第二十五番 久那 岩谷山久昌寺。御堂三間四面東向。
本尊聖觀音 立像御長一尺四寸(42㎝) 行基菩薩御作
今は昔、此久那の巌洞に鬼こもれりとて、あかねさす晝さへ木樵艸刈も行通はず、鳥羽玉の夜は麓の里 も戸を閉て、芦垣の間近き隣にだに音信も無く、恐あへり。斯て年を經たるに、或時行脚の僧來て此山の木立常ならず、定て霊地なるべし、里人に嚮導せよと云へば、あなおそろし命二つもてらん人社彼處へは行侍らめと、誰導べしと云ふ者なし。修行者の曰、不借身命は吾本意也、何の怖かあるべきと、獨山奥に分入ぬ。元來此年月鬼住岩屋ぞと、猟夫の行通を路さえ荊棘生しげりて、足も運がたきを、辛して 岩屋の邊に至て事の様を見に、さして怪き事を無れば心静に念誦して居たるに、岩屋の中に女の聲にて 觀世音菩薩母が後のたすけ給へと唱へて、さめざめと泣く聲せしかば、急ぎ岩屋に至て洞中を覗見る に、一人の少女老たる女の死たる側に、うち伏て泣にぞ有ける。少女此僧を見て衣の袖にすがり先ものも得云でよゝと泣ぬ。しばし有て有がたや、是則大悲の方便成べし、此亡者はみづからが母にて、上の山と云奥野の者成しが、恥や其心荒く父母にも疎み果られ、親類知音も交をたちて、自を懐胎しながら 其家を追出され 此麓の里に暫く足を止めしかど、邪なる心から此處も立ち去て、そこよこゝよと所定ず走り廻れば、鬼よ鬼よと云たてられ、果は情なや男共集寄て荒川に沈られ、浮ぬ沈ぬ流しが、未定業にてや不有けん、からめし縄目とけて岩根を踏、葛をよぢ、此迄のがれ來り、菓を取て命を繫中に、自を生落し生長して今年十五年の春秋を送、其間露命を繫んために山中を廻りて菓拾ひ、谷水を結んで渇を止む。折から里人の來るに行逢い、此處に生て有を知らば亦害せられん事を思ひ、必鬼女の如く振舞 幼稚成者に出合時は心ならず喰付などし、里人の來らざる様に計ければ、案の如く里人鬼こもれりと云 ふらして、今日迄人のそれと知る者も侍らず、されば吾が母命終に及で、始をはり具に物語して息絶侍べる。自は唯哀にかき暮、殊更此山中に母より外に友とするは鹿猿の類のみにて、後世など云事は可知もあらぬを、面容照かゞやく女の手に花を持たるが立より給ひ、汝か母今死たり、後の世は地獄とて怖 き國に生る汝吾教へにまかせ、南無觀世音たすけ給へと一心に唱へよ、必す母は吾如き形と成べしと念ごろに教へ給ひ、亦目細く耳たれて鼻長き人來て、吾は此地に象殿と稱ぜらるゝ小社の神也、只今一人の僧至るべし、彼人にちなみて麓に下り、里人と心を合て此地に精舎を建て、十王の像を刻み、觀音を本尊とせよ、此地必ず永世に傳へて佛法繁昌の霊場たらんと告させ給ふ。早く亡母がために寺を建てたべと泣々申ければ、旅僧手を拍て吾昨夜夢の告有て此山に登る。里人鬼住りとて止しかど、をして上りしは此故也。とく此處に寺を建つべしとて、少女をともなひ里に下て始終を語れば、里人始て鬼女は奥里の女成事を知り、娘が親祖父さへ尋來り各力を合て終に堂舎成就し、旅僧が持來し觀音を本尊とし奉りぬ。此僧も是権化の人なるべし。當寺に閻王の手形と里人の稱する寶印あり。其來由當寺の神秘なれば知がたし。彼象殿の神の告に、十王を刻で建つべしとあるを考へ見れば、閻羅の寶印有も故有事にやあるべし。象殿とは觀喜天の事也。聖天を象頭の毘那夜伽ともいえば、聖天なるべし。詠歌、
「水上は何くなるらん 岩屋堂 朝日もりなく 夕日かがやく」