福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日18日は浅草寺菊供養会です

2022-10-18 | おすすめ情報

今日18日は浅草寺菊供養会です。浅草寺のホームぺージによると「菊供養会は明治30年(1897)、第19世貫首 奥田貫昭大僧正の法話「観世音菩薩と菊慈童」がきっかけとなり、翌年明治31年(1898)9月9日の「重陽の節句」より始められた行事です。そして戦後10月18日と定められました。・・
  浅草寺では菊供養会の当日、ご信徒の持参する献菊(小菊、境内にて授与)と、すでに献花された下供菊とを交換することで賑います(この交換した菊は陰干しした後、枕の下に敷いて寝ることでご利益があるとされています)。また先の故事を受けて、菊の葉に『観音経』の経文「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」を書写して長寿の祈願をした「菊のお守り」も授与されます。他にも本堂では午後2時から法要が営まれ、境内では「金龍の舞」の奉演が行われます。」

菊慈童の故事(注1)は古くは中国の古典「抱朴子(注2)」「荊州記」等にあり、日本では「菊慈童」「菊水」等として太平記や謡曲にも取り上げられて枕草紙にも出てきます(注3)。祇園祭の「菊水鉾」も菊慈童を題材としています。
(注1)
周の穆王の寵愛を受けていた「慈童」が誤って帝の枕を越えて_縣山(れっけんざん)へ配流となった時、穆王は観音経の「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」の句を密かに慈童へ授け、慈童が菊の葉にこの偈を書きつけたところ、この菊の葉の露が霊薬となり、慈童は仙人となり、彭祖(ほうそ)と名を替え八百余年後魏の文帝にこれを授け文帝はこれを「菊花の盃」としたのが重陽の宴、ということです。
(注2)『抱朴子』仙薬                          
『南陽酈縣山中有甘谷水、谷水所以甘者、谷上左右皆生甘菊、菊花墮其中、歷世彌久、故水味為變。其臨此谷中居民、皆不穿井、悉食甘谷水、食者無不老壽、高者百四五十歲、下者不失八九十、無夭年人、得此菊力也。故司空王暢太尉劉寛太傅袁隗、皆為南陽太守、每到官、常使酈縣月送甘谷水四十斛以為飲食。此諸公多患風痺及眩冒、皆得愈、但不能大得其益、如甘谷上居民、生小便飲食此水者耳。又菊花與薏花相似、直以甘苦別之耳、菊甘而薏苦、諺言所謂苦如薏者也。今所在有真菊、但為少耳、率多生於水側、緱氏山與酈縣最多、仙方所謂日精更生、周盈皆一菊、而根莖花實異名、其說甚美、而近來服之者略無效、正由不得真菊也。夫甘谷水得菊之氣味、亦何足言。而其上居民、皆以延年、況將復好藥、安得無益乎』(
(注3)「九月九日は、暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたうそぼち、おほひたる綿など,もてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて,ややもすれば、降り落ちぬべく見えたる、をかし」

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