秩父三十四観音霊験記圓通傳 巻第四
第二十二番 西陽山榮福寺。御堂五間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長一尺九寸(58㎝) 弘法大師御作
當山は人皇五十三代淳和天皇の西の院と申奉る御弟、三品式部郷伊豫親王事に坐せられ、河原寺に出て餓死給ひし御菩提を祈給はんが為(伊予親王の変。伊予親王は、桓武天皇の第3皇子。母は右大臣藤原是公の娘・藤原吉子。平城天皇に対する謀反の罪により母とともに幽閉され、飲食を絶ち自殺。)、遍照僧正(平安時代初期の僧・歌人。桓武天皇の孫。出家して天台宗の僧として僧正となる)此地の領主に命じて艸創せしむ。元は此奥に有て花臺山と號しき。 其後延喜十五年乙亥(915)天下一同に疱瘡流行、童子の非命に死するを大慈の御心に悲み給ひてや、里の童に乗移りて此堂を里近く移してよ、われ世の中の童子の命を救と告させ給ふ。郡中の人不思議の事成とて、 急ぎ此地に引移て歩を運ぶ輩引もきらず、疱瘡の患頓に止りける。是より以來郡中は云も更也、近國の 民來て小兒の疾病を祈るに、必不瘉云事なし。凡疱瘡を祈らん人は、必此堂に詣んと祈誓すべし、其験疑ふべからず。昔讃州に一人の有徳の農民有、一人の男子を持り。此農家は此あたり双なき財産を貯へながら、貧海流を納て未だ曾て飽き足ず、百金至れば千金を思ひ、其性暴悪不仁にして人に施し與ふる 事を惜む耳かは、佗人の布施するを誹て、誠に彼らが財を持得ざる事の理かなと、常あざけり笑ける。 一日行脚の僧來て食を乞ふ。主人下僕をして追退て一粒の米だに與ず。僧の曰、然ば其傍にある糠にても給と云。下べども心にあはれみ與まく欲すれど、日頃主人の下知きびしければ敢不與。さらば調ん賣てたべと、銭取出しければ、主うちえみてそれ與よと升に入て取せけるを、沙門主の顔をつくづく見て 此糠を門の外に有し犬の食物入るゝ器にうち入たれば、此家の寵愛甚き男子、豹の如く這出て、此器に顔さし入て心よげにうち喰す。父母従者驚き走出る間に、はや首より尾迄忽まつたき犬と成ぬ。彼唐の酸棗懸の豹頭の新婦もかくや有けん、目もあてられぬ事にぞ有ける。主夫婦血の涙を流して僧を拜し、 手を合て救を求む。僧の曰く慳業の所感吾如何ともせんすべなし、汝早く此豹を牽て四國西國及東の 霊地を巡禮し、秩父に至り童子堂に至れ、必験有べしとかきけして失ぬ。夫婦慳貧の罪を悔て 此豹子を牽て遠く此處に廻り來て、本尊の前にて三七日祈願しける。満ずる晨、狗子皮毛を脱し、父子泣血百拜して去しとぞ 此因縁四國の人よく知れる事を也。罪業に依て畜生に生れし因縁、法苑珠林六十五 九丁、大蔵一覧五 三十五丁 、琅瑯代酔十三 二十九丁等に多く記す。中にも此讃州の狗の如き現罰例少く、怖しき事にぞ。詠歌に曰、
「極楽を 此處に身初て童子堂 後の世迄も 頼母しき哉」
案ずるに當寺の詠歌近世吟じ誤てここで 見付てと唱ふ、其無解なり。詠歌の意、此堂に詣で尊容を拝し奉れば、則西方極楽に生ぜん思なれば、此處にて先極楽を見初たれば、心中の観喜面にあふれ笑を含めると云心を、童堂と讀つつ゛けたり。観音は西方補處の菩薩なれば、今此に身相を視奉て随喜し供羪(供養)せり、定て知る引接の御手にすがりて往生せん事を、豈に頼母しからずやと思つつ゛けたる歌也。必しも世俗の誤を訂さんとにはあらねど、古の如く、此の身初てと唱て可也。