第九講 恐怖おそれなきもの
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
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すでに私は、『心経』の無所得、すなわち所得なしということをお話ししておきましたが、この無所得の境地は、こういうふうにいい表わしたらよくわかるかと存じます。
こころの化粧
かつて私は宅が狭いので、書斎が兼客間でした。応接間でお客と話すことが嫌きらいですから、どんな方が見えても、すぐ書斎へ通すのです。その時いちばん困ることは、何か調べものでもしている時には、書斎が書物でいっぱいになっているので、狼狽あわててそこらを片づけてからお客に通っていただいたのです。ところが平生ふだんは、割合に片づいているので、いつ何時お客があっても、少しもあわてずにすむのです。ちょうど、そのように、平素心の中が、余計な、いらざる妄想もうぞうや、執着という垢あかでいっぱいになっていると、いざという場合に臨んで、うろたえ騒がなくてはなりません。御婦人方でもそうです。身だしなみが、チャンとできていると、何時来客があっても、お客を待たせておいて、急いで衣物きものを着かえたり、髪や顔の手入れをなさらずとも、余裕綽々しゃくしゃくとして、応接することができるのです。化粧の必要はそこにあるのです。白粉おしろいを塗ったり、香水でもつけなければ、化粧でないと思っている方もありましょうが、それは認識不足です。身だしなみをすることが化粧です。だが、髪や形の化粧をするときには、いつも心の化粧をしてほしいものです。心をチャンと掃除して、塵ちりや垢あかのないようにしておきたいものです。けだし「無所得」の境地というのは、心を綺麗きれいさっぱりと片づけておくことです。化粧しておくことです。整頓せいとんしている座敷、それが無所得の世界だと思えばよいでしょう。なんのこだわりもない純真無垢むくな心の状態が、つまり無所得の世界です。しかも無所得にしてはじめて一切を入れる、大きい所得があるわけです。
虚往実帰
古人(弘法大師)は、「虚きょにして往ゆいて、実にして帰る」すなわち虚往実帰きょおうじっきということをいっていますが、他家へ御馳走ごちそうになりに行く場合でも、お腹なかがいっぱいだと、たとい、どんなおいしい御馳走をいただいても、少しもおいしくありません。だが、お腹を空すかして行けば、すなわち虚きょにして往けば、どんなにまずくとも、おいしくいただいて帰れるのです。空腹には決してまずいものはないのです。無所得にしてはじめて所得があるのです。無所得こそ、真の最も大きい所得、いや無所得にして、はじめて大なる所得があるのです。利益があるのです。無功徳むくどくの功徳こそ、真の功徳です。さてこれまで、お話ししてきた『心経』の本文は、皆、私どものお腹をからっぽにするためだったのです。「一切は空くうだ」何もかも皆、ないのだ、といって私どもの頭の中を、腹の中を掃除してくれたのです。もう私どもの頭の中はからっぽです。お腹はスッカリ綺麗に掃除ができているのです。「有ると見て、なきは常なり水の月」で、因縁によってできているものは、皆ことごとく水上の月だ。あるように見えて、実はないのじゃといって、今までは一切を否定してきたのです。いわゆる「無所得の世界」まで、私どもお互いを、引っぱってきたのです。で、これからいよいよお話しする所は、空腹の前の御馳走です。したがって、これからはどしどし御馳走が、一々滋味と化して私どもの血となり肉となってゆくのです。「菩提薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)ぼだいさったの般若波羅蜜多はんにゃはらみたに依るが故に、心に※(「よんがしら/圭」、第4水準2-84-77)礙けいげなし」というのはそれです。さてここで一応ぜひお話ししておきたいことは、「菩提薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)すなわち「菩薩」ということです。いったい大乗仏教というのは、この「菩薩の宗教」ですから、この菩薩の意味がよくわからないと、どうしても大乗ということも理解されないのです。ところで、菩薩のことを、この『心経』には菩提薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)とありますが、これは菩薩の具名くわしいなまえで、昔からこれを翻訳して、「覚有情かくうじょう」といっております。覚有情とは覚さとれる人という意味で、人生に目醒めざめた人のことです。ただし自分独ひとりが目醒めているのではなく、他人をも目醒めさせんとする人です。だから、菩薩とは、自覚せんとする人であり、自覚せしめんとする人です。「人多き人の中にも人ぞなき、人となれ人、人となせ人」で、人間は多いが、しかしほんとうに目醒めた人はきわめて少ないのです。全く人ぞなきです。その昔、ソクラテスがアテネの町の十字街頭に立って、まっ昼間、ランプをつけて、何かしきりに探さがしものをしていました。傍そばを通った門人が、
「先生、何を探しているんですか。何か落としものでも?」
と、尋ねたのです。ソクラテスは門人にいいました。
「人をさがしているのじゃ」
「人って、そこらあたりをたくさん通っているじゃアありませんか」
と再かさねて訊たずねますと、哲人は平然と、
「ありゃ皆人じゃない」
といい放ったという話ですが、真偽はともかく、ソクラテスとしてはありそうな話です。
ほんとうに「人多き人の中にも人ぞなき」です。だから私どもはその求められる人に自らならねばならぬと同時に、また他人を人にせねばならぬのです。教育の理想は「人を作ることだ」と聞いていますが、仏教の目的も、やはり人を作ることです。しかし、仏教でいう人は、決して立身出世を目的としているような人ではないのです。俸給ほうきゅうを多くとり、賃銀をたくさんとるような、いわゆる甲斐性かいしょうのある、偉い人を作るのが目的ではないのです。自ら勇敢に、ほんとうの人間の道を歩むとともに、他人をもまたその道を、歩ませたいとの熱情に燃える人です。いわゆる「人となれ人」「人となせ人」です。だからそれは大乗的です。自分一人だけ行くのではない。「いっしょに行こうじゃないか」と、手をとり合って行くのですから、小乗の立場とは、たいへんその趣を異にしています。したがって、菩薩とは、心の大きい人です。度量の大きい人です。小さい利己的立場を止揚して、つねに大きい社会を省みて社会人として活動する人こそ、ほんとうの菩薩です。「衆生の疾やまいは、煩悩まよいより生じ、菩薩の疾(やま)いは、大悲より発おこる」と『維摩経ゆいまぎょう』に書いてありますが、そうした「大悲の疾い」をもっているのが、とりも直さず菩薩です。利己的な煩悩ぼんのうの疾いと、利他的な大悲の疾い、そこにある人間と、あるべき人間との相違があります。つまり凡夫ぼんぷと菩薩との区別があるわけです。このごろやかましくいわれるデモクラシイ(民主主義)も、こうした人間的自覚をもった人が、出てこないかぎりとうてい確立することはできません。あの十字架にかかったキリスト、一切の人々の罪を償つぐなうために、すべての人々の救済すくいのために、十字架にかかったとすれば、そのキリストのこころこそ、まさしく菩薩のこころです。十字架を背負うた彼が、その十字架を背負わせた、その人たちの罪の救いを、かえって神に祈っている心もちは、まことに尊くありがたいものです。
聖書バイブルにこういう文句ことばがあります。「一粒の麦、地におちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべし」と。キリストは十字架にかかりました。しかしそれによって多くの人々は救われたのであります。キリスト教の是非はともかく、私たちは異教徒という名のもとにいたずらにこれを看過したり、排撃したりすることはできないのです。宗教人の名において、菩薩の名において、彼を賞讃しょうさんし、景仰すべきであると思います。
菩薩の生活と四摂法
ところで、仏教ではこの菩薩の生活、すなわちほんとうの人間生活の理想を、四つのカテゴリー(形式)によって示しています。四摂法しょうほうというのがそれです。「摂」とは摂受しょうじゅの意味で、つまり和光同塵どうじん、光を和やわらげて塵ちりに同ずること、すなわち一切の人たちを摂おさめとって、菩薩の大道に入らしめる、善巧たくみな四つの方便てだてが四摂法です。四つの方便とは、布施ふせと愛語と利行りぎょうと同事ということです。布施とは、ほどこしで、一切の功徳くどくを惜しみなく与えて、他人を救うことです。愛語とは、慈愛のこもった言語ことばをもって、他人によびかけることです。利行とは、善巧な方便てだてをめぐらして、他人の生命を培つちかう行為おこないです。同事とは他人の願い求める仕事を理解して、それを扶たすけ誘導することです。禍福を分かち、苦楽を共にするというのがそれです。しかし、お経にはかように菩薩の道として四つの方法が説かれていますが、その四つの方法の根本は結局、慈悲の心です。貪むさぼり求めるこころ、すなわち貪慾どんよくの心を離れた慈悲のこころをほかにして、どこにも「菩薩の道」はないのです。
あわれみをものに施すこころよりほかに仏の姿やはある
で、あわれみを施す慈悲の心こそ菩薩のこころです。いや、それがそのまま仏陀ほとけの心です。だから「菩薩の行(ぎょう)」として、仏教には六度、すなわち六波羅蜜はらみということが説かれてありますが、その六波羅蜜の最初の行は布施です。この布施の行為が母胎となって、他の五つの勝行しょうぎょうが生まれるのです。ところで、波羅蜜とは、般若波羅蜜多はんにゃはらみたのその波羅蜜で、すでに述べたごとく、それは「彼岸に到いたる」ということです。この岸から彼かの岸へ渡るのに、六つの行があるというのが、この六波羅蜜、すなわち六度です。布施と持戒と忍辱(にんにく)と精進しょうじんと禅定ぜんじょうと智慧ちえがそれです。布施とは、ただ今も申し上げたごとく、貪慾どんよくのこころをうち破って、他に憐あわれみを施すことです。持戒とは、規則正しい生活の意味で、道徳的な行為おこないです。忍辱にんにくとは、堪こらえ忍ぶで、忍耐です。精進しょうじんとは、努め励むことで、全生命をうちこんで努力することです。禅定とは、沈着です。心の落ちつきです。「明鏡止水」という境地です。智慧とは、これまでたびたび申し上げている般若はんにゃの智慧です。ものごとをありのままにハッキリ認識することです。だから、所詮、菩薩の行は、この六度の行を離れて他にはないわけです。
布施と智慧との関係
ところで、ここで一言申しておきたいことは、最初に私は般若の智慧こそ、彼岸へ渡る唯一の道だといっておきましたが、ここではまた、布施が六度の母胎である、布施こそ六波羅蜜の根本であると申しました。では、いったいどちらが真実なのかと疑いをもたれる方があるかも知れません。まことにごもっともなことです。しかしそれはどちらもほんとうです。というのは、前からしばしば申しましたごとく、仏教における智慧と慈悲とは、一つのもののうらおもてで、二にして一です。一つのものに対する二つの見方です。ところで、この布施というのはつまり慈悲のことです。ほんとうの慈悲、すなわち布施は、智慧の眼が開いていないものにはできません。大悲は、盲目的な愛でないかぎり、必ず、正しい批判と、厳おごそかな判断と、誤りなき認識、すなわち智慧によらねばなりません。六度の根本、すなわち彼岸へ渡る根本の方法が、布施であり、般若であるといったのは、まさしくそれです。柔和なあの観音さまのお姿、忍辱にんにくの衣を身にまとえるあの地蔵さまのお姿を拝むにつけても、それがほんとうの自分おのれの相すがたであることに気づかねばなりません。私たちのほんとうの心の姿こそ、あの絵像や、木像に象徴されている菩薩の尊容おすがたなのです。
和顔愛語ということ
今は故人になっていますが、私のかつて教えた学生の一人に、阿部という男がありました。性質は悪いというのではありませんが、いつも人と話す時には、目をいからし、口をとがらせて、ものをいう癖がありました。学生の演説会の時なんか、側そばで見ていると、まるで喧嘩けんかでもしているような態度です。私はいつもその男に「和顔愛語わげんあいご」という、菩薩の態度を話したことです。和顔とは、やさしい和なごやかな顔つきです。怒っているような、いかめしい顔つきではなくて、いかにも春風駘蕩たいとうといったような顔つきです。朗らかな、やさしい顔つきといったらよいでしょう。私たちはお互いに些細ささいなことに口をとがらし、目をいからす必要はないのです。おだやかに話をすればわかるのです。他人が自分を悪くいうその態度が気にいらぬとて、すぐに感情を害して顔にあらわす、果たしてそれでよいものでしょうか。まことに「わがよきに人の悪あしきのあらばこそ」です。「人の悪しきはわがあしきなり」です。他人を怨うらむまえに、まずわが身を省みる必要はないでしょうか。「他人を咎とがめんとする心を咎めよ」と清沢満之はいっています。そうした宗教的反省こそ、私どもにいちばん大切な心構えだと思います。次に愛語とは、情のこもった、慈愛に充みちた言葉づかいです。荒々しい棘とげのある言葉づかいでは、相手の反感をそそるだけです。全く、丸い玉子も切りようで四角にも三角にもなるごとく、ものもいいようで角かどがたつのです。あえて外交的辞令を用いよとは申しませぬが、お互いに言葉づかいに気をつけねばなりません。言葉の使いようで、成り立つことも成り立たぬ場合が往々あるのですから、もちろん、顔つきや、言葉づかいは、人格の自然の発露で、肝腎かんじんの人格の修養を度外視して、それだけを注意すればよいというのではありません。しかしとにかく和顔わげんと愛語の二つは、我人われひとともに十分に、心懸こころがけねばならないと存じます。とくに婦人の方には、この点を十分に反省してほしいと思います。どれだけ顔が綺麗きれいでも、この二つのものが欠けていたらゼロです。無愛想だとか、無愛嬌ぶあいきょうだとか、いやな女だ、などといわれるのは、多くそこから起こるのです。「ぶらずに、らしゅうせよ」と古人もいっていますが、女らしさはここにあるのです。ところでここで一言申し上げておきたいことは、「和」ということです。「和を以(もっ)て貴(たっと)しとなす」(以レ和為レ貴)と、聖徳太子も、すでにかの有名な十七条の憲法の最初に述べられているごとく、何事によらず「和」が第一です。個人と個人の間でも、ないし社会、国家においても、この「和」ほど貴いものはないのです。和とは「平和」「調和」です。敗戦後の日本には、どこを探してもこの和がありません。今日こそ全く失調時代です。したがって私どもはなんとしても一日も早く和をとり戻もどさなくてはなりません。まことに「天の時は地の利に如しかず、地の利は人の和に如かず」で、和の欠けた国家が隆昌りゅうしょうし、発展したためしはありません。私どもは和衷協同の精神をもって、互いに愛しあい、労いたわりあい、助け合って、すみやかにわが民族の理想である、平和な、文化国家の創造に邁進まいしんすべきであります。しかし「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と論語にもあるように、附和雷同ふわらいどうは決して真の和ではありません。とかく日本人の欠点はこの附和雷同にあるのです。大和やまとの国、とくに昭和(百姓昭明、万邦協和)の御代に生まれすむ、われわれ大和民族は、決して「同じて和せざる」小人であってはなりません。「和して同ぜざる」君子でなくてはなりません。少なくとも日本民族の理想は、この和して同ぜざるところにあるのです。「国挙こぞる大事の前に光あり推古の御代の太子のことば」です。
けだし私どもにして、一たび宗教的反省をなしうる人となるならば、そこにはなんのこだわりも、わだかまりも、障礙さわりもないのです。げに菩薩の道こそ、無礙むげの一道です。なんの障さわりもない白道です。『心経』に「心に罣礙なし」というのはそれです。けいという字は、網あみのことです。魚をとる網です。礙げという字は、障礙物しょうがいぶつなどという、あの礙がいという字で、さわり、ひっかかりという意味です。梵語ぼんごの原典では、「罣礙けいげなし」という所は「ひっかかりなしに動き得る」とありますが、何物にも拘束されず、囚とらわれず、スムースに、自由に働き得ることが、すなわち「罣礙礙なし」ということです。金を求め、名を求め、権勢を求めるものには、どうしても罣礙なしというわけにはゆきません。金という網、名という網、権力という網にひっかかって、どうしても、無礙むげというわけにはゆきません。求めざるものこそ、「無礙の人」でありうるのです。まことに、ひっかかりなしに、自由に働きうることは、求めざる人によってのみ可能であるのです。
次に『心経』に「罣礙礙なきが故に恐怖くふあることなし」とありますが、恐怖くふとは、ものにおじることです。ものに怯おびえ怖おそれることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。心の中に、なんの恐れも、憂いも、心配も、苦労もない、というのが、「恐怖あることなし」です。浅草の観音さまへお参りすると、有名な玄岱げんたいという人の書いた「施無畏せむい」という額があります。施無畏とは、無畏むいを施すということで、元来、仏さまのことを一般に施無畏と申しますが、ここでは観音さまを指さすのです。畏いとは恐れるという字です。慈悲そのものの権化ごんげたる観音さまは、愛憐あいれんの御手で、私どもを抱きとってくださるから、私どもには、なんの不安も恐れもないのです。だから観音さまのことを、「無畏を施すもの」、すなわち「施無畏」というのです。いったい「施す」ということは、さきほど申し述べました、あの「布施ふせ」です。梵語でいえば、ダーナで、あの檀那だんなさま、といった時のその「檀那だんな」です。だからお寺の信者のことを「檀家だんか」といいます。財物をお寺に上げるからです。これに対して、檀家からはお寺のことを「檀那寺だんなでら」といいます。「法施」といって、「法を施す」からです。したがって、財物を上げぬ信者は「檀家」ではなく、法を施さぬ寺は「檀那寺」ではないわけです。
顛倒の世界
次に、「顛倒夢想てんどうむそうを遠離おんりして、究竟涅槃くきょうねはんす」ということですが、普通には、ここに「一切」という字があります。「一切さい顛倒てんどう」といっています。ところで「顛倒」とは「すべてのものをさかさまに見る」ことです。無い物を、あるように見るのは顛倒です。たとえば水はこんなもの、空気はこんなものと局限して、全く性質の違ったものと思うことは、つまり顛倒です。水は温度を加えると、蒸発してガス体の蒸気になります。その蒸気を冷却さすか、または強い圧力を加えると、こんどは固形体の氷になります。しかしいずれも H2O です。水素と酸素とが、二と一との割合で化合したものです、水は無自性です、きまった相はありません。縁に従っていろいろ変化します。こうしたような事実は、この複雑なる、われわれの世界には非常に多いのです。あの斜視や乱視や色盲のような見方をして、錯覚や幻覚を起こしている連中は、いずれも皆「顛倒てんどうの衆生しゅじょう」であります。
次に「夢想」とは夢の想おもいです。したがってそれは妄想もうぞうです。つまり、ないものを、あると思い迷う、今日の言葉でいえば一種の幻覚です。錯覚です。「幽霊の正体見たり枯尾花」というのがそれです。幽霊だと思うのは、枯尾花であることを、知らないから起こる一種の幻覚です。よく見れば、幽霊ではなくして枯尾花だったのです。で、つまり、「顛倒」も「夢想」も同じことで、要するに、私たちの「妄想」です。ですから、「顛倒夢想を遠離する」ということは、そうした妄想を打破ることです。克服し超越することです。その昔、相模さがみ太郎北条時宗は、祖元禅師から「妄想するなかれ」(莫妄想まくもうぞう)という一喝かつを与えられて、いよいよ最後の覚悟をきめたということです。
究竟の涅槃
次に「究竟涅槃くきょうねはんす」ということですが、これを昔から、一般に「涅槃ねはんを究竟くきょうす」とよませています。しかし梵語の原典から見ましても、「顛倒てんどうを超越して究竟くきょうの涅槃さとりに入る」という意味になっていますから、これはやっぱり「究竟涅槃す」とよんだ方がよいと思います。ところで究竟ということは、つまり「究極」とか「終極」とか「最後」などという意味で、最終の最上なる涅槃さとりが、すなわち「究竟涅槃くきょうねはん」です。
ところでこの「涅槃ねはん」ということですが、これは、世間でいろいろ誤解されているのです。しかし、このまえにもちょっと申し上げたごとく、それは仏教におけるさとりの世界をいったものです。すなわち涅槃の梵語は、ニイルバーナで、ものを「吹き消す」という意味です。で、普通にこれを翻訳して「寂滅」「円滅」「寂静」などといっていますが、要するに、私どもの迷いの心、「妄想」「煩悩」を吹き消した「大安楽の境地」をいうのです。「寂滅を以て楽となす」すなわち寂滅為楽じゃくめついらくなどというといかにも静かに死んでゆくこと、すなわち「往生おうじょうする」ことのように思っている人もありますが、これは決して、死んでしまうという意味ではないのです。いったい世間で「往生する」ということを、死ぬことと混同して考えていますが、往生は決して死ぬことではないのです。
古聖は、「往生とは往ゆき生まれることだ。仏法は死ぬことを教えるのじゃない。死なぬ法を教えるのだ。浄土へ往き生まれることを、教えるのが仏法じゃ」といっていますが、ほんとうにその通りです。「往生」ということも、「涅槃に入る」ということも、決して死ぬのじゃなくて、永遠なる「不死の生命」を得ることなのです。したがって、「往生」することが、成仏じょうぶつすなわち仏になることです。仏となることは、つまり無限の生命を得ることなのです。ある仏教信者のお老爺じいさんに、「あなたのお歳としは?」と尋ねたところ、老人は「阿弥陀あみださまと同じ歳です」と答えたので、さらに「では、阿弥陀さまのお歳は?」と、問うたところ、老人は即座に「私とおなじ歳だ」といったという話がありますが、非常に面白いと思います。無限の生命(無量寿)、不死の生命をもった方が、阿弥陀さまです。だから阿弥陀さまと一つになれば、無限の生命を得たことになるのです。したがって、「立往生」とか、とうとう降参して「往生」したなどというのは、要するに、往生に対する認識不足といわねばなりません。ところで『心経』に書いてある「究竟涅槃」とは、どんな意味かというと、それは「無住処涅槃むじゅうしょねはん」という涅槃さとりです。「無住処」とは、住処すなわち住する処ところなき涅槃という意味で、他の語でいえば「生死まよいに住せず、涅槃さとりに住せず」という意味がこの「究竟涅槃」です。
「菩薩は智慧を以ての故に、生死しょうじに住じゅうせず、慈悲を以ての故に、涅槃ねはんに住せず」
といっておりますが、これはたしかに味わうべき語です。
「勝すぐれた智慧をもっている菩薩ひとは、乃いまし生死をつくすに至るまで、恆つねに衆生の利益りやくをなして、しかも涅槃に趣おもむかず」
と『理趣経りしゅきょう』というお経に書かれていますが、それが菩薩の念願ねがいです。なるほど仏教の理想は、さとりの世界へ行くことです。仏となり、浄土へ生まれ、極楽へ行くことが目的でしょう。しかし自分独ひとりだけが仏になり、わが身独りが、極楽へ行けば、万事OKだ、というのでは断じてありません。人も我れも、我れも人も、いっしょに浄土へ行こうというのが、真の目的なのです。いや、たといわが身は行かずとも、せめて人を仏としたい、浄土へ送りたいというのが、菩薩のほんとうの念願(ねがい)です。理想です。(ここに古来の高僧の衆生無辺誓願度という願いもわかりましたがこれを「尽きせぬ願い」というのです)
愚かなる我は仏にならずとも衆生しゅじょうを渡す僧の身たらん
と、古人もいっておりますが、たとい、自分は仏にならずとも、せめて一切の人々を、のこらず彼岸さとりの世界へ渡したいというのが、大乗菩薩の理想です。だから極楽に生まれ、浄土へ行っても、自分独りが蓮華はすの台うてなに安座あんざして、迦陵頻伽かりょうびんがの妙たえなる声をききつつ、百味みの飲食おんじきに舌鼓を打って遊んでいるのでは決してありません。菊池寛氏の『極楽』という小説の中にこんな話があります。あるお婆ばあさんが、望み通りに極楽へ往生した。はじめのうちこそ、悦よろこんでおったものの、しまいには、いささか退屈を感じ出したのです。そして苦しい娑婆しゃば(忍土)の方が、かえって恋しくなったというようなことを、巧みな筆で面白く書いていましたが、それはつまり多くの人たちが、顛倒てんどう夢想している極楽の観念を、諷刺ふうししたものです。真の極楽はそんなものでない事を暗にいったものです。親鸞上人しんらんしょうにんは「煩悩ぼんのうの林に遊いでて神通を現ずる」(遊煩悩林現神通ゆうぼんのうりんげんじんつう)といっておられます。「煩悩の林」とは、苦しみに満ちているこの迷いの世界です。で、つまり極楽へ往生して仏になることは、呑気のんきに気楽に浄土で暮らすことではない、再び娑婆へ還かえる事です。しかもこの往還の二種の回向えこうを離れては、少なくとも他力教はないのです。いや、単に浄土教のみではありません。一切の仏教は、ことごとくこの往相おうそうと還相(げんそう)との二つの世界を離れてはないのです。因より果に至る(従レ因至レ果)向上門と、果より因に向かう(従レ果向レ因)向下門こうげもん、そこに仏教の世界があるのです。「因」とは迷える凡夫です。「果」とは悟れる仏陀ほとけです。迷いより悟りへ、悟りより迷いへ、凡夫より仏陀へ、仏陀より凡夫への道こそ、仏教の道です。菩薩の道です。しかも登る道こそ下る道です。下る道こそ上る道です。「上山の道は即ちこれ下山の道」です。
「うき世離れて奥山ずまい」という俗謡があります。あの歌にはたいへん深い宗教的な意味があるかと存じます。「恋も悋気りんきも忘れていたが」という、その一句のなかには、迷いの世界と、悟りの世界が示されています。すなわち恋と悋気の世界は、つまり迷いの世界です。あきらめられぬ世界です。だが恋もなく悋気もない世界は、悟りの世界です。スッパリ諦あきらめた世界です。もうそこにはうき世の苦しみ、悩みはありませぬ。しかし、果たして自分おのれ一人が涼しい顔をして、悟りすましておられましょうか。「鹿しかの鳴くこえを聞けば昔が恋しゅうて」とは、決して妻こう鹿のなく声ではありません。恋に泣き、悋気に悩むその声です。社会苦に泣き、人間苦に悩むその切ない叫びです。「衆生しゅじょう疾やむが故に、われ亦また疾む」という菩薩(維摩居士)は、とうてい大衆のやるせない叫びに、耳を傾けずにはおられないのです。「他人は他人、俺おれは俺だ」などといって、すましてはおられないのです。「大悲駭おどろいて火宅の門に入る」で、もうジッとしてはおられないのです。「逢あいたさ見たさに来たわいな」というのはそれです。だが、それは決して久米の仙人せんにんが、神通力を失って、下界へ墜落した、というようなものではないのです。それは転落ではなくて、随順です。墜落ではなくて、やむにやまれぬ菩薩の大悲です。「照れば降れ降れば照れとの叫びかな」で、私ども人間は勝手なものです。照ればもう降ってくれればよい。降れば、もうやんでくれればよい。実に気儘きままな存在ものです。その頑是がんぜない駄々だだっ子のような私どもを、ながい目で見守りつつ、いつも救いの手をさしのべるのが菩薩です。げに菩薩とは、自分おのれの生きてゆくことが、そのまま他人の生きてゆく光ともなり、力ともなり、塩ともなりうる人です。
無所得の所得
要するにこの一段は私どもにして、一度、菩薩の般若の智慧を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想もうぞうをうち破って、ほんとうの涅槃さとりの境地に達することができる。しかもそれが「無所得の大所得」だ、ということを教えたものであります。
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
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すでに私は、『心経』の無所得、すなわち所得なしということをお話ししておきましたが、この無所得の境地は、こういうふうにいい表わしたらよくわかるかと存じます。
こころの化粧
かつて私は宅が狭いので、書斎が兼客間でした。応接間でお客と話すことが嫌きらいですから、どんな方が見えても、すぐ書斎へ通すのです。その時いちばん困ることは、何か調べものでもしている時には、書斎が書物でいっぱいになっているので、狼狽あわててそこらを片づけてからお客に通っていただいたのです。ところが平生ふだんは、割合に片づいているので、いつ何時お客があっても、少しもあわてずにすむのです。ちょうど、そのように、平素心の中が、余計な、いらざる妄想もうぞうや、執着という垢あかでいっぱいになっていると、いざという場合に臨んで、うろたえ騒がなくてはなりません。御婦人方でもそうです。身だしなみが、チャンとできていると、何時来客があっても、お客を待たせておいて、急いで衣物きものを着かえたり、髪や顔の手入れをなさらずとも、余裕綽々しゃくしゃくとして、応接することができるのです。化粧の必要はそこにあるのです。白粉おしろいを塗ったり、香水でもつけなければ、化粧でないと思っている方もありましょうが、それは認識不足です。身だしなみをすることが化粧です。だが、髪や形の化粧をするときには、いつも心の化粧をしてほしいものです。心をチャンと掃除して、塵ちりや垢あかのないようにしておきたいものです。けだし「無所得」の境地というのは、心を綺麗きれいさっぱりと片づけておくことです。化粧しておくことです。整頓せいとんしている座敷、それが無所得の世界だと思えばよいでしょう。なんのこだわりもない純真無垢むくな心の状態が、つまり無所得の世界です。しかも無所得にしてはじめて一切を入れる、大きい所得があるわけです。
虚往実帰
古人(弘法大師)は、「虚きょにして往ゆいて、実にして帰る」すなわち虚往実帰きょおうじっきということをいっていますが、他家へ御馳走ごちそうになりに行く場合でも、お腹なかがいっぱいだと、たとい、どんなおいしい御馳走をいただいても、少しもおいしくありません。だが、お腹を空すかして行けば、すなわち虚きょにして往けば、どんなにまずくとも、おいしくいただいて帰れるのです。空腹には決してまずいものはないのです。無所得にしてはじめて所得があるのです。無所得こそ、真の最も大きい所得、いや無所得にして、はじめて大なる所得があるのです。利益があるのです。無功徳むくどくの功徳こそ、真の功徳です。さてこれまで、お話ししてきた『心経』の本文は、皆、私どものお腹をからっぽにするためだったのです。「一切は空くうだ」何もかも皆、ないのだ、といって私どもの頭の中を、腹の中を掃除してくれたのです。もう私どもの頭の中はからっぽです。お腹はスッカリ綺麗に掃除ができているのです。「有ると見て、なきは常なり水の月」で、因縁によってできているものは、皆ことごとく水上の月だ。あるように見えて、実はないのじゃといって、今までは一切を否定してきたのです。いわゆる「無所得の世界」まで、私どもお互いを、引っぱってきたのです。で、これからいよいよお話しする所は、空腹の前の御馳走です。したがって、これからはどしどし御馳走が、一々滋味と化して私どもの血となり肉となってゆくのです。「菩提薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)ぼだいさったの般若波羅蜜多はんにゃはらみたに依るが故に、心に※(「よんがしら/圭」、第4水準2-84-77)礙けいげなし」というのはそれです。さてここで一応ぜひお話ししておきたいことは、「菩提薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)すなわち「菩薩」ということです。いったい大乗仏教というのは、この「菩薩の宗教」ですから、この菩薩の意味がよくわからないと、どうしても大乗ということも理解されないのです。ところで、菩薩のことを、この『心経』には菩提薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)とありますが、これは菩薩の具名くわしいなまえで、昔からこれを翻訳して、「覚有情かくうじょう」といっております。覚有情とは覚さとれる人という意味で、人生に目醒めざめた人のことです。ただし自分独ひとりが目醒めているのではなく、他人をも目醒めさせんとする人です。だから、菩薩とは、自覚せんとする人であり、自覚せしめんとする人です。「人多き人の中にも人ぞなき、人となれ人、人となせ人」で、人間は多いが、しかしほんとうに目醒めた人はきわめて少ないのです。全く人ぞなきです。その昔、ソクラテスがアテネの町の十字街頭に立って、まっ昼間、ランプをつけて、何かしきりに探さがしものをしていました。傍そばを通った門人が、
「先生、何を探しているんですか。何か落としものでも?」
と、尋ねたのです。ソクラテスは門人にいいました。
「人をさがしているのじゃ」
「人って、そこらあたりをたくさん通っているじゃアありませんか」
と再かさねて訊たずねますと、哲人は平然と、
「ありゃ皆人じゃない」
といい放ったという話ですが、真偽はともかく、ソクラテスとしてはありそうな話です。
ほんとうに「人多き人の中にも人ぞなき」です。だから私どもはその求められる人に自らならねばならぬと同時に、また他人を人にせねばならぬのです。教育の理想は「人を作ることだ」と聞いていますが、仏教の目的も、やはり人を作ることです。しかし、仏教でいう人は、決して立身出世を目的としているような人ではないのです。俸給ほうきゅうを多くとり、賃銀をたくさんとるような、いわゆる甲斐性かいしょうのある、偉い人を作るのが目的ではないのです。自ら勇敢に、ほんとうの人間の道を歩むとともに、他人をもまたその道を、歩ませたいとの熱情に燃える人です。いわゆる「人となれ人」「人となせ人」です。だからそれは大乗的です。自分一人だけ行くのではない。「いっしょに行こうじゃないか」と、手をとり合って行くのですから、小乗の立場とは、たいへんその趣を異にしています。したがって、菩薩とは、心の大きい人です。度量の大きい人です。小さい利己的立場を止揚して、つねに大きい社会を省みて社会人として活動する人こそ、ほんとうの菩薩です。「衆生の疾やまいは、煩悩まよいより生じ、菩薩の疾(やま)いは、大悲より発おこる」と『維摩経ゆいまぎょう』に書いてありますが、そうした「大悲の疾い」をもっているのが、とりも直さず菩薩です。利己的な煩悩ぼんのうの疾いと、利他的な大悲の疾い、そこにある人間と、あるべき人間との相違があります。つまり凡夫ぼんぷと菩薩との区別があるわけです。このごろやかましくいわれるデモクラシイ(民主主義)も、こうした人間的自覚をもった人が、出てこないかぎりとうてい確立することはできません。あの十字架にかかったキリスト、一切の人々の罪を償つぐなうために、すべての人々の救済すくいのために、十字架にかかったとすれば、そのキリストのこころこそ、まさしく菩薩のこころです。十字架を背負うた彼が、その十字架を背負わせた、その人たちの罪の救いを、かえって神に祈っている心もちは、まことに尊くありがたいものです。
聖書バイブルにこういう文句ことばがあります。「一粒の麦、地におちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべし」と。キリストは十字架にかかりました。しかしそれによって多くの人々は救われたのであります。キリスト教の是非はともかく、私たちは異教徒という名のもとにいたずらにこれを看過したり、排撃したりすることはできないのです。宗教人の名において、菩薩の名において、彼を賞讃しょうさんし、景仰すべきであると思います。
菩薩の生活と四摂法
ところで、仏教ではこの菩薩の生活、すなわちほんとうの人間生活の理想を、四つのカテゴリー(形式)によって示しています。四摂法しょうほうというのがそれです。「摂」とは摂受しょうじゅの意味で、つまり和光同塵どうじん、光を和やわらげて塵ちりに同ずること、すなわち一切の人たちを摂おさめとって、菩薩の大道に入らしめる、善巧たくみな四つの方便てだてが四摂法です。四つの方便とは、布施ふせと愛語と利行りぎょうと同事ということです。布施とは、ほどこしで、一切の功徳くどくを惜しみなく与えて、他人を救うことです。愛語とは、慈愛のこもった言語ことばをもって、他人によびかけることです。利行とは、善巧な方便てだてをめぐらして、他人の生命を培つちかう行為おこないです。同事とは他人の願い求める仕事を理解して、それを扶たすけ誘導することです。禍福を分かち、苦楽を共にするというのがそれです。しかし、お経にはかように菩薩の道として四つの方法が説かれていますが、その四つの方法の根本は結局、慈悲の心です。貪むさぼり求めるこころ、すなわち貪慾どんよくの心を離れた慈悲のこころをほかにして、どこにも「菩薩の道」はないのです。
あわれみをものに施すこころよりほかに仏の姿やはある
で、あわれみを施す慈悲の心こそ菩薩のこころです。いや、それがそのまま仏陀ほとけの心です。だから「菩薩の行(ぎょう)」として、仏教には六度、すなわち六波羅蜜はらみということが説かれてありますが、その六波羅蜜の最初の行は布施です。この布施の行為が母胎となって、他の五つの勝行しょうぎょうが生まれるのです。ところで、波羅蜜とは、般若波羅蜜多はんにゃはらみたのその波羅蜜で、すでに述べたごとく、それは「彼岸に到いたる」ということです。この岸から彼かの岸へ渡るのに、六つの行があるというのが、この六波羅蜜、すなわち六度です。布施と持戒と忍辱(にんにく)と精進しょうじんと禅定ぜんじょうと智慧ちえがそれです。布施とは、ただ今も申し上げたごとく、貪慾どんよくのこころをうち破って、他に憐あわれみを施すことです。持戒とは、規則正しい生活の意味で、道徳的な行為おこないです。忍辱にんにくとは、堪こらえ忍ぶで、忍耐です。精進しょうじんとは、努め励むことで、全生命をうちこんで努力することです。禅定とは、沈着です。心の落ちつきです。「明鏡止水」という境地です。智慧とは、これまでたびたび申し上げている般若はんにゃの智慧です。ものごとをありのままにハッキリ認識することです。だから、所詮、菩薩の行は、この六度の行を離れて他にはないわけです。
布施と智慧との関係
ところで、ここで一言申しておきたいことは、最初に私は般若の智慧こそ、彼岸へ渡る唯一の道だといっておきましたが、ここではまた、布施が六度の母胎である、布施こそ六波羅蜜の根本であると申しました。では、いったいどちらが真実なのかと疑いをもたれる方があるかも知れません。まことにごもっともなことです。しかしそれはどちらもほんとうです。というのは、前からしばしば申しましたごとく、仏教における智慧と慈悲とは、一つのもののうらおもてで、二にして一です。一つのものに対する二つの見方です。ところで、この布施というのはつまり慈悲のことです。ほんとうの慈悲、すなわち布施は、智慧の眼が開いていないものにはできません。大悲は、盲目的な愛でないかぎり、必ず、正しい批判と、厳おごそかな判断と、誤りなき認識、すなわち智慧によらねばなりません。六度の根本、すなわち彼岸へ渡る根本の方法が、布施であり、般若であるといったのは、まさしくそれです。柔和なあの観音さまのお姿、忍辱にんにくの衣を身にまとえるあの地蔵さまのお姿を拝むにつけても、それがほんとうの自分おのれの相すがたであることに気づかねばなりません。私たちのほんとうの心の姿こそ、あの絵像や、木像に象徴されている菩薩の尊容おすがたなのです。
和顔愛語ということ
今は故人になっていますが、私のかつて教えた学生の一人に、阿部という男がありました。性質は悪いというのではありませんが、いつも人と話す時には、目をいからし、口をとがらせて、ものをいう癖がありました。学生の演説会の時なんか、側そばで見ていると、まるで喧嘩けんかでもしているような態度です。私はいつもその男に「和顔愛語わげんあいご」という、菩薩の態度を話したことです。和顔とは、やさしい和なごやかな顔つきです。怒っているような、いかめしい顔つきではなくて、いかにも春風駘蕩たいとうといったような顔つきです。朗らかな、やさしい顔つきといったらよいでしょう。私たちはお互いに些細ささいなことに口をとがらし、目をいからす必要はないのです。おだやかに話をすればわかるのです。他人が自分を悪くいうその態度が気にいらぬとて、すぐに感情を害して顔にあらわす、果たしてそれでよいものでしょうか。まことに「わがよきに人の悪あしきのあらばこそ」です。「人の悪しきはわがあしきなり」です。他人を怨うらむまえに、まずわが身を省みる必要はないでしょうか。「他人を咎とがめんとする心を咎めよ」と清沢満之はいっています。そうした宗教的反省こそ、私どもにいちばん大切な心構えだと思います。次に愛語とは、情のこもった、慈愛に充みちた言葉づかいです。荒々しい棘とげのある言葉づかいでは、相手の反感をそそるだけです。全く、丸い玉子も切りようで四角にも三角にもなるごとく、ものもいいようで角かどがたつのです。あえて外交的辞令を用いよとは申しませぬが、お互いに言葉づかいに気をつけねばなりません。言葉の使いようで、成り立つことも成り立たぬ場合が往々あるのですから、もちろん、顔つきや、言葉づかいは、人格の自然の発露で、肝腎かんじんの人格の修養を度外視して、それだけを注意すればよいというのではありません。しかしとにかく和顔わげんと愛語の二つは、我人われひとともに十分に、心懸こころがけねばならないと存じます。とくに婦人の方には、この点を十分に反省してほしいと思います。どれだけ顔が綺麗きれいでも、この二つのものが欠けていたらゼロです。無愛想だとか、無愛嬌ぶあいきょうだとか、いやな女だ、などといわれるのは、多くそこから起こるのです。「ぶらずに、らしゅうせよ」と古人もいっていますが、女らしさはここにあるのです。ところでここで一言申し上げておきたいことは、「和」ということです。「和を以(もっ)て貴(たっと)しとなす」(以レ和為レ貴)と、聖徳太子も、すでにかの有名な十七条の憲法の最初に述べられているごとく、何事によらず「和」が第一です。個人と個人の間でも、ないし社会、国家においても、この「和」ほど貴いものはないのです。和とは「平和」「調和」です。敗戦後の日本には、どこを探してもこの和がありません。今日こそ全く失調時代です。したがって私どもはなんとしても一日も早く和をとり戻もどさなくてはなりません。まことに「天の時は地の利に如しかず、地の利は人の和に如かず」で、和の欠けた国家が隆昌りゅうしょうし、発展したためしはありません。私どもは和衷協同の精神をもって、互いに愛しあい、労いたわりあい、助け合って、すみやかにわが民族の理想である、平和な、文化国家の創造に邁進まいしんすべきであります。しかし「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と論語にもあるように、附和雷同ふわらいどうは決して真の和ではありません。とかく日本人の欠点はこの附和雷同にあるのです。大和やまとの国、とくに昭和(百姓昭明、万邦協和)の御代に生まれすむ、われわれ大和民族は、決して「同じて和せざる」小人であってはなりません。「和して同ぜざる」君子でなくてはなりません。少なくとも日本民族の理想は、この和して同ぜざるところにあるのです。「国挙こぞる大事の前に光あり推古の御代の太子のことば」です。
けだし私どもにして、一たび宗教的反省をなしうる人となるならば、そこにはなんのこだわりも、わだかまりも、障礙さわりもないのです。げに菩薩の道こそ、無礙むげの一道です。なんの障さわりもない白道です。『心経』に「心に罣礙なし」というのはそれです。けいという字は、網あみのことです。魚をとる網です。礙げという字は、障礙物しょうがいぶつなどという、あの礙がいという字で、さわり、ひっかかりという意味です。梵語ぼんごの原典では、「罣礙けいげなし」という所は「ひっかかりなしに動き得る」とありますが、何物にも拘束されず、囚とらわれず、スムースに、自由に働き得ることが、すなわち「罣礙礙なし」ということです。金を求め、名を求め、権勢を求めるものには、どうしても罣礙なしというわけにはゆきません。金という網、名という網、権力という網にひっかかって、どうしても、無礙むげというわけにはゆきません。求めざるものこそ、「無礙の人」でありうるのです。まことに、ひっかかりなしに、自由に働きうることは、求めざる人によってのみ可能であるのです。
次に『心経』に「罣礙礙なきが故に恐怖くふあることなし」とありますが、恐怖くふとは、ものにおじることです。ものに怯おびえ怖おそれることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。心の中に、なんの恐れも、憂いも、心配も、苦労もない、というのが、「恐怖あることなし」です。浅草の観音さまへお参りすると、有名な玄岱げんたいという人の書いた「施無畏せむい」という額があります。施無畏とは、無畏むいを施すということで、元来、仏さまのことを一般に施無畏と申しますが、ここでは観音さまを指さすのです。畏いとは恐れるという字です。慈悲そのものの権化ごんげたる観音さまは、愛憐あいれんの御手で、私どもを抱きとってくださるから、私どもには、なんの不安も恐れもないのです。だから観音さまのことを、「無畏を施すもの」、すなわち「施無畏」というのです。いったい「施す」ということは、さきほど申し述べました、あの「布施ふせ」です。梵語でいえば、ダーナで、あの檀那だんなさま、といった時のその「檀那だんな」です。だからお寺の信者のことを「檀家だんか」といいます。財物をお寺に上げるからです。これに対して、檀家からはお寺のことを「檀那寺だんなでら」といいます。「法施」といって、「法を施す」からです。したがって、財物を上げぬ信者は「檀家」ではなく、法を施さぬ寺は「檀那寺」ではないわけです。
顛倒の世界
次に、「顛倒夢想てんどうむそうを遠離おんりして、究竟涅槃くきょうねはんす」ということですが、普通には、ここに「一切」という字があります。「一切さい顛倒てんどう」といっています。ところで「顛倒」とは「すべてのものをさかさまに見る」ことです。無い物を、あるように見るのは顛倒です。たとえば水はこんなもの、空気はこんなものと局限して、全く性質の違ったものと思うことは、つまり顛倒です。水は温度を加えると、蒸発してガス体の蒸気になります。その蒸気を冷却さすか、または強い圧力を加えると、こんどは固形体の氷になります。しかしいずれも H2O です。水素と酸素とが、二と一との割合で化合したものです、水は無自性です、きまった相はありません。縁に従っていろいろ変化します。こうしたような事実は、この複雑なる、われわれの世界には非常に多いのです。あの斜視や乱視や色盲のような見方をして、錯覚や幻覚を起こしている連中は、いずれも皆「顛倒てんどうの衆生しゅじょう」であります。
次に「夢想」とは夢の想おもいです。したがってそれは妄想もうぞうです。つまり、ないものを、あると思い迷う、今日の言葉でいえば一種の幻覚です。錯覚です。「幽霊の正体見たり枯尾花」というのがそれです。幽霊だと思うのは、枯尾花であることを、知らないから起こる一種の幻覚です。よく見れば、幽霊ではなくして枯尾花だったのです。で、つまり、「顛倒」も「夢想」も同じことで、要するに、私たちの「妄想」です。ですから、「顛倒夢想を遠離する」ということは、そうした妄想を打破ることです。克服し超越することです。その昔、相模さがみ太郎北条時宗は、祖元禅師から「妄想するなかれ」(莫妄想まくもうぞう)という一喝かつを与えられて、いよいよ最後の覚悟をきめたということです。
究竟の涅槃
次に「究竟涅槃くきょうねはんす」ということですが、これを昔から、一般に「涅槃ねはんを究竟くきょうす」とよませています。しかし梵語の原典から見ましても、「顛倒てんどうを超越して究竟くきょうの涅槃さとりに入る」という意味になっていますから、これはやっぱり「究竟涅槃す」とよんだ方がよいと思います。ところで究竟ということは、つまり「究極」とか「終極」とか「最後」などという意味で、最終の最上なる涅槃さとりが、すなわち「究竟涅槃くきょうねはん」です。
ところでこの「涅槃ねはん」ということですが、これは、世間でいろいろ誤解されているのです。しかし、このまえにもちょっと申し上げたごとく、それは仏教におけるさとりの世界をいったものです。すなわち涅槃の梵語は、ニイルバーナで、ものを「吹き消す」という意味です。で、普通にこれを翻訳して「寂滅」「円滅」「寂静」などといっていますが、要するに、私どもの迷いの心、「妄想」「煩悩」を吹き消した「大安楽の境地」をいうのです。「寂滅を以て楽となす」すなわち寂滅為楽じゃくめついらくなどというといかにも静かに死んでゆくこと、すなわち「往生おうじょうする」ことのように思っている人もありますが、これは決して、死んでしまうという意味ではないのです。いったい世間で「往生する」ということを、死ぬことと混同して考えていますが、往生は決して死ぬことではないのです。
古聖は、「往生とは往ゆき生まれることだ。仏法は死ぬことを教えるのじゃない。死なぬ法を教えるのだ。浄土へ往き生まれることを、教えるのが仏法じゃ」といっていますが、ほんとうにその通りです。「往生」ということも、「涅槃に入る」ということも、決して死ぬのじゃなくて、永遠なる「不死の生命」を得ることなのです。したがって、「往生」することが、成仏じょうぶつすなわち仏になることです。仏となることは、つまり無限の生命を得ることなのです。ある仏教信者のお老爺じいさんに、「あなたのお歳としは?」と尋ねたところ、老人は「阿弥陀あみださまと同じ歳です」と答えたので、さらに「では、阿弥陀さまのお歳は?」と、問うたところ、老人は即座に「私とおなじ歳だ」といったという話がありますが、非常に面白いと思います。無限の生命(無量寿)、不死の生命をもった方が、阿弥陀さまです。だから阿弥陀さまと一つになれば、無限の生命を得たことになるのです。したがって、「立往生」とか、とうとう降参して「往生」したなどというのは、要するに、往生に対する認識不足といわねばなりません。ところで『心経』に書いてある「究竟涅槃」とは、どんな意味かというと、それは「無住処涅槃むじゅうしょねはん」という涅槃さとりです。「無住処」とは、住処すなわち住する処ところなき涅槃という意味で、他の語でいえば「生死まよいに住せず、涅槃さとりに住せず」という意味がこの「究竟涅槃」です。
「菩薩は智慧を以ての故に、生死しょうじに住じゅうせず、慈悲を以ての故に、涅槃ねはんに住せず」
といっておりますが、これはたしかに味わうべき語です。
「勝すぐれた智慧をもっている菩薩ひとは、乃いまし生死をつくすに至るまで、恆つねに衆生の利益りやくをなして、しかも涅槃に趣おもむかず」
と『理趣経りしゅきょう』というお経に書かれていますが、それが菩薩の念願ねがいです。なるほど仏教の理想は、さとりの世界へ行くことです。仏となり、浄土へ生まれ、極楽へ行くことが目的でしょう。しかし自分独ひとりだけが仏になり、わが身独りが、極楽へ行けば、万事OKだ、というのでは断じてありません。人も我れも、我れも人も、いっしょに浄土へ行こうというのが、真の目的なのです。いや、たといわが身は行かずとも、せめて人を仏としたい、浄土へ送りたいというのが、菩薩のほんとうの念願(ねがい)です。理想です。(ここに古来の高僧の衆生無辺誓願度という願いもわかりましたがこれを「尽きせぬ願い」というのです)
愚かなる我は仏にならずとも衆生しゅじょうを渡す僧の身たらん
と、古人もいっておりますが、たとい、自分は仏にならずとも、せめて一切の人々を、のこらず彼岸さとりの世界へ渡したいというのが、大乗菩薩の理想です。だから極楽に生まれ、浄土へ行っても、自分独りが蓮華はすの台うてなに安座あんざして、迦陵頻伽かりょうびんがの妙たえなる声をききつつ、百味みの飲食おんじきに舌鼓を打って遊んでいるのでは決してありません。菊池寛氏の『極楽』という小説の中にこんな話があります。あるお婆ばあさんが、望み通りに極楽へ往生した。はじめのうちこそ、悦よろこんでおったものの、しまいには、いささか退屈を感じ出したのです。そして苦しい娑婆しゃば(忍土)の方が、かえって恋しくなったというようなことを、巧みな筆で面白く書いていましたが、それはつまり多くの人たちが、顛倒てんどう夢想している極楽の観念を、諷刺ふうししたものです。真の極楽はそんなものでない事を暗にいったものです。親鸞上人しんらんしょうにんは「煩悩ぼんのうの林に遊いでて神通を現ずる」(遊煩悩林現神通ゆうぼんのうりんげんじんつう)といっておられます。「煩悩の林」とは、苦しみに満ちているこの迷いの世界です。で、つまり極楽へ往生して仏になることは、呑気のんきに気楽に浄土で暮らすことではない、再び娑婆へ還かえる事です。しかもこの往還の二種の回向えこうを離れては、少なくとも他力教はないのです。いや、単に浄土教のみではありません。一切の仏教は、ことごとくこの往相おうそうと還相(げんそう)との二つの世界を離れてはないのです。因より果に至る(従レ因至レ果)向上門と、果より因に向かう(従レ果向レ因)向下門こうげもん、そこに仏教の世界があるのです。「因」とは迷える凡夫です。「果」とは悟れる仏陀ほとけです。迷いより悟りへ、悟りより迷いへ、凡夫より仏陀へ、仏陀より凡夫への道こそ、仏教の道です。菩薩の道です。しかも登る道こそ下る道です。下る道こそ上る道です。「上山の道は即ちこれ下山の道」です。
「うき世離れて奥山ずまい」という俗謡があります。あの歌にはたいへん深い宗教的な意味があるかと存じます。「恋も悋気りんきも忘れていたが」という、その一句のなかには、迷いの世界と、悟りの世界が示されています。すなわち恋と悋気の世界は、つまり迷いの世界です。あきらめられぬ世界です。だが恋もなく悋気もない世界は、悟りの世界です。スッパリ諦あきらめた世界です。もうそこにはうき世の苦しみ、悩みはありませぬ。しかし、果たして自分おのれ一人が涼しい顔をして、悟りすましておられましょうか。「鹿しかの鳴くこえを聞けば昔が恋しゅうて」とは、決して妻こう鹿のなく声ではありません。恋に泣き、悋気に悩むその声です。社会苦に泣き、人間苦に悩むその切ない叫びです。「衆生しゅじょう疾やむが故に、われ亦また疾む」という菩薩(維摩居士)は、とうてい大衆のやるせない叫びに、耳を傾けずにはおられないのです。「他人は他人、俺おれは俺だ」などといって、すましてはおられないのです。「大悲駭おどろいて火宅の門に入る」で、もうジッとしてはおられないのです。「逢あいたさ見たさに来たわいな」というのはそれです。だが、それは決して久米の仙人せんにんが、神通力を失って、下界へ墜落した、というようなものではないのです。それは転落ではなくて、随順です。墜落ではなくて、やむにやまれぬ菩薩の大悲です。「照れば降れ降れば照れとの叫びかな」で、私ども人間は勝手なものです。照ればもう降ってくれればよい。降れば、もうやんでくれればよい。実に気儘きままな存在ものです。その頑是がんぜない駄々だだっ子のような私どもを、ながい目で見守りつつ、いつも救いの手をさしのべるのが菩薩です。げに菩薩とは、自分おのれの生きてゆくことが、そのまま他人の生きてゆく光ともなり、力ともなり、塩ともなりうる人です。
無所得の所得
要するにこの一段は私どもにして、一度、菩薩の般若の智慧を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想もうぞうをうち破って、ほんとうの涅槃さとりの境地に達することができる。しかもそれが「無所得の大所得」だ、ということを教えたものであります。