1,今朝久しぶりに道路掃除に出かけました。朝4時過ぎでしたがもう日の出は遅くなっていてまだ薄暗いままです。あっという間に日は短くなります。最近はボランテアの人も増えていつもきれいになっているのですが、今朝は空き缶やたばこの吸い殻が昔の様に沢山落ちていました。なにより驚いたのがもう落ち葉が道路に積もり始めていることです。季節の移り変わりはあっという間です。
ゴミが多いとなにかホッとしてやりがいを感じます。逆にゴミがないと自分の出番が無くなったようでさみしい気がします。勝手なものです。
2,掃除の功徳について「釈氏要覧」に次のようにありました。
『掃地、仏、逝多林におわすとき地不浄なるを見て衆生を樂福ならしめ勝福田に淨業を植えんと欲して、仏即ち自ら箒をとり掃はんとす。時に大聲聞見て、皆箒をとりて共に掃く。仏曰く、およそ掃くことについていわば、地に五勝利あり。一には自らの心を清淨にす。二には他者の心をして清淨ならしむ。三つには諸天歡喜す。四つには端正業を植える。五には命終して當に天上に生まれる。阿含経にいわく、仏、朱利槃特(しゅりはんとく・・愚かで自分の名前もかけなかった弟子)に「掃箒」の字を誦することを教える。仏いわくこの掃箒また名ずけて除垢となす。槃特是の思惟を作す。垢とは灰土瓦石也。除くとは清淨にすることなり也。佛此の教誨をもって我に思をもって 結縛の垢を除くなり。此の便によって阿羅漢と成る。』
3,このように、いままでは道路掃除をすると心のどこかで神仏に褒められることを期待する気持ちがなかったといえば噓になります。しかしあることから最近は神仏には一切期待しないという堅い気持ちになっています。あえていえば宮本武蔵の「神仏を尊び、神仏に頼らず」という気持ちというのでしょうか。一切御利益功徳を期待しなくてもいろいろな善行は今まで通り自然と出てきます。むしろこういう一切何物も期待しない気持ちのほうがすっきりします。晩年にこういう気持ちになるのは業が深いのでしょうがこればかりは止められません。