福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「神祇秘抄」・・12/22

2024-03-12 | 諸経

「神祇秘抄」・・12/22

十二、神本佛迹の事。

問、神を以て本地となし、佛陀を以て垂迹と為す云々。其の義如何。

答、宗々の料簡不同なりと雖も、惣じて神の神たる故を知らず、暫く法花の意を以て之を分別すべし。彼の經の所説、先ず迹門を以て方便と為し、本門を以て已證と為す。經に云、若有聞法者无一不成仏(法華経・方便品「もし 法を聞くことあらん者は 一人として成仏せずということなけん」)。己心を直指し本地の妙法を示す。故に、深恵の人、一たび耳に觸れば之を即悟す、之を本門と云ふ。又經に云く、无智人中莫説此經(妙法蓮華経譬諭品第三「無智の人の中にして 此の経を説くことなかれ」)。愚劣の輩不覚不知の故に方便を以て迹門を説く云々。妙法とは此の神の御體、諸佛已證の法性の一理也。衆生の本源已心の妙法を顕はさんが為に、諸佛の神通智力を増す為に、吾神應化の迹を垂る。西天に出世して化導給ふ。故に釈尊誕生し初て言く、天上天下唯我独尊と(根本説一切有部毘奈耶雜事に「菩薩生時帝釋親自手承置蓮花上不假扶侍足蹈七花行七歩已。遍觀四方手指上下作如是語。此即

是我最後生身。天上天下唯我獨尊。」。大唐西域記卷第六に「菩薩生已不扶而行於四方各七歩。而自言曰。天上天下唯我獨尊。今茲而往生分已盡。隨足所蹈出大蓮花。」)。是又神の開闢、天上天下の振る舞い也。聖徳太子詔する松子の筆に云ふ、神明應化は釈尊の成道なりと(聖徳太子の従者大鳥部文松子なる者の書とされる「松子傳」にあるとされるが松子傳そのものが逸書)。又神託の文に云ふ(大和姫の皇女宣く)、西天の真人に代て天宮に帰昇すと。是れ人に対して託宣し玉ふ最終句也(神道五部書の一である「造伊勢二所太神宮宝基本記」には人々の心が汚れてきた為に神は歸天に佛に代ったとある)。厥後、法性神(法身のことか)託宣あるべからずと云々。倩(つらつら)事を案ずるに、衆生の盲見末代に彌よ僻んで内心偏に外道に向く。邪を以て正と為し、偽を以て實と為す。痛い哉。正直の神を以て虚妄の見に堕し奉ることは吾神は兼ねて之を鑒知し、應化の佛身を現世して因果の道理を立て、生者必滅の相を説き、涅槃無常の理を示す。神は已に託宣を以て佛教に易(か)ふ。理致必然なる乎。就中、法花本迹二門は二句(「其智慧門 難解難入」「如来秘密 神通之力」)を含む、之を知るべし。天台宗には之を以て十六字の大事と云ふ(恵心流)。其の迹門とは經に云、其の智慧門は難解難入なりと(妙法蓮華経方便品第二「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」)。外道二乗は心外仏法を求める為に此の如く之を説く。其の智慧門とは本有の妙法衆生の一念、是又神體也。其の本門とは如来秘密神通之力なりと(妙法蓮華経如来寿量品第十六「爾の時に世尊、諸の菩薩の三たび請じて止まざることを知しめして、之に告げて言わく、汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。」)。深位(修行の深く進んだ位)地上の薩埵(菩薩の階位五十二位(十信・十住・十行・十回向・十地および等覚・妙覚)のうち、十信から十回向までは凡夫で、十地の初地以上から聖者の位に入る)等に此の如く之を説く。如来秘密の法身

常住妙法、本有法然の三密、阿字不生の理、五智圓明の體、是を天照法性神と號す。

重ねて問ふ若し然らば妙法と吾神と一體の義は如何。

答、吾神は阿字本不生なり、周遍法界の智、妙法は衆生本有の一肘、八葉蓮花の理體也。能覺を神と云ひ、所覺を法と云ふ。能所无二の常の神也、常の法也。又云、普賢は妙法の體の為に、經に云、普賢菩薩一切處に遍す(金剛頂瑜伽金剛薩埵五祕密修行念誦儀軌「我應發金剛薩埵大勇猛心。一切有情具如來藏性。普賢菩薩遍一切有情故。我令一切衆生證得金剛薩埵位」。)。此の神は又十方世界を照らし、一切染浄處に遍ぜざるなし。此の義を以て大日と號し、天照と云ふ。又大日の異名を普賢阿闍梨耶と云ふ云々。皆是徳に依り其の名號無盡なり。何ぞ強ひて本迹を論ぜんや。悉く是神の同體異名也。之に依りて當地神五代の末(地神五代とは天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊。末は葺不合尊)、西天に釈尊王宮に於いて誕生し樹下に成道し降魔・転法輪有り。化縁盡ければ二月十五夜半に寂滅を唱ふ云々。日本の神武天皇の御宇也。爾より以来佛法我が朝に傳来、用明天皇の皇子聖徳太子御出世也。其れ以前の我朝には但神代の風俗を為し言行共に自然に正直也。因果を立てず法然として悪を遮し善を持す。本有の所為皆以て正直也。或いは木に刻み言と為し、縄を結い政と為す、此の如く曲りなく偽りなきものか(隋書俀国伝「文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。」」)。先ず此の神は國常立尊を元祖と為す。不合尊に至りて十二代、其の中上九代生死なき故に壽命無限なり。漸く末三代に及び或いは三十六萬餘、或いは六十三萬の壽限なりと云々。彼の西天の釈迦は十二代人王の始に當るり纔八十にして涅槃す云々。是則ち神應化して未来の衆生の壽限を知らしむ為に假にこの化儀を示す。已に生滅の化を顕して因果の法を説く。本地垂迹の義之を以て知るべし。

問、然れば先ず諸神社祇其の本地を稱して或いは彌陀、観音、又不動、降三世云々は其の義如何。

答、上に載せるが如し。神に三種の差別有る故(ここでは神を本覚神・始覺神・實冥神にわける)、則ち天照太神は本覺の正神、周遍法界無始無終の體也。都て本地あるべからず云々。次に始覺の面を以て諸の権現等或いは鬼を祭て神と為し、虵を崇めて神と祝ふ。又佛菩薩悲願力に依り権りに祖と現し、又人靈を祭て神と號するの類、偏に佛法の功用なり。然る間、従因向果の神(三種の神の内、始覺神にあたるか)は悉く本地あるべき也。八幡大菩薩の託文に云、得道より来(このか)た法性を動ぜず、八正道を示す。権りに迹を垂る。皆苦の衆生を解脱するを得る故に八幡大菩薩と號すと(「八幡愚童訓巻下仏法事」に「得道より来、法性を動かさず。八正道を示し、権迹を垂る。皆苦の衆生を解脱するを得、故に八幡大菩薩と号く)」)。本覚は此の文を以て意を得べきなり。得道より来、法性を動かさずとは即ち本覚神なり。此の本覚神を所為となし、権りに迹を垂るの故に始覺と為す云々。故に八幡と號すとは神の化身化用也。神の三身これを以て知るべし。佛の三身亦復此の如し。然る間、始覺化身の靈神の垂迹、相ひ論ずることあるべからずや、就中、上に載せる法性・實冥の二神は不生の一念の上に善悪相別る。暫く面二を二神と為し、不二を以て法性の一神と為す。凡夫の心は合蓮花の如く、佛心は開蓮花なり(「秘蔵宝鑰」「凡夫の心は合蓮華の如く、仏心は満月の如し」。「金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論 」「凡人心如合蓮華佛心如滿月」)。無明の合蓮華則ち彼の實冥なり。法性開蓮は則ち法然の一理、本不生の體也。権化の面を以て暫く本地名を法實冥に立つ。何ぞ強ひて本迹を論ぜんや。之を以て之を九思すべし。

 

 

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