復次に眞如とは、言説により分別すれば二種の義あり。云何が二となすや。一は如實空、能く究竟して實を顯すが故に。二は如實不空、自體ありて無漏の性功徳を具足するを以ての故に(また次に真如を言葉を借りて表現し分別すれば二種あり。一は如實空、すべては縁によっていて実体は空であるという真実をあらわすが故に。二は如實不空、心の真実は煩悩に汚されてない仏の徳相が備わっているから)。
言うところの空とは。本よりこのかた一切の染法と不相應なるが故なり。謂く一切法の差別の相を離れたれば、虚妄の心念無きを以ての故なり(ここでいう空とは汚れていないことをいう。すべての現象の差別相を超越しているから妄念がないためである)。當に知るべし眞如の自性は有相に非ず、無相に非ず、非有相に非ず、非無相に非ず、有無倶相に非ず、一相非異相に非ず、非一相非非異相に非ず、一異倶相に非ず(真如の本性は、無相、非有相、非無相、有無倶相、一相非異相、非一相非非異相、一異倶相のいずれともいえないものでる)。
乃至總説せば、依一切衆生は妄心あるをもって念念分別して皆な不相應の故に、説いて空となす。若し妄心を離れれば實には空ずべきものなし(まとめればこういうことである。全ての衆生は誤った心により一瞬一瞬に分別して種々の差別があると思うのでそのような誤った心を打ち砕くために空というのである。妄心さえなければ「空」ということはいわない)。所言く不空とは、已に法體は空にして無妄を顯すが故に、即ち是れ眞心なり(いわく不空というのはすでにさきに法体は空であり妄はないということを明らかにしたが、これが「眞心(心真如)」である)。常恒に不變・淨法を滿足すが故に不空と名ずけるも亦た有相の取るべきもの無し(この心真如は常恒・不変・浄らかであるゆえに不空という。そしてそれは完全であるのでいまさら付け加えるべきものはなにもないのである)。離念の境界は唯だ證とのみ相應するをもっての故なり(妄念を離れた境界はただ覚りにのみ相応するからである)。
心生滅とは、如來藏に依るが故に生滅心有り。所謂不生不滅と生滅と和合して一に非ず異にも非ず、名ずけて阿梨耶識となす(心の迷いの姿(心生滅)であっても、如來藏という真理の姿の上に生滅心が起こっている構造となっている。いかえれば不生不滅という真理の姿と生滅という迷いの姿が和合して一にも非ず二にも非ずという心を作っておりこの両面を持つ心を阿梨耶識(アリヤシキ・・新訳では阿頼耶識)という。)
此の識に二種の義有り。能く一切法を攝し、一切法を生ず(この阿梨耶識は二種の意味を包含して一切の現象を生じているのである)。
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