せあり。仍って出でて見るに蜂おちいりて死なんとす。急ぎ取り上げて放ちにけり。又座禅の中に侍者を召していわく、「後ろの竹原の中に、小鳥、物にけらるると覚ゆる。行きて取りさえよ」とおおせられけり。急ぎゆきてみれば、小鷹に雀のけらるるを追ひ放ちけり。かくのごときこと連々、なり・・」(明恵上人伝記)」
アッシジの聖フランシスコは小鳥に説教して『わたしの兄弟である小鳥たちよ!お前たちは神に感謝せねばならず、いつどこでも神をほめたたえねばならない。
というのは、お前たちはどこへでも飛んでゆけ、二、三枚の服、色もきれいな服装、働かなくともえられる餌、創造主のたまものである美しい歌声に、恵まれているのだから。
お前たちは種をまかず、刈り入れもしないが、神はお前たちを養い、水を飲むための河や泉、身を隠すべき山や丘、岩や絶壁、巣をつくる高い木を与え、お前たちはつむがず、織らないが、神はお前たちや子鳥たちに必要な服を与える。
創造主がお前たちをたいせつにされたのは、お前たちを愛している証拠である。だから、わたしの兄弟である小鳥たちよ、恩を忘れずに、いつも熱心に神をたたえなさい」といったとされます。
梁塵秘抄の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」という句を思い出して、子供はカラスまで遊び相手にするのだ、と微笑ましい気持ちになりました。同時に明恵上人や聖フランシスコが鳥と会話したという故事(注)をも思い出し、皆子供の時はこういう能力があったのだろうと懐かしくなりました。
(注)明恵上人伝記に「ある時行法の最中に侍者を召して、手水桶に虫の落ち入りたると覚えぬ、取り上げて放てと仰せあり。仍って出でて見るに蜂おちいりて死なんとす。急ぎ取り上げて放ちにけり。又座禅の中に侍者を召していわく、「後ろの竹原の中に、小鳥、物にけらるると覚ゆる。行きて取りさえよ」とおおせられけり。急ぎゆきてみれば、小鷹に雀のけらるるを追ひ放ちけり。かくのごときこと連々、なり・・」(明恵上人伝記)」
アッシジの聖フランシスコは小鳥に説教して『わたしの兄弟である小鳥たちよ!お前たちは神に感謝せねばならず、いつどこでも神をほめたたえねばならない。
というのは、お前たちはどこへでも飛んでゆけ、二、三枚の服、色もきれいな服装、働かなくともえられる餌、創造主のたまものである美しい歌声に、恵まれているのだから。
お前たちは種をまかず、刈り入れもしないが、神はお前たちを養い、水を飲むための河や泉、身を隠すべき山や丘、岩や絶壁、巣をつくる高い木を与え、お前たちはつむがず、織らないが、神はお前たちや子鳥たちに必要な服を与える。
創造主がお前たちをたいせつにされたのは、お前たちを愛している証拠である。だから、わたしの兄弟である小鳥たちよ、恩を忘れずに、いつも熱心に神をたたえなさい」といったとされます。