福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論・・その28

2023-08-28 | 諸経

・問曰。上には眞如は其體平等にして一切相を離ると説くに、云何んぞ復た體に如是の種種功徳ありと説くや。
・答曰。實に此の諸の功徳の義有と雖も、而も差別の相無く、等同一味にして唯一の眞如なり。此義云何。無分別にして分別の相を離れたるを以て、是故に無二なればなり。
・復た何の義を以て差別ありと説くを得るや。
・業識の生滅の相に依って示すを以ってなり。
・此を云何にして示すや。
・一切法は本來、唯だ心のみにして實には念無し。而も妄心有り。不覺にして念を起こして諸の境界を見るが故に無明と説くも、心性にして不起ならば即ち是れ大智慧光明の義なるを以ての故也。若し心が見を起こせば則ち不見の相あるも、心性は見を離るれば即ち是れ遍照法界の義なるが故なり。若し心が動ずること有れば眞の識知にあらず、自性あることなく、常に非ず、樂に非ず、我に非ず、淨に非ず。熱惱し衰變して則ち自在ならず。乃至具さに過恒沙等の妄染の義あり。此義に対するが故に、心性無動なれば則ち過恒沙等の
諸の淨功徳相の義示現す。若し心が起ることあって、更に前法の念ずべきを見るときは則ち少くるところ有ればなり。如是の淨法の無量功徳は、即ち是れ一心にして更に所念なし。是故に滿足するを名ずけて法身如來の蔵となす。
(問う、前に真如は万人共通で個別とは無関係としていたがここではなぜ真如に種々の素晴らしい働きがあるとするのか。答う、様々な働きがっても人により違うといっているのではない。これは万人に共通の同じ味わいのものであり、人により変わるということのない真如そのもののありかたなのである。その理由は、真如のありようは判断を超えるものであり、判断とは無縁であるからその点で万人共通といったのである。
問う、それではなぜ人により違いが生ずるというのか。
答え、根本無知の動く迷いの様子によって示すからである。
問う、それはどのように示されるか。
答え、すべては本来、心だけの存在であり、もともと迷いの心の動きはないのであるが、現実には迷って真如がわからず心を動かし、種々の対象世界を見ることになるから無明という。しかし真実の心には迷いは起きないのでそのことを大智慧光明という。心が動いて対象を見るときは見ない場合も生ずるが、こころの本性は見・不見を離れているからこれを遍照法界という。心がうごいていればそれは真実の識智ではない。また動く心は自性がないから常楽我浄ではない。また動く心は熱に悩み、病に衰え、不自由で、ガンジス川の砂よりも多い汚れを具有することとなる。心の本性は不動であるからこれらの在り方とは反対であり、おおくの徳相を具有することとなる。しかし無明の為に心が動くと眼前の対象だけを見ることになるが他方では思わないものは見ないということも生じるのでそこに欠けるところが出てくる。以上のような心の無量の清浄な徳はすべて一心にほかならずそこにはなんら対象はない。随って念不念がないので欠けるところがない、即ちこれらの浄法を完全に具有している。この点で真如を如来像となずけ如来法身と名ずける。)

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