死後はどうなるのか?先祖はどうしているのか?こうした疑問は常に我々の脳裏を過ります。自分も懐かしい亡父母はどうしているのかいつも気になります。
結論は、死んでいても生きていても自分が衆生済度の働きをしている限りは先祖と一緒にいることになるということです。
今まで何の気なく唱えていた年忌法要の句に「一切有情界に於いて共に普賢の行願を満足せんことを」というところがあります。「普賢の行願」とは一言でいえば「何度でも生まれ変わって衆生済度の為の菩薩行を為すこと」です。
あの世でもこの世でもこの衆生済度の為の菩薩行を為している限りその瞬間は先祖供養にもなり懐かしいご先祖様と一体ともなっているということではないかとおもいます。自分もそう思い直して頑張ることとしたいと思います。
金山穆韶師も「仏教における個体の観念」で「悟りの世界(死後の世界)も獅子奮迅の働きをすべきところ」とおっしゃっています。
「密教にては涅槃は単寂の境にあらざることを明かさんとして北方涅槃をば五部(金剛界五仏の五智を表す分類。仏部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部)の中には羯磨部に配しまたその中尊を不空成就佛と称し、その四親近(主要五佛の四方に配される菩薩)をば、業、護、牙、拳としていずれも活動を表示し、五智(法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)の中には成所作智に配す、またこれを胎蔵曼荼羅に依るも北方涅槃をば天鼓雷音佛と称す。これ雷霆の無相にして而も天地に満る音響を発するが如く、涅槃は無相なれども無尽の妙用あることを表せるものである。」(金山穆韶「仏教における個体の観念」)