今日は唐木順三の命日です。唐木は1980年(昭和55年)5月27日、肺癌のため築地の国立がんセンターで死去しています。76歳、戒名は雪峰院不期順心居士。
唐木は「日本人の心の歴史」の最初に『詩情』が日本人の心であるとして正法眼蔵の現成公案の「仏道をならふは自己ををならふこと、自己をならふといふは自己を忘るること、自己を忘るるといふは萬法に証せらるること、萬法の証せらるるといふは自己の身心および他己の身心を脱落せしむること」をi引用し「自己とは何かと問ふその自己を徹底的に追究してその果てに自己そのものが透體となって蒸発して自身が本来空の圓月相となるとき、山川草木、有情非常との真の道交感応が成就せられるだろう・・」としています。単なる詩情ではなくその奥に深い覚りの上の詩情が日本人の心であるといっているのかもしれません。
松岡正剛は「千冊千夜」 で唐木の「中世の文学」について、「この本を読んでいない人と日本を語るのは遠慮したいものだ。最初に読みおわったときに、そんな気分になったことを憶えている。」「長明、兼好、世阿弥、道元、一休、芭蕉という順で、ゆっくりと日本の中世を紐解いていく。
長明について・・「数寄の最後」が長明の発心なのである。兼好を見ていくと・・『徒然草』では、存在するものは・・かえって「仮」である。世阿弥の「時分の花」とは芸能者が一定の時間の中でのみ感得できる緊張の開花である。ここから「見の能」「聞の能」の先の「心の能」が出てくる。この「心の能」に「寂々としたもの」と「冷え」があらわれる。これが世阿弥の「さび」だった。
こうして道元の「道得」や「横超」が見えてくる。とくに唐木は道元が「梅華」「行持」「有時」の巻で展開した思索に目を注ぐ。そこにあらわれるのは「而今(にこん)」ということである。「いま」ということである。
しかし、道元の而今は、古仏のすべてに出会うための而今なのである。そこには時間の横超がある。その重畳がある。これが道元の「現成」であり、「身心脱落」である。いわば同時契合なのだ。唐木はそこにライプニッツのモナドロジーを思う。そして、あらかじめ設定された予定調和の否定を思う。・・・」
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