一 もしももろもろの形成されたもの(諸行)が輪廻するのであるならば、それらは常住永遠に存するものであって、輪廻しないことになる。また無常なるものどもは輪廻しない。衆生に関しても、この関係は同じである。
二 もしも個人存在(プドガラ)が輪廻するというのであるならば、【五つの】構成要素(五 )・【一二の】領域(一二処)・【一八の】構成要素(一八界)のうちに、五種に求めるとしても、その個人存在は存在しない。なにものが輪廻するのであろうか。
三 個人存在を構成する<執着の要素>から他の<執着の要素>へと輪廻していく者は、神とか人間とかいう身体をもたぬものとなるであろう。しかし身体をもたず<執著の要素>をもたないいかなる者が、輪廻するのであろうか。
四 もろもろの形成されたものがニルヴァーナに入るということは決して起こりえない。ひとがニルヴァーナに入るということもまた決して起こりえない。
五 もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、縛せられず、解脱しない。生あるもの(衆生)もそれと同様に縛せられず、解脱しない。
六 もしも<執著の要素>が束縛であるならば、<執著の要素>を有する【主体】は束縛されていないのである。<執著の要素>を有しない【主体】も束縛されない。しからば何に住するものが束縛されるのであろうか。
七 もしも束縛される者よりも以前に束縛があるならば、束縛は意のままに束縛するであろう。しかるに、そういうことはない。他のことがらは、いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものの考察によって説明されおわった。
八 要するに、束縛された者は解脱することがない。束縛されていない者も解脱することはない。もしも束縛された者がいま現に解脱しつつあるのであるならば、束縛と解脱とは同時であるということになるであろう。
九 「わたしは執著の無いものとなって、ニルヴァーナに入るであろう。わたしにはニルヴァーナが存するであろう」と、こういう偏見を有する人には、執著という大きな偏見が起こる。
十 ニルヴァーナが有ると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところでは、いかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。
二 もしも個人存在(プドガラ)が輪廻するというのであるならば、【五つの】構成要素(五 )・【一二の】領域(一二処)・【一八の】構成要素(一八界)のうちに、五種に求めるとしても、その個人存在は存在しない。なにものが輪廻するのであろうか。
三 個人存在を構成する<執着の要素>から他の<執着の要素>へと輪廻していく者は、神とか人間とかいう身体をもたぬものとなるであろう。しかし身体をもたず<執著の要素>をもたないいかなる者が、輪廻するのであろうか。
四 もろもろの形成されたものがニルヴァーナに入るということは決して起こりえない。ひとがニルヴァーナに入るということもまた決して起こりえない。
五 もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、縛せられず、解脱しない。生あるもの(衆生)もそれと同様に縛せられず、解脱しない。
六 もしも<執著の要素>が束縛であるならば、<執著の要素>を有する【主体】は束縛されていないのである。<執著の要素>を有しない【主体】も束縛されない。しからば何に住するものが束縛されるのであろうか。
七 もしも束縛される者よりも以前に束縛があるならば、束縛は意のままに束縛するであろう。しかるに、そういうことはない。他のことがらは、いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものの考察によって説明されおわった。
八 要するに、束縛された者は解脱することがない。束縛されていない者も解脱することはない。もしも束縛された者がいま現に解脱しつつあるのであるならば、束縛と解脱とは同時であるということになるであろう。
九 「わたしは執著の無いものとなって、ニルヴァーナに入るであろう。わたしにはニルヴァーナが存するであろう」と、こういう偏見を有する人には、執著という大きな偏見が起こる。
十 ニルヴァーナが有ると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところでは、いかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。