福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

月も月 花もむかしの花ながら

2020-06-17 | 法話
初夏になりました。「あをくさの みわたすかぎり しげりゐて のつ゛らをふける かぜのすずしき」(松坂歸庵)



青々とした草木の上を吹きわたってくる風の匂いや、シジュウカラやときには遅れた鶯の声を聞くと
徒然草の一節「もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌え出づるころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
 灌仏の比、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲ふく比、早苗とる比、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり。六月祓、またをかし。」
を思いだします。

しかし当方のような古希を過ぎたものは杜甫の「絶句漫興」の詩
「舍西の 桑葉拈る可し,江畔の細麥復た纖纖。
人生 幾何か 春已に夏なり,放たず春醪、 蜜の如く甜きを。」
北鄰の官舎から我家の西の方にかけて植えている桑畑の桑の葉の新芽のやわらかい葉を摘みとる。濯錦江の河畔には越冬して育ってきた麦が細く長く伸びてきている。
これからの人生で、このように甘い春から夏になる季節を何度味わえるであろうか。作っているお酒の醪の香醇な香りももう放たれなくなってきている
。)に同感です。

コロナ後の世界がどうなるか?孫や下校途中の小学生たちを見る都度何とかしてこの子達に為になる(精神的)遺産(できれば隠徳)を残していかなくてはと愚考する日々です。
「くさもえぬ やなぎめぐみぬ 人のよは つねのすがたにあらぬ此の頃」松坂歸庵
「月も月 花もむかしの花ながら みるもののものになりにけるかな」至道無難
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