福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

祈ることそれ自体がもはや結果

2023-10-22 | 頂いた現実の霊験

祈ることそれ自体がもはや結果

 

古来祈願は叶えないケースが多いことは確かです。いつの世も人々は祈りに懐疑的になります。しかし結論は「祈り続けさえすれば確かに霊験はある」「祈ること即結果である」と云う事です。

四国61番香園寺中興の祖・山岡瑞円師の本「人格的生活をめざして」(昭和8年香園寺子安遍照会発行)に、師が荒れ果てた寺で肺病に伏せっていて「仏が人を救うなどとそんなことがあるものか、こんな苦しいときにも仏様は私を救うてくれないではないか、この世に神も仏もあるものか、 お経は人を誑かす架空の妄談ではないか」と自暴自棄になったとありましたが、自分も全くその通りの気持ちを持つときもありました。またジイドの『贋金つくり』の「神は、鼠をなぶる猫のように、わしらをからかっているのじゃ……そうして置いて、わしらにまだ感謝しろという。何に感謝するのだ?」というフレーズが頭に浮かんできたりしていました。そうした中でも毎朝夕の修法勤行は続けていましたが、今朝ふと気が付くと突然「ああ有難いなあ」という気持ちになっていました。不平不満だらけで勤行していたのですがふと無心になり勤行していたのです。どこかで、「思わぬところでふと悟りの落とし穴に落ちることがある」いう先人の言葉を見ましたが、当方は悟りには程遠くとも「無心の穴」にポンと落ちていたのです。そうなるともう、いつもの祈願の成否などは祈れなくなります。ただただ「なんかありがたいなあ」という気持ちのみで拝み続けることが出来ました。祈願の成否などはお任せする、という気持ちになります。

 

やはり祈りは続けていれば必ずいいことがあります。

・以前ブログに投稿していただいた松田さんもお陰を受けられなくて仏さまを憾みつつも祈り続けてお陰を受けたとあります。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi76fzqroOCAxVVs1YBHbyXB94QFnoECAkQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F371ce49720a8cf54c965b0c9ac5e00e0%2F%3Fst%3D0&usg=AOvVaw3hadSnoTjcMcJp9B5GJeih&cshid=1697761605507024&opi=89978449

 

・有名な水谷しずさんのケースも何度もの遍路行の結果でした。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwie7bPrsoOCAxXsslYBHVJaB14QFnoECAkQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F41d9382b31bc7c084c6d11cc17ab15d3&usg=AOvVaw0oFn5Hf4RP0oA64EoHzvkr&opi=89978449

 

・西端さかえ「四国遍路記」によると愛媛県温泉町川内町伊藤まさ子氏は娘のスミさんがノイローゼで服毒自殺を図り医者に手遅れと言われた時、四国遍路の納経帳を娘の額の上にのせ般若心経を一心にあげると娘さんの顔に生気が甦り助かったということです。

 

 

 ・杉浦詩奈「お遍路の奇跡」(東方出版2004年)には長期間強度のうつ病で苦しんでいた主婦が平成元年四国遍路に出て全快、平成三年には先達にまでなったと書かれています。

・ガンジーも「必死のいのりは必ず叶えられる」と喝破していました。

・那須政隆猊下の「加持感応の原理」 にはこうあります。

「祈る信心が仏に通じて仏の大悲と衆生の信心が互いに一致融合することが即ち加持感応である。世界が一大曼荼羅であるとすれば万物は互いに相通ずる間柄である。それを三密平等という。自分の三密と如来の三密と衆生の三密とは互いに融合し、本来一如平等のものである。この三蜜平等の事実こそが加持感応の根本原理をなすものである。一切を真言陀羅尼とする真言教学の原理に拠っていわゆる真言の三密と修行者を真言とした場合の三密とまた宇宙を真言とした場合の三密とがありその三種の三密は結局宇宙曼荼羅の上では融会一体のものであると深く観想をこらし万法一体の境地に住する。このようにして修法者は万法一如である宇宙曼荼羅の境地に入り、宇宙法界の大真言をもって宇宙独自の秘法を修するからそこに加持感応の妙用が発現される。

真言祈祷はこのように三密平等の形式を通じて法界曼荼羅の境地に入住するものであるから霊験が得られるか思い悩む必要は無い。人間的生命の必然的要求によって祈らざるを得ずして祈るのが祈祷である。祈祷は元来衆生引入の方便的施設であって祈祷の形式を通じて曼荼羅に引き入れるためのものであるから祈ることそれじたいがもはや結果なのである。祈祷の秘訣は自己のすべてを祈祷にうち任せるか否かにある。結果の如何を思い煩うものには到底真の霊験は望みえない。日夜に祈って倦まなければ必ず福智円満の悉地に恵まれ人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」

・新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人はなかなか効現のあらわれないのは

「仏様がその人の信心を試されている場合、本人の宿業が重い場合、かすかに成就しているが本人が分かってない場合、しばらく魔が隠している場合などがあるが深い信心をもって修行を続ければ必ずお蔭がある。」

「経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」 -末代真言行者用心))とあります。

・「救う救わぬは如来の分限、救われる救われぬは衆生の分限」(救われるかどうかは衆生が自分で決めているにすぎない・・曽我量深)

 

・「For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life.」(ヨハネ 3:16)

 

・「祈ることそれ自体がもはや結果なのである。祈祷の秘訣は自己のすべてを祈祷にうちまかせるか否かにある。結果の如何を思い煩うものには到底真の霊験は望みえない。日夜に祈って倦まなければ必ず福智円満の悉地にめぐまれ人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」(那須政隆『加地感応の原理』)

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