福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴『努力論』その5

2013-10-05 | 法話
惜福の説(幸福三説第一)

船を出して風に遇ふのに何の不思議は無い。水上は廣闊、風はおのづからにして有るべき理である。併し其の風にして我が行かんと欲する方向に同じき時は、我は之を順風と稱して、其の福利を蒙るを得るを悦び、又我が方向に逆行して吹く時は、我は之を逆風と稱して、其の不利を蒙るを悲み、又全くの順風にもあらず、全くの逆風にもあらざる横風に遇ふ時は、帆を繰り舵を使ふの技術と、吾が舟の有せる形状との優劣善惡によつて、程度の差はあるが之を利用するを得るのである故に、餘り多くの風の利不利を口にせず、我が福無福をも談かたらぬのが常である。
是の如き場合に於て風には本來福と定まり福ならずと定まつて居ることも無いのであるから、同一の南風が北行する舟には福となり南行する舟には福ならぬものとなるのである。順風を悦ぶ人の遇つて居る風は、即ち逆風を悲む人の遇つて居る風なのである。福ならずとせらるゝ風は即ち福なりとせらるゝ風なのである。して見れば福を享くるも福を享けぬも同じ風に遇つて居るのであるから、福を享けた舟が善い故福を享けたといふ事も無く、福を享けぬ舟が惡い故福を享けぬといふことも無く、所謂運まはり合せといふもので有つて、福無福に就ては何等の校量計較によつて福を享け致すべきところも無いやうなものである。
併しながら福無福を偶然の運めぐり合せであるとするのは、風に本來福も無福も無いといふ理や、甲の福とする風は即ち乙の無福とする風と同一の風であるからといふ理が有ればとて、それは聊か速斷過ぎるのである。如何となれば風は豫測し難いものには相違無いが、又全く豫測することは出來ないものとも限られては居ないのであるから、舟を出さんとするに臨みて、十二分の思議測量して我に取つて福利なる風を得べき見込を得たる後、初めて海に出づるに於ては、十の七八は福を享け無福を避け得る筈である故に、福に遇ひ無福に遇ふを以て偶然の廻り合せのみに歸すといふことは、正當の解釋とは認められない理である。
人の社會に在つて遭遇する事象は百端千緒であるが、一般俗衆がやゝもすれば發する言語の『福』といふものは、社會の海上に於て、無形の風力によつて容易に好位置に達し、又は權勢を得、富を得たるが如き場合を指すので、彼は福を得たといふものは、即ち富貴利達、若くは富貴利達の斷片的なるものを得たといふのである。
福を得んとする希望は決して最も立派なる希望では無い。世には福を得んとする希望よりも猶幾層か上層に位する立派な希望がある。併し上乘の根器ならざるものに在つては、福を得んとするも決して無理ならぬことで、しかも亦敢て強ちに之を批難排撃すべき事でも無い。福を得んとするの極、所謂淫祠邪神に事ふるをも辭せずして、白蛇に媚び、妖狐に諂ふ如きに至つては、其の醜陋なること當り難きものであるが、滔々たる世上幾多の人が、或は心を苦め、或は身を苦め、營々孜々として勉め勤めてゐるのも、皆多くは福を得んが爲なのであると思へば、福に就て言を爲すも亦徒爾ではあるまい。
太上は徳を立て、其の次は功を立て、又其次は言を立つるとある。およそ此等の人々に在つては、禍福吉凶の如きは抑も末なるのみで、餘り深く立入つて論究思索する價も無いことで有らう。若し又單に福を得んことにのみ腐心して之を思ふに至らば、蓋し其の弊や救ひ難きものあらんで、論究思索も、單に、「如何にして福を得べきや」といふことのみに止まつたらば、或は人間の大道を離れて邪路曲徑に入るの虞が有らう。本來から言へば、事に處し物に接するに於て吾人は須らく『當不當』を思ふべきで、『福無福』の如きは論ぜずして可なる譯であるが、こゝに幸福の説をなすものは、愚意所謂落草の談をなして人をして道に進ましめんとするに他ならぬのである。甚しく正邪を語れば人をして狷介偏狹ならしむるの傾がある。多く禍福を談かたれば人をして卑小ならしむるの傾がある。言をなすも實に難い哉であるが、讀む人予が意を會して言を忘れて可なりである。
幸福不幸福といふものも風の順逆と同樣に、畢竟つまりは主觀の判斷によるのであるから、定體は無い。併し先づ大概は世人の幸福とし不幸とするものも定まつて一致して居るのである。で、其の幸福に遇ふ人、及び幸福を得る人と然らざる人とを觀察して見ると、其の間に希微の妙消息が有るやうである。第一に幸福に遇ふ人を觀ると、多くは『惜福』の工夫のある人であつて、然らざる否運の人を觀ると、十の八九までは、少しも惜福の工夫の無い人である。福を惜む人が必らずしも福に遇ふとは限るまいが、何樣どうも惜福の工夫と福との間には關係の除き去る可からざるものが有るに相違ない。
惜福とは何樣どういふものかといふと、福を使ひ盡し取り盡して終しまはぬをいふのである。たとへば掌中に百金を有するとして、之を浪費に使ひ盡して半文錢も無きに至るがごときは、惜福の工夫の無いのである。正當に使用するほかには敢て使用せずして、之を妄擲浪費せざるは惜福である。吾が慈母よりして新たに贈られたる衣服ありと假定すれば、其の美麗にして輕暖なるを悦びて、舊衣猶ほ未だ敝やぶれざるに之を着用して、舊衣をば行李中に押まろめたるまゝ、黴と垢とに汚さしめ、新衣をば早くも着崩して、折目も見えざるに至らしむるが如きは、惜福の工夫の無いのである。慈母の厚恩を感謝して新衣をば浪みだりに着用せず、舊衣猶未だ敝れざる間は、舊衣を平常の服とし、新衣を冠婚喪祭の如き式張りたる日に際して用ふるが如くする時は、舊衣も舊衣として其の功を終へ、新衣も新衣として其の功を爲し、他人に對しても清潔謹嚴にして敬意を失はず、自己も諺に所謂『褻けにも晴にも』たゞ一衣なる寒酸の態を免るゝを得るのである。是の如くするを福を惜むといふのである。
樹の實でも花でも、十二分に實らせ、十二分に花咲かす時は、收穫も多く美觀でもあるに相違無い。併しそれは福を惜まぬので、二十輪の花の蕾を、七八輪も十餘輪も摘み去つて終ひ、百顆の果實を未だ實らざるに先立つて數十顆を摘み去るが如きは惜福である。花實を十二分ならしむれば樹は疲れて終ふ。七八分ならしむれば花も大に實も豐に出來て、そして樹も疲れぬ故、來年も花が咲き實が成るのである。
『好運は七度人を訪ふ』といふ意の諺が有るが、如何なる人物でも周圍の事情が其の人を幸にすることに際會することは有るものである。其の時に當つて出來る限り好運の調子に乘つて終ふのは福を惜まぬのである。控へ目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り盡して終はぬが惜福であり、又使ひ盡して終はぬが惜福である。十萬圓の親の遺産を自己が長子たるの故を以て盡く取つて終つて、弟妹親戚にも分たぬのは、惜福の工夫に缺けて居るので、其の幾分をば弟妹親戚等に分ち與ふるとすれば、自己が享けて取るべき福を惜み愛いつくしみて、之を存して置く意味に當る。これを惜福の工夫といふ。即ち自己の福を取り盡さぬのである。他人が自己に對して大に信用を置いて呉れて、十萬圓位ならば無擔保無利息でも貸與して呉れようといふ時、悦んで其の十萬圓を借りるのに毫も不都合は無い。しかし其は惜福の工夫に於ては缺けて居るのであつて、十萬圓の幾分を借りるとか、乃至は或擔保を提供して借りるとか、正當の利子を拂ふとかするのが、自己の福をば惜む意味になる。即ち自在に十萬圓を使用し得るといふ自己の福を使ひ盡さずに、幾分を存※(「澑のつくり」、第4水準2-81-31)して置く、それを惜福の工夫といふものである。儉約や吝嗇を、惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの福佑を取り盡さず使ひ盡さずして、之を天と云はうか將來といはうか、いづれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを福を惜むといふのである。
是の如きは當時の人の視て以て迂闊なり愚魯なりとすることでも有らうし、又自己を矯め飾り性情を僞はり瞞くことともするで有らうが、眞に迂闊なりや愚魯なりやは、人の言語判斷よりも世の實際が判斷するのに任せた方が宜しい。又聖賢の如き粹美の稟賦を以つて生れて來ぬものは、自然に任せ天成に委ねてはならぬ。曲竹は多く※(「隱/木」、第4水準2-15-79)括のだめを施さねばならぬ。撓め正さずして宜いのは、唯眞直な竹のみである。粗木は多く※(「髟/休」、第3水準1-94-26)漆きうしつ塗染とせんするによつて用をなす。其儘で好いのは、唯緻密堅美な良材のみである。馬鹿々々しい誇大妄想を抱いて居るもので無い以上は、自己をみづから矯め、みづから治めるのを誰か是ならずとするものが有らうか。
それらの論は姑らく之を他日に讓りて擱き、兎に角上述したる如き惜福の工夫を積んでゐる人が、不思議にまた福に遇ふものであり、惜福の工夫に缺けて居る人は不思議に福に遇はぬものであることは、面白い世間の實際の現象である。試みに世の福人と呼ばるゝ富豪等に就て、惜福の工夫を積んで居る人が多いか、惜福の工夫を積まぬ人が多いかと糾して見れば、何人も忽にして多數の富豪が惜福を解する人であることを認めるで有らう。飜つて又世の才幹力量はありながら、しかも猶一起一倒、世路に沈淪して薄幸無福の人たるを免れぬものを見たならば、其の人の多くは惜福の工夫に缺けて居るのを見出すで有らう。
同じ事例はまた之を古來の有名なる福人の傳記に於て容易に檢出することを得る。福分の大なることは平清盛の如きは少い。併し惜福の工夫には缺けて、病中に憤死し、家滅び族夷たひらげられたのは、人の知つてゐることである。木曾義仲は平氏を逐ひ落した大功が有つた。併し惜福の工夫には缺けて、旭將軍の光は忽ちに消え去つた。源義經もまた平氏討滅の大功が有つた。惜い哉、朝廷の御覺目出度きに乘じて、私に受領したために兄の忌むところとなつて終を全くしなかつた。頼朝の猜忌は到底避け難きところでは有つたらうが、義經に惜福の工夫の缺けたのも確に不幸の一因となつたのである。東照公は太閤秀吉に比して、器略に於ては或は一二段下つて居たかも知らぬが、併し惜福の工夫に於ては數段も優つて居た。腫物の膿を拭つた一片紙をも棄てなかつたのは公である。聚樂じゆらくの第だいに榮華を誇つた太閤に比して、如何に福を惜まれたか知る可きである。而して又一片の故紙をも棄てざるところより、莫大の大金を子孫に殘して、徳川氏初期數代を築き固むるの用とせられたに徴しても、如何に惜福に力められしかを知るべきである。當時の諸侯は皆馬上叱咤號呼の雄にして、悍かんがう激烈げきれつの人であつたが、いづれも惜福の工夫などには疎くて、みな多くは勝手元の不如意を來し、度支たくし紊亂ぶんらん、自ら支ゆる能はざるに至つて、威衰へ家傾き、甚だしきは身を失ひ封を褫うばはるゝに及び、然らざるも尾を垂たれ首を俛たれて制を受くるに至つたのが多いのである。三井家や住友家や、其の他の舊家、酒田の本間氏の如きも、連綿として永續せるものは、之を糾すに皆善く福を惜めるによつて福竭きず、福竭きざる間に、又新あらたに福に遇ひて之を得るに及べるのである。外國の富豪の如きも、其の確固なるものは、皆之を質すに惜福の工夫に富んでゐるのである。
梁肉を貪り喰ひ、酒緑燈紅の間に狂呼して、千金一擲、大醉淋漓せずんば已まざるが如きは、豪快といへば豪快に似たれども、實は監獄署より放免せられたる卑漢が、渇し切つたる娑婆の風味に遇ひたるが如く、十二分に歡をつくせば歡をつくすだけ、其の状寧ろ憫む可く悲しむ可くして、寒酸の氣こそ餘り有れ、重厚のところは更に無いのである。器小にして意急なるものは、餘裕有る能はざる道理であるから、福を惜むことの出來ないのは即ち器小意急の輩で、福を惜むことの出來るのは即ち器大に意寛なるものである。新あらたに監獄を出たるものが一醉飽を欲するは人の免れぬ情であらうが、名門鉅族の人は、美酒佳肴前に陳つらなるも、然さのみ何とも思はざるが如くである。此の點より觀れば、能く福を惜み得るに於ては其の人既に福人なのであるから、再三再四福に遇ふに至るも、怪むべきでは無いのである。試に世上を觀るに、張三李四の輩、たま/\福に遇ふことは無きにあらざるも、其一遭遇するや、新に監獄を出でし者の醉飽に急なるが如く、餓狗の肉に遇へるが如く、猛火の毛を燎やくが如く、直に其の福を取り盡し使ひ盡さずんば已まないのである。そこで土耳古人の過ぎたる後には地皆赤すといふが如く、福も亦一粒の種子だに無きやうにされ了るのであるから、急には再び福の生じ來らぬやうになるも、不思議は無いのである。
魚は數萬個の卵を産するものであるが、それでさへ惜魚の工夫が無くて酷漁すれば遠からずして滅し盡すものである。まして人一代に僅に七度來るといふ好運の齎らすところの福の如きが、惜福の工夫無くして、福神を酷待虐遇するが如き人に遇つて、何ぞ滅跡亡影せざらんやである。禽は禽を愛惜する家の庭に集り、草は草を除き殘す家の庭に茂るのである。福もまた之を取り盡さず使ひ盡さざる人の手に來るのである。世上滔々福を得んと欲するの人のみであるが、能く福を惜む者が若干人か有らう。福に遇へば皆是新出獄者の態をなす者のみである。たま/\福を取り盡さざるものあれば、之を使ひ盡すの人であり、又福を使ひ盡さざるの人であれば、之を取り盡すの人であつて、眞に福を惜む者は殆ど少い。世に福者の少いのも無理の無いことである。
個人が惜福の工夫を缺いて不利を享くる理は、團體若くは國家に於ても同樣で無ければならぬ。水産業は何樣どうである。貴重海獸の漁獲のみに力めて、保護に力めなかつた結果は、我が邦沿海に、臘虎らつこ膃肭臍おつとせいの乏少を來したでは無いか。即ち惜福の工夫無きために福を竭して終つたのである。蒸氣力トラウル漁獲に力めた結果、歐洲、特に英國に於ては海底魚の乏少を致して、終に該トラウル船を遙に日本などに賣卻するを利益とするに至つたのも、即ち福を竭して不利を招いたのである。山林も同樣である。山林濫伐を敢てして福を惜まなかつた結果は、禿山渇水を到處いたるところに造り出して、土地の氣候を惡くし、天候を不調にし、一朝豪雨あるに至れば、山潰え水漲りて、不測の害を世間に貽おくるに至るではないか。樹を伐れば利益は有るに相違無からうが、所謂惜福の工夫を國家が積んだならば、山林も永く榮茂するで有らう。魚を獲れば利益が有るには相違無からう、が、これも國家が福を惜んだならば、水産も永く繁殖することで有らう。山林に輪伐法あり、擢伐法あり、水産に劃地法あり、限季法あり、養殖法あり、漁法制度ありて、此等の事を遂行し、國福を惜めば、國は福國となる理なのである。
軍事も同樣である。將強く兵勇なるに誇つて、武を用ひる上に於て愛惜する所が無ければ、終には破敗を招くのである。軍隊の強勇なるは一大福である。併し此の福を惜む工夫が無ければ、武を黷けがすに至る。武田勝頼は弱將や愚將ではなかつた。たゞ惜福の工夫に缺けて、福を竭し禍を致したのである。長篠の一戰は、實に福を惜まざるも亦甚しいものであつて、馬場山縣を首はじめとし、勇將忠士は皆其の戰に死した爲、武田氏の武威は其後復また振はなくなつたのである。將士忠勇にして武威烈々たるのは一大福であるが、之を惜まざれば、福の終に去ることは、黄金を惜まざれば、黄金の終に去ると同じ事である。那破崙なぽれおんは曠世の英雄である。武略天縱てんしよう、實に當り難きの人であつたが、矢張り惜福の工夫には乏しかつたので、魯國への長驅に武運の福は盡き去つて終つた觀がある。我が邦は陸海軍の精鋭をもつて、宇内の強國を驚かして居る。併しこれとても惜福の工夫を缺いたならば、水産山林と同樣の状態に陷るべきは明瞭である。雄將忠卒も數限りは有り、金穀船馬も無限に生ずるものでは無い。まして軍隊の精神は麪麭パンを燔やくやうに急造し得るものでは無い。陸海軍の精鋭は我が邦の大幸福であるが、之を愛惜するの工夫を缺いたならば寒心すべきものがある。福を使ひ盡し取り盡すといふことは忌む可きであつて、惜福の工夫は國家に取つても大切である。
何故に惜福者はまた福に遇ひ、不惜福者は漸くにして福に遇はざるに至るで有らうか。此はたゞ事實として吾人の世上に於て認むることで、其の眞理の鍵は吾人の掌中に所有されて居らぬ。併し強ひて試に之を解して見れば、惜福者は人に愛好され信憑さるべきもので有つて、不惜福者は人に憎惡され危惧さるべきものであるから、惜福者がしば/\福運の來訪を受け、不惜福者が終に漸く福運の來訪を受けざるに至るも、自ら然るべき道理である。前に擧げた慈母より新衣を贈られたる場合の如き、惜福者の擧動は慥に婦人の愛好を惹き、其の母をして、吾が兒の吾が與へしところのものを重んずる是の如きか、と怡悦滿足の情を動かさしむべきであるが、之に反して不惜福者の、亂暴に新衣を着崩し、舊衣を押丸めたるを見る時は、如何に慈愛深き母なればとて、慈愛こそは此が爲に減ずる如きことも無かるべけれども、嗚呼吾が與へしものを草率に取扱ふこと何ぞ甚しきやと、歎ずるに至るべきは明白である。人は感情の爲に動くものであるから、滿足怡悦すれば、再び復また新衣を造り與へんとするに至るべきも、聊かなりとも悦ばしからず感ずるに於ては、再び新衣を造り與へんとするに際しても、或は時遲く、或は物粗そなるに至るべき勢が幾分かある。慈母ならば而も甚しき差は無かるべけれど、繼母なんどならば、不惜福者に對しては厭惡の念を發して、或は故に再び之を與ふるに及ばざるやも知る可からずである。無擔保を以て資を借りるが如きも然りで、惜福者が利子を提供し、擔保を提供し、或は額面を減少して借りるが如きは、其の出資者の信憑を強くする所以の道であるから、其の後復また再び借用を申込むも、直に承諾さるべき事態で、融通の一路は優に存するのであるが、不惜福者の擧動は、たとひ當面の出資者に於ては何等の厭ふべき點無しと認むるにせよ、出資者の家眷、乃至友人、婢僕等よりは危惧の眼まなこを以て見らるべきものであるから、何時かは其等の人々の口より種々の言語が放たれて、そして終には出資者よりも危惧され、融通の一路は障礙物によつて埋めらるゝに至るのである。是の如き二の事例は實に瑣細の事であるが、萬事此の樣な道理が、暗々の中、冥々の間に行はれて、惜福者は數々しば/\福運の來訪を受け、不惜福者は漸く終に福運の來訪を受けざるに至るのであらう。
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