福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「般若心経講義・高神覚昇」をもとに・・10

2016-07-24 | 法話
第十講 般若は仏陀ほとけの母



三世諸仏。依般若波羅蜜多故。 得阿耨多羅三藐三菩提。



 災難をよける法
 たしか越後の良寛さんだったと思います。ある人から「災難をまぬがれる妙法如何いかん?」ということを尋ねられたときです。そのとき、彼は、
「病気になった時には、病気になった方がよろしく、死ぬ時には、死んだ方がよろしく候。これ災難を免れる、妙法にて候」
 と、答えたということですが、たしかに良寛さんのいうごとく、災難を免れる唯一の妙法は、災難を怖おそれて、それをいたずらに回避することではなく、あくまでその災難にぶつかって、これにうち克ってゆくことです。病気に罹かかった時などでも、むやみに早く全快したいとあせらずに、病気を善智識とうけとり、六尺の病床を人生修行の道場と考え、病気と和解し、病気に安住してしまうことです。あのゲーテの『ファウスト』におけるメフィストの、「苦しめることによりて、かえって我れを助け、幸福にする天使となった」というがごとく、病気をいたずらに自分を苦しめる悪魔と考えずに、天使と思って、病気と一つになることです。つまり、病気の三昧さんまいに入ることです。そうすればかえって病気は癒なおるのです。いや快くならないまでも、病気に安住することができるのです。「病気になった方がよろしく候」というのは、たしかにそれです。病気という災難を逃のがれる妙法は、まさしく病気になりきってしまうことです。病に負けぬことです。私の友人に荒谷実乗という人がいます。たいへん豪胆な、意志の鞏固きょうこな男ですが、彼がかつて軍隊にいた時、何かのはずみで、脚部あしを負傷したのです。どうしても手術をしなくてはならぬようになって、いよいよ入院して手術室に入りました時、彼は軍医に、麻酔剤の必要はないといって、敢然と手術台に上ったのです。そして非常な苦痛を堪え忍んで、とうとう完全に手術をしてもらったというのです。当時のありさまを彼は私にこういっていました。「自分はどれだけ苦痛に堪え得るものか、それを試ためしてみたかったのだ」
 なるほど、こうなれば人間も大丈夫です。自分で自分を試してみる、苦痛と戦う自分を客観視するだけのゆとりができれば、もうしめたものです。諺ことわざにも「病は気から」というくらいです。病気に負けてはなりません。病気に勝つことが必要です。いや、勝つか、負けるかを越えて、それにしっかり安住することです。しかしそれは結局、私たちの気持です。心もちです。

 今日の問題は戦うこと

 「今日の問題は何か、戦うことなり。明日の問題は何か。勝つことなり。あらゆる日の問題は何か。死すことなり」と、ヴィクトル・ユーゴーは、あの有名なる『レ・ミゼラブル』の巻頭に書いております。まことに今日の問題は戦うことです。あらゆる災難と戦うことです。清き正しい心をもって飽くなき肉慾にくよくと戦うことです。少なくとも「今日の問題」は、所詮しょせん、霊と肉との争闘あらそいです。しかして、明日の課題は、霊によって肉を征服することです。悟りの智慧によって、迷いの煩悩ぼんのうをうち破ることです。だが、あらゆる日の問題は、死ぬことだという、この厳粛なることばを、私どもはよく考えねばなりません。死を覚悟してやる、死を賭(と)して戦う、これくらい世の中に強いものはありません。死を覚悟していない、つまり魂をうちこんでいない仕事は、結局、真剣ではないわけです。死を賭して戦わざるものは、いつも敗者の惨みじめさを味わうものです。「あらゆる日の問題は死ぬことなり」という言葉ほど、厳粛な真剣なことはありません。良寛和尚おしょうが、「死ぬ時には、死んだ方がよろしく候」といったのは、まさしくこの境地です。何事も一生たった一度という「一期ご一会え」の体験さとりに生きている、あの菩薩の生活態度は、まさしくこの間の消息を、雄弁に物語っておると思います。

 三合の病いに八石五斗の物思い

 あの名高い白隠禅師の語録の中に、こんな味わうべき言葉が示されています。病と闘いつつ、ついに病を征服した人のことばだけに、なかなか意味ふかいものがあります。
「世に智慧ある人の病中ほど、あさましく、物苦しいことはなきことなるぞや。来し方、行く末のことなども際限なく思い続け、看病人の好悪などをとがめ、旧識同伴の間闊(とおどおしき)を恨み、生前には名聞みょうもんの遂げざるを愁うれえ、死後は長夜ちょうやの苦患くげんを恐れ、目を塞ふさぎて打臥うちふし居たるは、殊勝しゅしょうに物静かなれども、胸中騒がしく、心上苦しく、三合の病いに、八石五斗の物思いあるべし」
 と、いかにもその通りで、なまじい学問をした、智慧のある人ほど、よけいに病気を苦にする傾きがあって、容易に病気に安住することはできないのです。どうせこわれものの身体です。おそかれ早かれ、一度は死なねばならぬ、という覚悟ができていそうなものですが、それが実際はできていないのです。いつまでも健康がつづくように思い、いつまでも生きていられるもののように考えているから、いざ病気にでもなると、いらざるよけいな心配までするのです。心配ならよいが心痛するのです。

死ぬことを忘れていてもみんな死に

ですから、死への諦観あきらめは、当然できておらねばならぬわけです。因縁ということくらい、十分に考えておらねばならぬわけです。ところが、事実は全くこれと正反対です。なまじっか学問がある人よりも、かえって学問のない人の方が、あきらめが早いのです。死の覚悟がチャンとついているのです。三合の病いに八石五斗の物思いがなくてすむのです。もちろん、それは決して学問そのものの罪ではありません。学問する人の罪です。

 肚でさとれ
 ただ頭で学ぶだけで、肚はらで覚さとらないからです。学者であって、覚者でないからです。とかく学者は学んだ智慧に囚われやすいのです。いわゆる智慧負けする人が、学者の中には多いのです。しかし「覚者」は智慧に使われず、かえってその智慧を使います。智慧を材料として、それを自由に用いる人が覚者です。私どもは、少なくとも智慧に使われる人であってはなりません。智慧を使う人でなければならぬのです。智慧を人格の素材として、自由にこれを行使してこそ、学問する価値があるのです。学問中毒に罹っている今日の時代においては、この点よほどお互いに考えねばならぬと存じます。

 たいへん前置きが長くなりましたが、これからお話しするところは、
「三世の諸仏も、般若波羅蜜多はんにゃはらみたに依るが故に、阿耨多羅あのくたら三藐みゃく三菩提ぼだいを得たもう」
 という一節であります。さて、三世の諸仏ということですが、いったい仏教では三世というのは、いうまでもなく過去、現在、未来を指していったものですが、要するに、三世とは「無限の時間」ということなのです。ところで、この三世といつも並べて使用せられることばは、十方ということです。十方とは、東西南北の四方に、東南とか、東北などという四隅すみ、それに上と下とを加えて、十方というのです。つまり「無限の空間」ということです。ひところ、よく世間で「八紘こう一宇」「世界一家」(世界じゅうの人たちが一家族のごとく相倚より相扶たすけてゆくこと)という言葉が用いられましたが、八紘というのは四方八方です。世界、宇宙という事です。十方と同じ意味で、無限の空間、涯はてしない世界ということです。要するに三世十方とは、「無限の時間」と「無限の空間」ということです。元来仏教は、キリスト教のごとく、神は一つだという一神論に立っている宗教ではなくて、無量無数の仏陀ぶっだの存在を主張する、汎神はんしん論に立脚しているのです。したがって仏教ではこの無限の時間、無限の空間に亙わたって、いつ、いかなる場所にでも、数限りない無量の仏がいられるというのですから、衆生しゅじょうの数が無限だとすると、仏の数もまた無限です。
 衆生のある所必ず仏はいます、というのですから、衆生の数と、仏の数とはイクォールだといわねばなりません。すなわち「すでになった仏」「現になりつつある仏」「いまだ成らざる仏」というわけで、その数は全く無量です。いったい日本において、古来神というのは、神はカミの義で、人の上にあるものが「神」です。すなわち人格のりっぱな人、勝すぐれて尊い人が神さまであるわけです。またそのほか、ひとは万物の霊長で「日の友」だとか、人は地上において唯一の尊いものだから「ひとつ」の略であるとか、いろいろな解釈もありますが、古来男子をことごとく彦ひこといいます。ひことは日の子供です。これに対して、女子は姫といいます。ひめとは日の女です。だから、人は男女いずれも神になり得る資格があるのです。すなわち神の子であるわけです。賢愚、善悪、美醜を問わず、いずれも神の子であるという自覚をもって敬愛することが大事です。ただし自分が神の子であること、神になるりっぱな資格があることを、互いに反省し、自覚しなければ何もなりません。

 仏陀は自覚した人
 仏教の教えも、ちょうど、それと同じです。一切の衆生ひとびとには、仏となる素質がある。(一切衆生悉有仏性)いや「衆生本来仏なり」で、素質があるのみならず、皆仏であるのです。ただ仏であることを自覚しないがために、凡夫の生活をやっているわけです。浄土他力の教えでいえば、皆ことごとく阿弥陀あみださまによって救済されているのだ。お互いは一向行悪の凡夫だけれども、お念仏を唱えて、仏力を信じさえすれば、いや、信じさせていただけば、この世は菩薩ぼさつの位、往生すればすぐに仏になるのだ、というのですから、その説明の方法においてこそ、多少異なっている点もありますが、いずれも、大乗仏教であるかぎり、その根本は一つだといわねばなりません。

 子をもって知る世界 
「世を救う三世みよの仏の心にも にたるは親のこころなりけり」とて、古人は仏の心を、親の心にくらべて説いております。まことに「子をもって知る親の恩」で、子供の親になってみると、しみじみ親の心が理解されます。だが、子に対する親の限りない愛情は、独ひとり人間にのみ局かぎっていないのです。あのツルゲネーフの書いた「勇敢なる小雀こすずめ」という短篇があります。そのなかにこんな涙ぐましい話が書いてあります。

 勇敢なる雀
 ツルゲネーフが、猟からの帰り途みちを歩いていると、突然、つれていた猟犬が、何を見つけたか、一目散に駈かけ出して、森の中へ入って行きました。まるで犬は獲物を嗅かぎつけた時のように、蹲うずくまりながら足を留めて、いかにも要慎ようじん深く、忍んで進みました。ツルゲネーフは、不思議に思って、急いで近寄ってみると、道の上には、まだ嘴くちばしの黄色い、かわいい雀の子が、バタバタと小さい羽根を、羽ばたいているのです。おそらく、枝から風にゆられて、落ちてきたのでしょう。これを見つけた犬は、今にもその子雀を喞くわえようとします。すると、にわかにどこからともなく親雀が飛んで来て、まるで小石でも投げるように、犬の口先きへ落ちてきたのです。この勢いに、さすがの犬もおどろいて、後へ退くと、雀はまた元のように飛び去りました。しかし、犬がまた喞えようとすると、再びまた飛びかかってくるのです。こうして母の雀は、幾度も幾度も必死になって、子雀をかばいましたが、しまいには、かわいそうに、もう飛び上る勇気もなくなって、とうとう恐ろしさと、驚きのために、子雀の上に折り重なって、死んでいったというのです。
 子雀に忍びよった、恐ろしい怪物を見つけた瞬間、親の雀は、すでに自分の命を忘れてしまったのです。そうして必死の覚悟をもって、勇敢にも怪物に抵抗して戦ったのです。しかも、なお死んでからも、子雀をとられまいとして、親の雀は、その子雀の上に、倒れたのです。生まれて間もなく実母に死に別れた私は、この物語を読んだ時には自然、涙がにじみ出ました。いまもこうして話していても胸がせまってくるのです。
 親への思慕は単なるセンチメント まことに「井戸のぞく子にありだけの母の声」です。親の愛は絶対です。今日の若い連中からは、あるいは頭の古いセンチメントだなんて笑われましょうが、親の情はほんとうにありがたいものです。その親の恩のわからぬ連中は人間の屑くずです。「親の恩歯がぬけてから噛みしめる」で、若い時分にはそれがハッキリわかりません。でも、だんだん齢としをとり、自分が人の子の親になってみれば、誰だれもそれがほんとうにわかってくるのです。科学的立場からいえば、親の流す涙も、恋人の流す涙も涙に変わりはないでしょう。分析すれば、水分と塩分とに還元せられるでしょう。しかし、涙には、甘い涙も、ありがたい涙もあるのです。悲しい涙もあれば嬉うれしい涙もあるのです。それゆえ、私どもは、人生のことを、何もかも、すべて科学的な分析によって見てゆこうとすることは、無理だということを知らねばなりません。

 さて本文の、
「三世の諸仏も、般若波羅蜜多はんにゃはらみたに依るが故に」
 ということは、つまり般若は仏の母(仏母ぶつも)だ、といわれるように、諸仏を産み出す母胎が般若ですから、般若の智慧がなければ、仏とはいえないわけです。般若あっての仏なのです。『心経』の最初に「観自在菩薩かんじざいぼさつ、深じん般若波羅蜜多を行ぎょうずる時、五蘊うんは皆空くうなりと照見して、一切の苦厄くやくを度したもう」といってありますが、慈悲の権化ごんげである菩薩、仏の化身けしんである観音さまも、般若の智慧を、親しく磨みがいて、一切は空なりということを、体得せられたればこそ、衆生ひとびとのあらゆる苦悩なやみを救うことができるのです。しかし、般若を智慧と解釈しておりますが、たびたび申し上げるように、その智慧は、そのまま慈悲なのです。般若の智慧は、一度他に向かう時、それはすぐに慈悲となって表われるのです。

次に、
「阿耨多羅あのくたら三藐みゃく三菩提ぼだいを得たもう」
 ということですが、この語は、梵語サンスクリットの音をそのままに写したもので、原語でいえば「アヌッタラ、サミャク、サンボーディン」というのであります。すなわち阿耨多羅アヌッタラとは無上という意味で、これ以上のものはないということです。次に三藐サミャクということは、偽りない、正しいという意味です。それから三菩提サンボーディンということは、すべての智慧が集まっておるという意味で、あまねく知る、またはひとしく覚さとる、という意味で、「徧智」もしくは「等覚」というふうに訳されています。菩提はすなわち、覚証さとりの世界です。で、つまり「阿耨多羅あのくたら三藐みゃく三菩提ぼだい」とは、訳していえば「無上正徧智」または「無上正等覚むじょうしょうとうがく」というべきであります。換言すれは、「この上もない真実なさとり」という意味が、阿耨多羅三藐三菩提ということです。あの比叡山ひえいざんをお開きになった伝教大師は、

「あのくたらさんみゃく(さみゃく)さんぼだい(さんぼじ)の仏たち わが立つ杣そまに冥加みょうがあらせたまえ」


 と詠んでいられますが、「あのくたらさんみゃくさんぼだいの仏たち」というのは、ただ今申し上げましたように、無上正等覚を得たまえる仏たちよ、すなわち、ほんとうの悟りを得たまえるみ仏たちよ、という意味です。
 いつか、ある所へ講演に参りました時、私はある人から、
「いったい、仏さまには、楽しみばかりで、苦しみは少しもないものでしょうか」
 と問われたことがあります。その時、私はこう答えました。
「仏さまだとて、苦しみもあり、また楽しみもありましょう」
 といったところ、その人はいかにもけげんな顔をして、
「いったん仏様となれば、楽しみばかりで、苦しみはないと思っていましたが」
 といわれたのです。そこで私は次のように答えました。

 大悲の疾い 
あの名高い『維摩経ゆいまぎょう』という
お経には、「衆生の疾やまいは煩悩ぼんのうより発おこり、菩薩の疾いは大悲より発おこる」という言葉がありますが、いったい私ども人間には身体の疾いもあれば、こころの疾いもあります。身病と心病です。ところで、身体の病に、外科と内科があるように、心の病にもまた外科もあり、内科もありましょう。


身から出た錆さびで衣が赤くなり

というのは外科的な病気です。しかし、内面的な心の病気は、まだそこまでゆかないのです。まだお巡まわりさんや、刑務所のごやっかいにならずともよいのです。宗教家や教育家の力でどうともする事ができるのです。
 身の病と心の病 いったい人間というものは、たいへん身勝手なもので、身体の病気はたいへん気にいたしますが、心の病気はあまり気にしないのです。たしか『孟子もうし』だったと思いますが、こんなことが出ています。
「自分の指が、五本のうちで、一本でも曲がって自由が利きかないと、誰でもすぐに千里の道を遠しとせずして、治療に出かける。しかし、かりに心が曲がっていても、いっこうそれを治療しようとしない」
 たしかにそれは至言だと存じます。他人に注意する場合でも、「顔に墨がついていますよ」といえば、ありがとうとお礼をいわれます。「羽織の襟えりが」といって、ちょっと知らしてあげても、「ご親切に」と感謝されます。しかし、もしも、「あなたの心が曲がっている」とか、「心に墨がついていますよ」などと注意しようものなら、「よけいなお世話だ」ナンテかえって恨まれます。なんでもない顔の垢あかや、着物の襟などを注意すると喜ぶくせに、肝腎かんじんの心の病気を注意すると怒おこられるとは、全く人間というものは、ほんとうに変な存在ものです。ところで、身体の病気を治療するには、外科、内科のいずれを問わず、医者が必要のように、精神こころの病気を療いやすにも、やはり医者せんせいを要します。いずれも「先生」という医者が必要です。教育家と宗教家と、それがその先生です。それから、身の病を治療するには、むろん、その先生の技術も大事ですが、その根本のよりどころとなるものは、医学の書物です。すなわち古今のドクトルが、生命いのちを的に研究し調査した、その報告書アルバイトを、道案内として、病気の診察、医薬くすりの調合をするのです。ちょうどそれと同様に、教育や宗教の先生は、古今の聖賢が、身体で書かれた聖典を、十分に心でよみ、身で読んで「人格」を磨き、その磨いた人格によって、他人の心の病を治療するのです。しかしこの場合です。「あんな藪やぶ医者では」ナンテ、頭から医者を信用しなければ、どれだけ名医せんせいが親切に治療してくれてもだめです。「こんな薬が利くものか」と疑っていては、どんな名薬でもなんの効果ききめもないわけです。医者を信じ、薬の効能を信じてこそ、はじめてききめがあるのです。心病の治療を志すものもそれと同様です。まず信ずること、すなわち信仰が第一であるわけですが、しかし病人にだけ信仰を強しいて、肝腎の医者その人に信仰がなくてはだめです。自分おのれに信仰がなくて、人にのみ信仰をすすめても、それは無理な話です。だから、たとい身の病を癒す先生でも、単に医学を学んだだけでは、まだほんとうの医者といえません。大学を出たての医学士なんか、恐ろしくて診みてもらう気がしません。医学を学び、そして、その医学を行ずる医者、すなわち、医術を体得した医者こそ、はじめてたよりになるのです。臨床家でない医学博士は、医者にして医者にあらずです。実際を知らないから飛んでもない誤診をやったり、治療の仕ぞこないをしでかすのです。

しかし、ほんとうのことをいえば、医術だけの医者は、まだ真の医者とはいえません。医術の
大家は、必ず医道の体験者でなければなりません。医師の大家を国手というのは、おそらくこの医道の体得者を意味するのでしょう。少なくとも天下の医師は、国手をもって自ら任じてほしいものです。古来「医は仁術」というのがそれです。

医術の極意は、結局、仁です。慈悲です。宗教的愛です。見の眼では、ほんとうに病気が診察できないように、天下の医者たるものは、すべからく観の眼、心の目を養わねばなりません。そして医学より医術へ、さらに、医術より医道へのコースを辿たどってほしいと思います。金儲もうけのために医術をやることも、あえて反対するものではありませんが、せめて世を救い、人を救うために、進んで医道をも学んでもらいたいものです。単に生活くらしのための開業ではなくて、医道を歩むことを、そのまま自分の生活のモットーにしてほしいものです。古来、仏陀ほとけのことを「医王」と申しておりますが、「満天下の医師(せんせい)たちよ。すみやかに医王(ほとけ)となれ!」と、私は叫びたい衝動に駆られています。

 心の病気の治療法
 さて病気をなおすには、医者と薬と養生の三つが、大切だといわれていますが、心の病気を治療するにも、やはりこの三つが必要です。医者とはりっぱな人格者です。教育家や宗教家は、ぜひとも、この「人格ひとがら」を、目的めあてとせねばなりません。次に薬とは信仰です。養生とは修養です。「病は気から」ともいうように、私どもは健康たっしゃな精神こころによって、身体の病気を克服してゆかねばなりません。だから、医者と薬と養生の三つのなかで、いちばん必要なものは養生です。養生といえば、この養生と関聯かんれんして想おもい起こすことは、あの化粧ということです。化粧とは「化ける粧よそおい」ですが、婦人の方なんか、化粧せぬ前と後とでは、スッカリ見違えるように変わります。お婆ばあさんになってもそうですが、若い娘さんなんか特に目立ちます。しかしおなじ紅白粉べにおしろいをつかっても、上手じょうずと下手へたとでは、たいへん違います。あまり濃く紅をつけたり、顔一面に厚く白粉を塗ったがために、せっかくの素地きじがかくれて、まるでお化けのように見えることがあります。自分の肌はだの素地や、色艶いろつやを省みずに、化粧してはキット失敗すると思います。しかし私はなにも美容の先生ではありませんから、専門のことはわかりませんが、素人しろうと目にもわかるのは、「厚化粧の悲哀」です。「妾わたしは化粧しておりますよ、みてください」とばかりに塗っているのは、おそらく化粧の上手とはいえないでしょう。化粧しているのやら、していないのやら、ちょっとわからないのが、いわゆる「化粧の秘訣(ひけつ)」かと存じます。もちろんこうしたことは、それこそ「よけいなお世話」で、男子の私よりも婦人の方が、くわしいことですが、しかし「他山の石、もってわが玉を磨みがくべし」だと思います。

 こころの化粧
 ところで、ここでぜひとも申し上げておきたいことは、こころの化粧です。顔や肌の化粧ではなくて、心のなかの化粧であります。むずかしくいえば、精神の修養です。心の養生です。すでに申し上げた、あの心の掃除そうじです。いったい化粧の目的は、顔を美しく綺麗きれいに見せるためではなくて、顔や肌の手入れです。掃除です。化ける粧いではなくて、清潔にさっぱりと綺麗に掃除しておくことです。だから、化粧の必要は、婦人でも男子でも同様です。爪つめや頭髪に汚きたない垢あかを溜ためておいて、何が化粧でしょう? 紅、白粉や、香水などは、ほんのつけたりでよいのです。必ずしもその必要はないのです、にもかかわらず、今日ではそれをいかにも化粧の第一条件にしております。主客顛倒てんとうもはなはだしいといわざるを得ないのです。しかしそれならばまだしも、身の化粧だけはキチンとしておきながら、いっこう、心の化粧をしない人が多いようです。いや、全然問題にしていない人が少なくないのです。昭憲皇太后さまの御歌に、


髪かたちつくろうたびにまず思えおのが心のすがたいかにと


 というのがあります。鏡に向かって化粧する。その時、顔や容姿かたちの化粧たしなみをするたびに、必ず心の化粧もしてほしいのです。真の化粧とは、心の化粧です。顔や肌の素地きじは天性うまれつきだから、どんなに磨いたところで、しれていますが、しかし心の化粧は、すればするほど美しくなるのです。老若男女を選ばず、磨けばみがくほど、いよいよその光沢つやが出てきます。「金剛石こんごうせきも磨かずば」で、実をいうと私どもは互いにその金剛石ダイヤモンドを一つずつ所有しているのです。しかし肝腎の私たちはそれを知らないでいるのです。だから化粧はおろか、その存在すら忘れているのですから、光るに光れないわけで、まことにもったいないわけです。

 心は鏡
 その昔、支那に神秀じんしゅうという有名な坊さんがありました。彼は禅のさとりについて、こういっています。
「身は是れ菩提樹、心は明鏡台めいけいだいの如し。時々に勤めて払拭して塵埃じんあいを惹ひかしむること勿なかれ」
 私どもの身体は、ちょうど、一本の菩提さとりの樹きだ。心は清く澄んだ鏡である。しかし塵埃あかが溜たまるから、始終いつもそれを綺麗に掃除しておかねばならない、ということばは、たいへん意味ふかいものです。かの愚者といわれた周利槃特が、「塵を払え、垢を除け」という詞ことばを、単に外面的に皮相的に考えずして、内面的にもっと深く思索して、ついにさとりを開いたように、私どもは「化粧と修養」のほんとうの意味を、内面的に思索し、生活によって把握はあくする必要があると存じます。
 話はつい横道へそれましたが、かの「菩薩ぼさつの疾やまいは大悲より発おこる」という『維摩経ゆいまぎょう』の文句は、非常に考えさせられることばだと思います。どなたかの歌に、


立ちならぶ仏の像すがたいま見ればみな苦しみに耐えしみすがた


というのがあります。ほんとうに味わうべき歌です。一切の衆生ひとびとの苦しみを救いたいという抜苦のこころ、一切の衆生にほんとうの楽しみを与えたい、という与楽の気持、そうした慈悲の心の上に、仏や菩薩の絶えざる悩みはあるのです。だが、その悩みこそ、自分おのれの身の病でもなければ、また自分一個の心の病でもありません。みんなそれは他人のための病です。苦しみです。つまり世のため、人のための悩みであり、愁うれいであります。
 わが子の病気 自分の子供が病気に罹かかる。親の心は心配です。わが身の病気よりも、いっそう心がいたみます。子供の病気は、そのまま親の病気です。それと同時に、子供の全快はそのまま親の全快です。親と子とは、悲しみを通じて、欣よろこびを通して、少なくとも二にして一です。子をもって欣ぶのも親心なれば、また子をもって悲しむのも親心です。


もたずしてあらまほしきは子なりけり もたまほしきもまた子なりけり


 と詩人はいってくれています。かわいい子供の笑顔をジッと見ていると、ようまあ子供をもったものだと思います。だがしかし、罪のない悪戯いたずらならまだしも、突然、病気にでも罹って苦しむわが子のすがたをみると、ああ、子供なんかない方がよかった、などという愚痴も出ます。もたない人はもちたがり、もつ人はまた子供で苦労する。まことに「人間に子のあることの寒さかな」で、とかく人間は勝手なことを考えるものです。

 仏のなやみは利他的悩み おもうに少なくとも、さとれる仏陀ほとけとなれば、もちろん自分のための利己的な悩みはないでしょう。しかし、わが身のための苦しみはなくとも、世のための悩み、他人のための苦しみはキッとあるのです。といって、その悩み、その苦しみは、決して私どもの考えているような、苦しみでもなく、また悩みでもありません。その苦しみこそ楽しみです。その悩みこそ悦よろこびです。
「世に恋の苦しみほど、苦しいものはない。だが、その苦しみほど、楽しいものはない」
 と、ゲーテもいっています。譬喩たとえとしては、はなはだ不似合いなたとえでしょうが、私どもは、そこに迷情を通じて、かえって、仏心の真実を味わうことができるのです。

 般若の智慧を磨け
 要するに、この『心経』の一節は、三世の諸仏も、皆この般若の智慧によって、まさしく、ほんとうの正覚さとりを得られたのである。だから私どももまた般若の智慧を磨くことによって、みな共に仏道を感じ、真の菩提さとりの世界へ行かねばうそだ、ということをいったものであります。
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