26、大師四十歳、弘仁四年(813)南円堂鎮壇・・・興福寺南円堂(西国九番興福寺南円堂は大師が鎮壇法を修されました。「弘法大師御行状集記興福寺南円堂第八十」に「右大臣冬嗣と大師檀契深く、・・・大師興福寺の殊勝の地を択びて南円堂を建立さる。」とあります。)
27、大師四十二歳、弘仁六年(815)瓦屋寺ご修行・・・神光院(旧瓦屋寺)(大師四十二歳の時に、当院で九十日間の修行をされ境内の池に映る自らの姿を木像に彫り残されたとつたえられこれが当寺の御本尊となり京都三弘法(他は東寺、仁和寺)の一つとされています。のちに上賀茂神社神職松下能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、「神光院」として建立しています。境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、「蓮月庵」もあります。明治はじめには和田智満が興隆しています。)
28、大師四十二歳、弘仁六年(815)石山寺留錫・・・石山寺(西国十三番、大師はここで御年四十二歳の厄除け祈願をされ不動明王を祀られています。有名な「淳祐内供筆聖教(薫聖教)」(国宝、平安時代)もここにつたわっています。
27、大師四十二歳、弘仁六年(815)瓦屋寺ご修行・・・神光院(旧瓦屋寺)(大師四十二歳の時に、当院で九十日間の修行をされ境内の池に映る自らの姿を木像に彫り残されたとつたえられこれが当寺の御本尊となり京都三弘法(他は東寺、仁和寺)の一つとされています。のちに上賀茂神社神職松下能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、「神光院」として建立しています。境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、「蓮月庵」もあります。明治はじめには和田智満が興隆しています。)
28、大師四十二歳、弘仁六年(815)石山寺留錫・・・石山寺(西国十三番、大師はここで御年四十二歳の厄除け祈願をされ不動明王を祀られています。有名な「淳祐内供筆聖教(薫聖教)」(国宝、平安時代)もここにつたわっています。