福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日3月12日は東大寺再建の落慶供養が行われた日です。

2024-03-12 | 法話

今日3月12日は東大寺再建の落慶供養が行われた日です。
1195年3月12日、重源が大勧進を務めてきた東大寺再建がなり落慶法要が行われました。
吾妻鑑には「(建久六年 乙卯)3月12日 丁酉 朝雨霽る、午以後雨頻りに降り、また地震 。今日東大寺供養なり。雨師風伯の降臨、天衆地類の影向、その瑞掲焉たり。・・朝光厳旨を伝えて云く、
  当寺は平相国の為に回禄し、空しく礎石を残し、悉く灰燼と為す。衆徒尤も悲歎すべ
  き事か。源氏適々大檀越として、造営の始めより供養の今に至るまで、微功を励まし
  合力を成す。剰え魔障を断ち仏事を遂げんが為、数百里の行程を凌ぎ、大伽藍の縁辺
  に詣ず。衆徒豈喜歓せざるや。・・未の刻に供養の儀有 り。導師は興福寺別当僧正覺憲、呪願師は当寺別当権の僧正勝賢。凡そ仁和寺法親王 以下諸寺の龍象衆会し一千口に及ぶと。誠にこれ朝家・武門の大営、見仏聞法の繁昌 なり。当伽藍は、安徳天皇の御宇治承四年庚子十二月二十八日、平相国禅門の悪行に 依って仏像灰に化し、堂舎燼を残しをはんぬ。爰に法皇重源上人に勅して曰く、本願 の往躅を訪い、高卑の知識を唱え、梓匠に課して風業を勤め成さしめ、壇主に代わっ て不日の功を終うべきの由てえり。上人命旨を奉り、去る壽永二年己卯四月十九日、 大宋国陳和卿をして始めて本仏の御頭を鋳奉る。同五月二十五日に至って、首尾三十 余日、冶鋳十四度、鎔範功成りをはんぬ。文治元年乙巳八月二十八日、太上法皇手づ から御開眼。時に法皇数重の足代に攀じ登り、十六丈の形像を膽仰し給う。供奉の卿 相以下、目眩み足振えて皆半階に留むと。供養の唱導は当寺別当法務僧正定編。呪願 師は興福寺別当権の僧正信圓。講師は同寺権の別当大僧都覺憲。惣て屈する所の衲衣 一千口なり。その後上人往昔の例を尋ね大神宮に詣ず。造寺祈念を致すの処、風社神
ケンに依って、親しく二顆の宝珠を得る。当寺の重宝として勅封蔵に在り。同二年丙 午四月十日、始めて周防の国に入り料材を抽採す。柱礎の構えと致し、土木の功を企 つ。柱一本を載せるの車、駕牛百二十頭に牽かしむるの由なり。建久元年庚戌七月二 十七日、大仏殿母屋の柱二本始めてこれを立つ。同十月十九日上棟。御幸有りと。・・

[玉葉]には「 甘露相再す。午上天晴、未の刻以後雨下る。この日東大寺供養なり。 」

[平家物語] には「鎌倉殿、大仏供養の随兵の守護の為に、三月十二日南都に入らせ給ふ。大衆恐れて引 たるが、悉くある中に、怪しばみたる者見えければ、梶原を召て入らせ給ひつる。南 の大門の東のわきに、怪しばみたる者有と。大衆の中へかきわけ入て、頭裹たる袈裟 を引剥ぎて見れば、髭をばそりて頭をばそらざりけり。何者ぞと問ふに、平家の侍薩
摩中務丞宗助と申者にて候なり。それはいかにといへば、もしや君をねらひ参らせ候 とてなりと申せば、鎌倉殿打うなづかせ給ひて、汝が心ざし神妙なりとて、召置れて、 大仏供養果てて、都へ御上り有て、宗助をば六條河原にて斬れにけり。」

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