坂東三十三観音霊場記巻の二
第四番相模國鎌倉長谷寺(現在も第4番は海光山長谷寺(長谷観音))
相州鎌倉郡海光山長谷寺は皇統四十五世聖武帝の勅願にして本願徳道上人の艸創杏里。本尊十一面観自在の像は大和の泊瀬の尊像と同作にして天平年中海中より出現也。(殿堂坊舎中興の事歴は文治年中右大将家御再営。正治二年庚申(1200年)の春長谷寺の三字の御額を賜ふ。文永九年(1272年)の秋、惟康親王(鎌倉7代将軍。第6代将軍宗尊親王の嫡男)本堂御建立。康永元年の冬、征夷大将軍源尊氏公(足利尊氏)堂舎御再営、公又尊像の朽壊を漆に堅め箔を彩り、玅相を脩治す。宝徳二年(1450年)の夏、将軍義政公、堂舎御建立。文明十二年庚子(1480年)の七月、将軍義直公、祈禱の二字自筆の御額を掲ぐ。っ慶長十二年(1607年)東照神君本堂御再営幷御朱印下馬牌等を賜ふ。各々其棟札書記等あり。
造像の来由は人皇四十二代文武帝即位九年乙巳(706年)五月八日本願徳道上人肇て泊瀬の山に登る。忽ち帽冠の翁出て曰く、我は手力雄の神なり、昔天照太神天の磐戸を出、諸の神達を引卒て此山に遊玉ふ。其の時、太神勅して曰く、年代邈(はるか)の後、一の聖人来たり必ず此の山を崇敬すべし。汝も共に邪神を祓ひ治よと。是の故に我久く此に栖たり。今その待時至るなり。聖人の前身は役の優婆塞なり。嘗て此の豊山の峯にて精舎建立の願を発しき。その願不果して没れり。此の宿願に酬て今身此の山に来る。かく丁寧に語畢て手力雄神は空中に没去ぬ。(此の宿願の故に本願聖人と云、今豊山に本願寺と云あり。)越(ここにをい)て聖人、伽藍を建て建太神(大国主の子タケミナカタ)の御本地を安置せんと欲す。其の御本地不輙(たやすからず)して伊勢の國五十鈴河の上、磯の宮に参籠して祈請する事百日を滿ず。此は文武天皇即位十年(707年)丙午の九月十五日戌の刻、神宮の荒御垣御門の外に於て聖人法楽を資奉る。于時蒼天雲なく月光殊に朗なり。而に御寶殿の前に一つの日輪を現ず。其の中に立像の十一面観世音菩薩影向して光を放ち明を成玉ふ。其の像常のごtくに非ず。右手に三相を表す。言く、四指を舒垂て錫杖を執り念珠を持す。左手も又三相を表す。謂く寶珠拳にして瓶を握り花を持す。其の光り世間の日光に異り、社檀及び草木山岳を照して影なし。聖人神の御本地を拝し奉り求願成就の喜び斜ならず。頻りに彼の尊像を造んことを欲す。爰に泊瀬の河上に十丈余の樟あり。元近州の三尾山より出でたりと。常に天人下て花を散じ、時あって霊光を放つ。もし過って触犯す者は、倐ち祟て温疫を懊む。聖人此霊木を見て香華を供へ、禮拝持念すること佛像に對するが如し。時に稽文會・稽主勲(奈良時代の仏師。神亀年間(724~729)に稽文会と共に,奈良長谷寺の十一面観音像を造ったと伝えられている。)の両工に逢って纔に彼日輪影向の像を語に三日の間にして造像成就せり。その尊像二躰各々御長二丈六尺(約9メートル)。彼の影向の尊容と相好別異あることなし。聖人是を拝し奉り斯る大像を速に彫刻し玉ふは何なる権化に在すやと。両人の佛工を拝謝すれば、両人答て、善哉善哉、所門甚だ利益あり、我は蓮華に坐して寶冠に弥陀を戴き、娑婆示現観世音、又垂迹は武雷槌命(タケミカヅチノミコト・大国主に国譲りをさせた。のちに鹿島神宮の主祭神)なり。今一人も又曰く、我は無佛世界を嘱て今世後世の能化たり。又垂迹は天児屋根命(あめのこやねのみこと。岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出し、天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となり、春日大明神。)稽文會。和光の塵に交りて春日の山に鎮座せり。汝が所願を助んため、権に佛工と化しぞと。各々本地垂迹を語り光を放て飛び厺んぬ。此の事叡聞に達しければ、左大臣藤原房前卿を勅使として両尊像を拝覧せしめ、開眼導師は行基僧都。僧侶は南都を請ずべしと。聖人宣命を蒙りて、天平五年癸酉(733年)五月廿日、法味を捧げ音楽を調べて殊勝の供養を修し玉ふ(已上縁起)。斯て行基大士、末木の尊像にたひ今此の泊瀬山に両尊立せ玉ふては、衆生の意何を信ずべきと。岐に啼の迷あるべし、何処へなりと有縁の地を占て度生の方便を布玉へと、祈誓をなして外の山に移し奉る。其の後、大風雨にて洪水あり。山崩谷注いで尊像何地ゑか流出させ玉ふとぞ。
玉ふとぞ。
天平八年丙子(736年)の中夏鎌倉由比の澳に光出る所有り、毎夜その滸を照らして恰も白晝の如し。漁夫等是を怪みて櫂にて打見る者は忽身立枯て動ず。然るに六月望の大汐より、此の浦殊に風雨烈しく潮水怒て陸に上る。同十八日朝に至り雨歇み風静て見れば、由井の濱に大悲の像を打上げたり。漁夫等鯨魚を得たりと争ひ出近つ゛き見れば十一面観世音なり。それより浦々の者集り拝し、忽ち仮屋を作り尊像を安置し奉る(于今其の所を假屋が碕と云)。此の事由井の長より國司え達し國司より帝都え奏せば主上叡聞在して御感ことに淺からず。嘗て洪水に流出何地に漂玉ふかと多年心緒を慯めしが佛縁誠に不可思議なりと、堂上百官喜悦の餘り、感涙冠纓を湿せり。其頃徳道上人は杜多(ずだ)の修行に出玉ひ。折しも當國に廻来て小田原近き里にして、或夜老僧来たり告げて曰く、我は汝が本願の末の観音なり。数年の間海中に漂泊し龍宮恒河沙の衆生を化益し、今有縁に随て由井の濱に出現せり。疾来れ相見んことを欲すると。聖人夢覚めて急ぎ鎌倉に至り再び尊容を拝し奉る。于時、帝都よりは勅使を下し、一宇建立の沙汰しあれば、聖人靈山が崎にて勝地を卜し不日に殿堂を経営し件の尊像を安置して永く大悲利生の霊場と成玉へり。本尊の来由に凭て長谷寺と号し、此の地出現の時、海中瑞光ある故を以て海光山と名く・
慈照院と号することは、東山義政公、厚く當山の本尊を信じ、政務の中にも持念怠り玉はず。延徳二年(1490)正月七日行年五十六歳にして薨去し玉ふ、其前三日黄昏の比、長谷寺の方より紫雲たなびき、雲中より光明出て、公の臥屋を照す。公是を見て安心決定し、忝くも観世音の慈光を垂て我が不浄の陋屋を照らし玉ふ。必ず極楽往生疑なし。我閉眼せしならば、慈光照屋の意を以て慈照院と号せよと、自ら院号をつき玉ふ。公在世の間、堂舎建立の大旦主なれば、永く其功を追て別當の坊に名く。尊氏八世の裔、義教の仲子治世三十九年、文明十七年(1485年)冠を東山の閑亭に掛く。故に東山殿と云。薨じて慈照院道慶喜山と号す。
本尊十一面の頂上佛一躯何れの世に失玉ふや、曽て知者なし。融音和尚得度の頃より當尊を渇仰し頂上佛面の空坐を咨嗟(なげく)こと于茲年あり。積功累徳の後、京都百万遍寺に移住せり。一夜の夢に鶴頂皓眉の高貴僧来て曰く、我は汝が念ずる鎌倉長谷寺の頂上佛なり、影の隨ふごとく是まで汝を守護せしなり、最早命終も遠きにあらざるまじ。尚又當来も知遇すべしと。融音夢覚めて生涯の望足ぬることを喜び、鎌倉え代参を以て供養物を奉献せり。
(此時長谷寺の住僧は中興第七世傳蓮社辨秋なり)。又一時頂上佛先の如く僧と化り来たり、夢に融音に告玉ふは、我来年三月十八日に至り、鎌倉長谷寺へ還坐するなり。必ず思慮を労すること勿れと。融音驚き覚て又鎌倉え脚力を立、件の霊夢を告贈れり。斯て翌年融音和尚の霊夢のこと、即ち今日に當れり。若しや子細も有んかと、早旦より意待しけるに、日暮れるも何事もあらず。初夜の頃至て辨秋本堂へ上り、例の如く看経口称を勤居たり、然るに外陣へ一の墨染の僧来たり。良久しく經を誦し、又後堂の方へ廻る。(堂内の四邊土間なり。常に参詣者巡堂する)。時に辨秋怪しみ思ふに彼の僧は信心の参りか、但し佛物にても貧る者かと。跡を追て行見るに彼僧の影もなし。猶訝りて前後を見廻す内、足元にて大に物音せり。驚見れば一の箱あり。箱の上に鎌倉長谷寺頂上佛面と書す。辨秋夢現共辨へず、感涙瀧て墨の袂を絞られし。即ち本尊の頂上へ安置奉るに、偶合些も差はざれば見聞の諸人、倍々信心を起こせしとぞ(京百万遍融音の筆記今略し出す)。
巡禮詠歌 「一回(ひとたび)は誰も歩を長谷寺の誓にふける由井の濱風」
本堂は東向。右の方は由井の濱。近くは藻を採る海士の汀を往辺し、遠くは漁舟の片帆見つ。潜(かくれ)つ磯の浪は梵音海潮音。左の向ふは鶴岡八幡宮。表大門海辺に續きて、行樹の森に鳥居を産。神威の不測尚崇く、鎌倉第一の風景にて巡礼の輩も旅の疲労を忘るる也。此の地を聞者は皆渇仰して詣で来る。上の句、此の意なり。下の句は此の好景を眺て自ら意に快きことは、即ち大悲の恵に逢なりと。所謂大王の雄風と云ふ意氣あり。斯る絶景の眺望も、若し風強ければ生死海の浪高く、浄土の彼岸に渡り難し。或歌に「極楽の弘誓の舩に乗たくは、心の浪の立つをしつ゛めよ」。西行の歌に「浪高き世をこぎこぎて人は皆、舟岡山を泊りとぞする」。
法の月光を分て世を照らす、徳州(やまと)のはつせ、鎌倉の山。此の一首も濱風の歌とならべ存して。同じく古来より唱来ると。仍て今于茲に出して併解く、法の月とは。今観音を指して云、「光を分けて」とは、此の二丈六尺の像は、大和の泊瀬寺の本尊と同木同作にして大和は本木の尊像、此地は末木の観音なり。「世を照らすとは大悲救世の慧光を月の闇夜を照らすに譬ふ。
當山靈佛像多き中に運慶蘇生の閻魔あり。長七寸。左右の二鬼長五寸。或時佛工運慶頓死せり。胸の間暖なれば、家人是を葬らず。翌日に至り蘇生して曰く、二鬼来たりて我を引行くに、凢そ十里余りと覚て殊外疲労せり。一の大なる鉄門あり。是を通り過ること二町(2.4K)可りにして高き楼閣あり。其中央に高座を構へ閻魔大王座し玉ふ。其の威厳の相好可畏こと、世に譬べき者なし。大王我に告げて曰く、汝今此界へ来る者にあらず。我が招くことは汝佛工を能くする故なり。我は此の閻魔羅國の主にして諸の悪人を呵責し其罪業の軽重を糺し、各々相應の地獄へ遣すなり。若し我が真像を模刻て世間造悪の者に見せなば、我が呵責の恐れて佛道の善事に趣くべしと。仍って我運慶大王の真容を見奉るに、忽ち夢覚めたりと。即ち見所の肖像を始めて彫たる故に、試の閻魔とも云。私に云、小野篁、身は朝庭に列なり、神(たましひ)は閻魔王宮に往来して手鏡(てずから)大王の肖像を彫む。是日本最初の炎王の像なり。今現に京都六波羅六道の辻にあり。(今も六道珍皇寺に小野篁作という閻魔像あり)尚又方便の感見もあるべきことなり。篁の事は三代実録にあり。)
或記に云、推古天皇三十四年(626年)三月、五瀬國幷に日向の國より言す、五瀬國黄葉の縣佐伯の小經来(さえきのおずく)死す。三日二夜にして甦る。日向の國小畠の縣、依狭所栖名を不知。五瀬の者は日向を語り、日向の者は五瀬を語る。父子郷村其名分明なり。子弟互に至て相問ふに、符合せり。然る所以は二人國を隔て同時に死し、共に冥府に至る。黄泉の大王官と共に議て曰く、両人の命未だ盡ず、宜く古郷に還すべしと。冥使此を率て来る。誤て其魂を尸とを差(たがふ)と。両家の子弟深く不審、此を縣の社に問ふ、明神巫に託して曰く、冥使は通明なり。何ぞ誤ることあらん。世人魂鬼を不知。又多く冥府あることを疑ふ。冥帝これを知て、此を證し、此を教て斯の如くなるのみと。其の身は我が父なれども心は其子にあらず。故に朝に訴て、小經来は日向に至り、晴戸は五瀬に至り、故の如くに行業すとなり。役の行者㚑験記に見たり。出處は大成經丗四の巻。
三才圖會云、勢州安濃郡内田村長源寺本尊十一面観世音、御長三尺三寸(1m26㎝)伝教大師、菩提樹を以て所作也。相傳て曰く、昔當地の人、日向の旅人と會(たまたま)堂の椽に於いて暑を避く、互に不知、熟睡日既暮る。有る人、にはかに之を呼び起こす。両人周章覚。其の魂替り而て各々家に還る。心志音聲は其の人にして而も面貌は甚異也。故に家人敢えて肯はざるなり。両人ともに然也。故に再び于茲に来て復熟睡すれば則ち夢中に魂入れ替りて故の如し。諺に曰、伊勢也日向の物語とは是也と。又昔大唐に扁鵲と云名医あり。魯の公扈(こうこ)と趙の斉嬰が病を治せんとして、二人の胸を剖て心を取り買換ければ
公扈は斉嬰が宅に歸り、斉嬰は公扈が家に歸る。故に妻子あれども不知。二人の妻子共に扁鵲の處に到て問、扁鵲其の所由を辨じて後、安堵せりと(列子下巻(湯問篇)に出)。
此事は事異にして趣相似たり。又明神の託宣(五瀬日向)も、閻魔の教勅も(佛師運慶)諸人冥途の事を信ぜず、因果を撥無して罪福を恐れざる故に、此等の衆生を哀みて故に教示し玉ふならめ。