福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教の大意(鈴木大拙、昭和天皇御進講より)・・・その9

2017-10-09 | 法話

知性的分別が持つ幻想の一つに『自分は自由だ、選択の力は自分に在る』と云ふことがあります。生命といふ無縫の天衣を切れ切れにして、それを研究すると称するのであるが、研究してからまたそれを本の姿に縫ってみようとしてもできないのです。切れ切れにして又継ぎ合はす・・これが知性の特権だ、知性の自由だ、選択力だといふのですが、これほど無法なことはないのです。・・知性は自由でない、分別又は分割は自殺を意味する。その自由性と信ぜられるのは実にその自殺を遂げて後の事です。分別そのものには自由はない。・・真正の自由は何ものにも拘束せられぬといふ意味である、独立不羈の謂である。分析も総合も合目的の上での話である。自然、能所とか主伴とか隠顕とかいふものがでてくる。畢竟は限られた自由で、自由そのものではない、絶対の自由ではない。霊性的自由に至り,始めて真正の自由といふことになるのです。業繫から出てくる一切の懊悩・憂愁・不安は霊性的自覚の域に入り来ることによりて、解消せられる。行かんと要せば行き、住せんと欲すれば則ち住すといふ、これが自由です、不可思議解脱です。知性では業繋から離脱できませぬ。知性がなしうる限度は霊性の姿を微かに映し得るといふことです。・・どこをどう探ったら本当に自由になれるか分らぬので人間の魂は悩む。不安に襲はれる。この不安が知性面に現れて不可思議を思議せんと努める。無分別を分別せんと、その力の限りを尽くす、さうして疲れて斃れる、自由の門はそこから開かれるのです。
現代人はなんでも分割して違いを見出すことに汲々とします。「全体」を見ようとしないのです。此のような現代人を批判して「無分別(全体)を分別せんと、その力の限りを尽くす、さうして疲れて斃れる、自由の門はそこから開かれる」とは言い得て妙です。「不可思議解脱」とかかれていますが、「不可思議解脱経」といわれるのが維摩経です。ここには多くのまさに不可思議なことが書かれています。お釈迦様が500人の富豪の青年の持ってきた寶傘をまとめて一大寶傘にして三千大千世界を覆い森羅万象をみせたり、維摩が方丈に須弥山国から3万2千の椅子を運んできて納めたり、妙喜國をそのまま大衆のまえにもってきて見せたりとか、まさに不可思議なことが自由自在に行われます。これらの不可思議な出来事はすべてお釈迦様や維摩居士が衆生済度の止むにやまれぬ気持ちから生じさせているのです。)


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