福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

お正月は神仏一体の先祖祭りの日

2025-01-01 | 先祖供養

本来お正月は神仏一体の先祖祭りの日でした。
古典の数々(注4、5,)柳田國男「先祖の話」(注1)、五來重「宗教歳時史」(注2)、「奈良県民俗地図」(注3)等から明らかです。


注1、「先祖の話」柳田國男」(昭和21年4月)
正月の十六日を以て先祖を拝むにとしている例は極めて多い。先祖正月といふのはこの日のことで先祖の墓の前に集まって酒盛りをする風がもとはあった。・・日本人の志としては、たとへ肉体は朽ちて跡なくなってしまほうとも、なほ此の国土との因縁は断たず、毎年日を定めて子孫の家と行き通ひ、幼い者の段々に世に出て働く様子を見たひと思っていたろう・・。
もとは明らかに新年の魂祭りであったのだが・・徒然草の「晦の夜いたう暗きに・・・亡き人の来る夜とて、魂祀る業は此頃都には無きも東の方には猶ほすることにてありしこそ哀れ慣れなりしか。」(注4)・・それから三百何十年かの前には「亡き人の来る夜聞けど君もなし」といふ和泉式部の歌(注5)、「魂祀る歳の終わりになりにけり」といふ曽根忠義の歌などがある、」(注7)、

‥信仰の自由の原則に基ずいて仏法を出離してしまった家々の先祖祭(お盆)がこれからどうなっていくだろうといふことである・・・永い民族の歩みを跡つ゛ける為にはたとへ外来信仰(仏教)の習気が濃く浸潤して居ようとも、なほ國民の大多数層に遍く渡って居るものを尊重しなければならぬ。
日本人が最も先祖の祭りを重んずる民族であったことは夙に穂積陳重先生の著述などもあって汎く海外の諸國に知られて居る(注8)。
吉野地方・河内南部の山村などには、人がなくなって通例は三十三年目、稀には四十九年五十年の忌辰にとぼらひ上げまたは問ひきりと称して最終の法事を営む。その日を以て人は先祖になるといふのである。・・北九州のある島などには三十三年の法事がすむと人は神になるといふ者もある。・・つまりは一定の年月を過ぎると祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認めらていたのである。

氏神は清く祀らねばならぬ先祖のみたまの為に屋外の一地を點定したことが今ある十万余の國内の御社の最大多数のものの起こりであったといふこと・・・家々の神棚みたま棚とは同じ一つの系列の上に立つ・・
墓所が又一つの屋外の祭場であって是と氏神の社とは神仏の差では決してなく、もとは荒忌のみたまを別に祭ろうとする先祖の神に対する心つ゛かひから考え出された隔離ではなかった・・。三十三回忌のとぶらひあげといふことは・・それから後は人間の私多き個身を棄て去って先祖といふ一つの力強い霊体に溶け込み自由に家の為また國の公の為に活躍しうるものと考へていた。それが氏神信仰の基底であった。
私などの力説したいことはこの曠古の大時局に當面して、目覚ましく発露した國民の精神力、殊に生死を超越した殉國の至情には種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制,わけても常民の常識と名くべきものが隠れて大きな働きをして居る・・。人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に信仰の基底がなかったといふことは考へられない・・。信仰はただ個人の感得するものではなくて寧ろ多数の共同の事実だったといふことを今度の戦ほど痛切に証明したことは曾ってなかった。

特に日本的なものを列挙すると、
第一には死してもこの國の中に霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、
第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけで無しに何れか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難で無いやうに思っていたこと、
第三には生人の今はの時の念願が死後には必ず達成するものと思って居たことで、
是によって子孫の為に色々の計画を立てたのみか更に再び三たび生まれ代って同じ事業を續けられるもののごとく、思った者の多かったといふのが第四である。

富士や御嶽の行者などにも、死後の年数と供養とによって段々と順を追うて麓から頂上に登っていきしまひには神になるといふ信仰が今も行われて居る。
(葬法は)人の行かない山の奥や野の末にただ送って置いてくればよかったのである。・・そうして同時にみたまは日に清く日に親しくなって自在に祭りの座に臨み、且つ漸々と高く登って遥かに愛着の深い子孫の社会を眺め見守ることができるやうになる・・。

家に先祖の事業がなほ傳り社会が前賢の遺烈を無言の間に受け継いでいるのがもしも悉皆、後の人だけの手柄ではないとすると、・・そうして是が又國土を永遠の住かと信じて居た一つの民族の本来の姿ではないかと思ふ。

注2)、五来重『宗教歳時史』「大晦日のみならず正月というものが祖霊祭であり,祖霊をまねいて旧年の収穫を感謝するとともに,新年の豊作を予祝するものであったことをしめしている。これは新嘗の際にほぼおなじことであったが,とくに正月は豊作予祝に重点を
おいたものであろう。そして正月の潔斎と物忌は,祖霊を迎えるためのものであった。」
「いまでも注意しさえすれば正月の祖霊祭祀の行事を見出すことはさして困難ではない。信州で大晦日の年取りの食事が終わってから,新仏のあった家を訪問して物を贈るアラミタマ,または『アラタマ見舞』『アラドシの義理』と言うのも,陸前気仙沼地方の正月に,新仏の家の『オミタマをおがみに行く』と言うのも盆礼とおなじことである。そして年棚に祀られる歳神様
というのも,信州のオミタマサマの例が暗示するように,御先祖の霊魂なのである。このオミタマ
サマというのはおにぎりを仏の数だけつくり,先祖の戒名を唱えながら箸をつきたてて年棚にあげ
るもので,おにぎりも鏡餅もその白く丸い形は,じつは霊魂のシンボルなのであった」

注3)『奈良県民俗地図』「正月は,盆とおよそ趣きを異にする清浄な祭りと意識されているが,もとはともに
先祖の魂祭りであったとされる。年末年始の墓参りもこれを示している。年末は十二月三十一日に
セイボ参りと称して墓掃除をし,花や餅を供える。また榊をたてシメナワを張る所もある。年頭に
は元日に参る所が多い。外出は避けるが墓参りだけはするという所もある。生駒市鹿畑では正月に
夫婦一対の祖先の掛軸をかけて膳をすえたという。正月に鏡餅を寺に供える所も少なくない」
(注4)『徒然草』(第十九段,鎌倉時代)「追雌より四方拝につづくこそ面白けれ。晦日の夜,いたう闇きに,松(松明)どもともして, 夜半すぐるまで,人の門たたき走りありきて,何事にかあらん,ごとごとしくののしりて,足を空にまどふが,暁がたより,さすがに音なく成りぬるこそ,年の名残も心ぼそけれ,亡き人のくる夜とて,魂まつるわざは,この比,都にはなきを,東の方には,なほする事にて有りしこそ,あはれなりしか」

注5)和泉式部「なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿や玉なきの里(後拾遺)」


注6
・『枕草子』四〇段「ゆずり葉の,いみじうふさやかにつやめき,茎はいとあかくきらきらしく見えたるこそ,あやしけれどもをかし。なべての月ごろには見えぬ物の,師走のつごもりのみ時めきて,亡き人のくひものに敷くにやとあはれなるに,また,よはひを延ぶる歯固めの具にももて使ひためるは」
・『小右記』寛仁元(1017)年十二月三十日「入夜解除奉幣諸神, 次拝御魂,皆是例事也,亥刻追灘」
・『蜻蛉日記』(藤原道綱母・天延二(974)年十二月)「暮れはつる日にはなりにけり・・・みたまなどみるにも,れいのつきせぬことにおぽほれてぞ,はてにける。                      京のはてなれば,夜いたう更けてぞ,たたきくなるとそ」
注7)、曾禰好忠「魂祭る 年の終わりになりにけり 今日にやまたも あはんとすらむ(『詞花和歌集』)」)   
注8)穂積陳重「祖先祭祀と日本法律」「祖先の霊を礼拝し、これに酒饌を供えて、これを祭るの習俗は、その由って来る所、祖先に対する敬愛心に存して、恐怖心に縁由するものにあらざるなり」)。                   


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 構想の普及と、構想人材の育成 | トップ | 乙巳年の事件。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

先祖供養」カテゴリの最新記事