福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

運命論の若干例

2022-12-05 | 法話

運命論の若干例

・「神々はあわれな人間どもに苦しみつつ生きるように運命の糸を紡がれたのだ。ご自身にはなんの憂いもないくせに。ゼウスの屋敷の床には人間に賜るものをいれた甕が二つおいてあり、一つには悪いことが、もう一つには善いことが入っている。この二つを混ぜてたまわったものは、あるときは不幸にあうが幸せに恵まれることもある。悪いことばかりを賜ったものは、人に蔑まれる身に落とされ、彼を激しい飢餓が尊い大地の上を追廻し神々にも人間にも顧みられずにさまよいあるくことになる。」(ホメロス「イリアス」)

・「治乱は運なり、窮達は命なり、貴賎は時なり」(国の乱れは運、苦しんだり栄達していくのは命、貴賎は時代の力である。)(魏の李康 「運命論」)

・「天の暦数なんじの身にあり」(書経)

・「塞翁の馬が逃げた。ひとびとがお悔やみをのべると、これは幸いのもとかも知れぬという。果たしてその馬は胡の地から多くの馬をひきいてかえってきた。周りはめでたいと言うと、いやこれは禍の種になるかも知れぬという。案の定塞翁の子が落馬して骨折した。見舞いを言われた塞翁はこれは幸いとなるかもしれぬという。やはりこのために子息は万里の長城の苦役をまぬかれた。」(淮南子)

・「およそ天地間のこと・・・その数みな前より定まる、人の富貴貧賤、死生壽夭、利害栄辱、聚散離合にいたるまで一定の数にあらざるなし。ことにいまだこれと前知せむのみ。

たとえばなほ傀儡の戯れの機関すでに備わりしかして観者知らざるがごときなり。世人そのこのごときをさとらずもって己の知力恃むにたると称して終身役々。

東に索め西に求めついに悴役して斃る。これまた惑の甚だしきもの。」

(佐藤一斎「言志録」)

・「過去の因を知らんと欲すれば現在の果をみよ、未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。」

(因果経)

・「そもそもこの天地の間にありとあらゆることは悉く神の御意なるなかにすべてこの世の中のことは春秋のゆきかはり雨降り風吹くたぐいまた国のうえ人の上のよしあしよろずのこと、みなことごとに神のみしわざなり。さて神には善きもあり悪しきもありて所為もそれにしたがうなれば、大方世の常のことはりをもっては測りがたきわざなりかし。

・・・善神のみにあらずかならず悪しきもありて心も技も然あるものなれば、悪しき技する人も栄え・・・」(古事記伝)

・「神は鼠をなぶる猫のようにわしらをからかっているのじゃ。そうしておいてわしらにまだ感謝しろという・・・」

(ジッド「贋金つくり」)

・安岡正篤『東洋倫理概論』より「・・列子「力命」に力と命との問答がある。「彭祖の智は堯舜の上には出ないが寿は八百、顔淵の才は衆人の下に出るわけではないが壽は四十八、仲尼の徳は諸侯の下に出るわけではないが陳蔡の困窮し、殷紂の行は三仁(箕子・比干・微子)のうえに出るのではないが、君位に居り、季札ほどの賢者が呉に爵もないのに、田恒のような悪者が斉國を専有し、伯夷叔斉は首陽で餓死したが、李氏は展禽よりも富裕だった。こんなことがなんでもおまえ(力のこと)の力次第ならなぜ彼を寿にし、此れを夭し、聖を窮施させ、逆を達し、賢を賤しくして愚を貧しくして悪を富ますのか。命といふからには命だ。なにもどうするとこうするといふ様なものは在りやしない。・・おのずから寿、おのずから夭、おのずから窮、おのずから達、おのずから賤、おのずから貴、おのずから富、おのずから貧、どうしてどうして俺の知ったことではないさ。」作者は明らかに「命」が一箇特別な神、所謂司命の作用ではないことを説いている。つまり「命」は「機已むを容さざる自然の流行」であり、「然る所以を知らずして然る」ものである。命なりといえばそれが必然にして且つ十分なことなのである。宇宙人生は造化の機境に他ならない。造化は絶対自慊であって他の何物をも待たない。真に自ずから雲、自ずから水、自ずから鳥、自ずから獣、自ずから男、自ずから女、自ずから寿、自ずから夭、自ずから貧、自ずから富で、それを何故とか、何の作用とかいふのは人間の思惟にほかならない。故に命を知るものには寿夭も窮達も貴賤も貧富も自然である。袁了凡の四訓の中に「孔という易者が一生を占ってそのとおりになっていたが雲谷禅師が『極善の人には運命もかなわぬ。極悪の人間も運命はこれをどうすることもできぬ。易者のいうとおりになっていたのでは極善でも極悪でもない凡夫である。』といった。禅師は「今から自己を改めて徳を積み、和を湛え、精を惜しみ、忿を懲らし、従前の種々のお前は既に死んだ。向後の種々のお前は今日ここに生まれたようにしなさい。これぞ義理再生の身である。・・・積善の家必ず余慶あり、積不善の家必ず余殃あり。・・」了凡はこのときから仏前に懺悔して善行につとめ天地の恩、祖宗の徳にむくい積極的生活に終始したところ、できないと言われていた子もでき、死ぬと言われていた53を過ぎて68になってなおこの文をつくっている。(了凡四訓)・・人々には命があると同時に『命はわれより作す』のである。・・」(安岡は、袁了凡の「四訓」から『極善』を貫けば「運命」を超えられるとしているのです)。

 

・「人に負けたくないのではなく、運命に負けたくない」。8歳の時に両親を亡くし小学生で路上ライブしながら生活費を稼いでいたが今はDeNAでSHOWROOMの総合プロデューサーをしている前田裕二氏の言葉。

・ヨブ記では信仰深いヨブが苦難の連続に遇い「何とて我は胎より死て出ざりしや 何とて胎より出し時に氣息たえざりしや」といいます。

・しかし大統領選後の勝利演説でバイデン氏は聖書の「コヘレトの言葉」を引用しました。「聖書はこう教えています。『すべてに時機がある。建てるに時があり、収穫するに時があり、植えるに時があり、癒やすに時がある』」。バイデン氏は1972年に上院議員として当選した翌月、妻と幼い娘を自動車事故で失い、2015年にはデラウェア州司法長官だった息子を脳腫瘍のため、46歳で亡くしています。家族を次々と三人も失っているのです。普通ならば「神様などいるものか」と自暴自棄になるところですが彼は「信仰は暗闇の中でこそ輝く」というキルケゴールの言葉(「死に至る病」)をかみしめて苦しみを乗り越えてきたといも言っています。(「コヘレトの言葉」には同時に「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、 虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手に ある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。 更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。」という絶望的な言葉もあるにも拘わらず、です。)

 

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