地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の2/8
二、更雀寺 世に雀の森と云。開基幷に地蔵の靈験
森豊山更雀寺(しんぽうざんきょうしゃくじ。現在は京都市左京区静市市原町にある)の権與を訪ぬるに人王五十代の帝桓武天皇の御宇延暦年中(782年から806年)に至りて山城國長岡より此の平安城に都を遷給ひて大内裏を造営したまふ、是則ち唐の秦の始皇帝の咸陽宮の一殿を模して作られたれば、南北三十六町(4㎞)、東西二十町(2.5㎞)の龍尾の置石を居て四方に十二の門を立てられたり。東に陽明待賢郁芳門、南には美福、朱雀、皇嘉門、西には談夫、藻璧 殷富門。北には安嘉、偉鑒、達智門等是あんり。美福門の西に当て神泉苑あり。是則ち天皇御遊覧の所なり。金剛奇石を集めて水をたたへたり。それより西南の隅に当たりて物旧(ものふり)たる園林あり。皇帝藤原の葛野麻呂(かどのまろ。弘法大師・伝教大師の時の遣唐使。高岳親王の皇太子傅となったが薬子の変を免れ民部卿となった。)に詔ありて彼の園の中に精舎を草創し玉ふ。勧学院と号す。則ち賢憬法師(興福寺の宣教に法相をまなび,鑑真から受戒。大和に室生寺を創建し伊勢の多度神宮寺に三重塔を建立。桓武天皇の信任あつく,平安遷都のため地相をしらべた。)に仰て春日四所の大明神を勧請し奉り祭礼を執り行はる。其後五十三代淳和帝の治世、天長元年(824年)詔を奉て左大臣藤原の冬嗣公勧学院として蛍窓雪案朝吟暮詠の勤怠る事なし。就中藤氏の甲族類代の学校なりと雖も諸家の俊秀なる悉く大学に入りて、唐の文は云に及ばず、吾が神風の妙なる切磋し琢磨し玉へり。春日は藤氏の祖神なれば拝殿玉垣金玉を以て荘厳し玉へり。四社大明神(春日神社の四柱の祭神は 武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命)の御事は神社の記に往々に之有り、略して記さず。されば池泉松風も唔呻琅々の声と聞へ、燕喃鶯語も呂望非熊(蒙求にあり。太公望を得た時の事を記述する)を囀るといへり。傳て云く、院の中に小童あり好んで蒙求を読む。其の外もろもろの書を諳(そらん)じ言語利口なりければ、寺僧呼んで雀とぞ云ける。此の故に勧学院の雀は蒙求を囀り、智者の邊の童部は習ざる經を読むと云ける。又雀森と云事一條院の御宇に右近の中将実方禁中にて大納言行成と聊か諍論の事出来て大納言の冠を打ち落され侍りき。其の失によりて歌枕見て参れとて奥州へ下し流さる。(古事談にあり)。中将哀しみに堪へずして終に身退り給ひぬ。遷流の間今一度朝廷の臺盤の飯を食すことを願求し玉ふにや。其の霊雀と化して都に来たり彼の飯を食けるとなん。庸に勧学院の森に棲みけり。是の故に雀の森とは名けるなり。且亦其比に住む翁を観智法印と申す智徳兼備の僧なりしが一夜の夢に雀枕の下に来たりて我は是右近の中将実方が靈なり、妄執の致す所此の身を成せり。生平此の森に住事既に久し。且暮真如の御法実相の勤行の妙なる無一不成の金言(法華経方便品の偈文に、「若有聞法者無一不成仏」)虚しからずして此の身を轉じて善果を得、業因の生涯既に今夜に迫り猶も和尚、慈愍を垂れ玉へ、と云かと思へば夢覚めける。法印奇怪の念をなして森の中を普く尋ね見るに果たして夢の如く法印感涙肝に徹ほり、すなはち棺廓を営み葬埋如法に執行玉ふぞありがたき。已に墓を築き木を樹てこれがしるしとし玉へり。如是の本據を以て世に件の名を呼方をしかかる不思議の霊鳥なれば蒙求をさへずること奇怪にはあらず。亦高間の寺の児(ちご)靈鶯となりて初陽毎朝来の句を唱ること其の例なきにしもあらず(『雑和集』上巻、十七「鶯の読歌の事」「日本紀云、高謙天皇の御時大和国高間寺に一人の僧あり。最愛の児をもちたりけるが彼かの児俄に他界す。是を悲嘆する事限なし。然りといへども月日隔けるほどに、其嘆も漸くうすくなりぬ。年頃へて後、或年の春、庭前に開たる梅花に鶯飛とび来り、木傳て鳴く。其声を聞きくに「初陽毎朝来不相還本栖」と啼なく。あやしとおもふて書きて見れば「はつ春のあしたごとにはきたれども、あはでぞかへるもとのすみかに」といふうたなり。これによりて、彼僧件の児生を替て鶯となれりといふ事を知て、今更に哀傷のなみだをながして、種々にこれをとぶらふと云いひあへり。此うた万葉に鶯の歌と入れり」)夫れ極楽は諸上善人の衆会にて新往久住の聖衆皆悉く諦法を歌ひて同じ三昧に遊化し玉へり。元より不善の人なければ耳悪声を聴くことなし。水鳥樹林も猶苦空無常の妙法を吟ず。有難きためしなり。是は彼の安養上徳のなせる事(わざ)なり。今亦当院も善人の所居勧学の霊地なれば何の陋きこともあるべきぞや。其の夜度々内裏回禄(火災)の變によりて民屋に及べば、此の院も亦半ば亡びて虚しく礎ばかりを残せり。寂たる森の雫を拂人しなければ勤行の声だに傍に幽かに松桂の鳥も人げにせかれず叢の狐も夜を己が物とす。住侶の僧も興起せんことを思へども勧むるに由無し。角して星霜を経る所に七十三代堀川院の御宇永長中(1096年から1097年)に至りて藤原茂明卿(もちあきら。平安時代後期の官吏,漢詩人)再び修造の功を励し玉ひ、此の院の繁榮二度古に復す。自尒已来蛍雪の事業をなし、上下尊卑を嫌事なし。誠に目出度覚ふ。茂明喜悦の餘に一篇の師を作れり。其の誌に曰、
「勧学院修造新成を駕す
初排學館昔明時 自爾群才多在茲 地勢風流傳已久 天長雲搆(大きな家)見猶遺 今蓬左相鍾餘慶 更喜南曹複舊基 來賀何唯稱燕雀 庭花含笑柳開眉」
変化一ならず。盛衰常ならずといへども名は末世に朽ちずして猶のこれり。幸なるかな爰に九十五代後醍醐天皇の御宇に至りて四海悉く天皇の掌に入り再び王道を耀かし玉ひて大内裏御造営し玉ひけり。其の節当院時を得侍り中納言藤房(万里小路 藤房は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。 大納言・万里小路宣房の一男。 官位は正二位・中納言。 後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では恩賞方頭人や雑訴決断所寄人など要職を担)勅をうけて皆悉く造替られ、神社玉を琢き堂宇甍をならべ龍華三會の暁を迎へり。国家安全治邦利民の法を修して二六時中の勤め惰らず。内に讀誦の声あれば外には馬車の轟音たへず。門前市を成し、日々の参詣稲麻のごとく連なり竹葦の如く群集す。且又庄園多く寄せられて栄は春の如く名は秋の月の光を輝かすに似たり。されば上皇時に此の院に行幸在りて忝くも更雀寺の勅額をなし玉ひ、又山号を森豊山とぞあそばされける。其の後文和年中(1352年から1356年)に京師焼失の餘災当院にをよびて遂に哀しむべし焦土となんぬ。此如くの火災数度に及べども本尊は安穏にして今に現在し玉へり。豈に神通の妙力にあらずや。其の砌、餘焔すでに堂舎にかかりけるとき、高辻大宮の邊に住みける藤大夫とかや云者の本尊地蔵観音二菩薩を盗み取り背に負奉りて煙の中を紛れ出、直に洛陽東山の邊に往けり。寺僧ども散々に十方に逃げ行ける中に律行坊と云僧一人清水寺へ逃げ去り彼の仏前にしばらく息を休めて居たりしに、をぼへずして睡りける中の夢に我寺の地蔵菩薩とをぼしき御すがたにて枕の下に立ち玉ひての玉ひけるは盗人既に此の山の邊にあり逃れんとするに出ることあたはず急ぎ尋ね逢ふべしとて失せ玉ひぬ。夢覚めて怪しく思ひ胸打ち騒ぎいそぎ清水寺を出て鳥部山の方を心ざして細道を分け彼方此方の山蔭を見行ければ、松の立ち添えたる岩陰にあやしき男やすみ居れり。彼の僧立ち寄りて見るに、地蔵観音の二尊を側に置参らせ行くもやらでぞありける。疑も無く本尊なりしかば軈て取り還したてまつり自ら抱き奉りて此の院に還したてまつりける。其の外霊験勝計(あげかぞふ)べからず。抑々此の地蔵観音の二尊は忝くも春日の御直作にて御長二尺六寸(約78.8cm)座像にてぞありし。御胸中には日月梵釈の四王の御影及び春日四所の大明神の像、浄土三部の妙典法華経一部心経十巻光明真言、尊勝陀羅尼、各々三百六十四巻、最勝王經等九重の守まで納奉る。是則ち篤信の檀越法界衆人の二世安楽の願望を成就せしめんとのためなり。夫れおもんみるに春日大明神の御本地を尋れば、釈藥観地文の五尊の躰なり。本有寂光の都より應物現形して春日山の麓に和光垂迹し玉へり。就中地蔵尊は三笠山の地下にある獄中に常に御座して三途の衆生を救玉ひぬ。されば神と云ひ佛と云ひ名異に躰同じ、衆生を悦ばすための故に無量の神力を現じて現の益を施し玉ふ日は神となり当来救済の時を佛と申し奉る。殊に地蔵薩埵は法身の自體遍き故に種々の身を現じて六道に遊化して衆生を度脱す、と如来金口新たなるものえおや。かかる尊き靈像なれば自古毎年七月二十四日住持の職として衆僧を集會して地蔵の法事を執行し貴賤老弱奔馳して或は延命を祈り或は泰産を求め、貧乏無福の輩は財宝盈溢を願ふ。されば是の菩薩は女人泰産身根具足衆病悉除壽命長遠聡明智慧財宝盈溢衆人愛敬穀米成就神明加護證大菩提等の十種の福を得せしめんとの御誓なれば、丹心に信じ申さば霊験あらざらんや。但恐らくは信の不足件件の靈なる道場たりといへども今世纔に僧坊を残す。然りと雖も藤氏の庠序(しょうじょ。学校)の跡なれば其の餘風残りて、松の藤が枝時を忘れず参詣の人、詩を賦し歌を讀み、池の蓮の咲き出る比は濁に染まぬ御法を思ふ。一日行脚の僧此の寺に来て古の繁栄を思出し今の廃壊を痛みて、一首の歌を詠ず。
「紫の色ながらにて 古の ゆかりうすれぬ 池の藤波」
伏して請ふ春日再び耀き薩埵擁護の眸を廻らし玉ひ、古の如く伽藍興隆あらば蛍雪の窓之が為開き、比屋(家並)の人藝園に遊び、硯田(けんでん。文筆生活)を耕し智光圓浦無復(過去の世に善因を植えていない)加増の佛慮に浴せんと思ふ事然也。