福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

童子教(全・解説)

2020-12-29 | 諸経

童子教( 傳五大院安然(平安前期の天台僧)作、「塵添壒嚢鈔」「大蔵経データベース」「童子教故事要覧(加藤咄堂)」「実語教童子教諺解」等により解説)

 

「夫(そ)れ貴人の前に居ては顕露に立つことを得ざれ(父母恩重経に父兄を尊人といふ。主君師匠等をさす。顕露とはあらわなるこころなり。父兄主君師匠の前に居するときはあらわにたちふるふことをせず、ひざまずき礼儀をつつしめ)、道路に遇ふては跪(ひざまづ)いて過ぎよ。召す事有らば敬つて承れ 両手を胸に当てて向へ。慎みて左右を顧みざれ。問はずんば答へず 仰せ有らば謹しんで聞け(礼記・曲礼篇にいう、先生に道に遇はば趨って正立して手を拱き、先生とものいふときはかたふ。いわざるときは則ち趨って退く。註に云う、生生は父兄の称なり、手を拱くとは、手を合わせるなり。また父の執(友人)を見るとき之を進めといわざれば敢えて進まず。問わざれば敢えて答えず、此れ孝の行なり。またいう、先生に待坐するとき、問うときは終わって則ち答える})

三宝には三礼を尽し、 神明には再拝を致せ。 人間には一礼を成せ。(「塵添壒嚢鈔」「仏教博識問答」等によると、佛を三礼するのは、㈠大智度論に「仏法は三礼を礼数となす。」「三毒を滅し、三宝を敬い、三尊を求む」とあり、三礼は身口意による仏への帰敬をあらわす。㈡仏に法身、報身、応身の三徳があるから。神を二礼するのは本地と垂迹の二つの徳があるから。人に一礼するのは現在あるその人の徳を尊ぶという意味)

 

師君には頂戴すべし。 墓を過ぐる時は則ち慎め、 社を過ぐる時は則ち下りよ(礼記の檀弓下篇にいう、子路が曰く、吾之を聞くなり。墓を過ぎるときは則ちつつしみ、社を過ぎるときは則ち下る。陳師道が思亭の記にいわく廟社を見ては則ち敬を思へ。)

 

 

堂塔の前に向かつて不浄を行ふべからず、 聖教の上に向かつて 無礼を致すべからず。(説法明眼論に「不浄説法二五科有リ。

一には有所得ノ心ヲ以テ虚妄ノ言ヲ説テ他ヲシテ信ヲ発テ悪道二堕セ令ルカ故二。

二には仏法ヲ説か不シテ徒二世事ヲ説カ故ニ。

三には酒肉五辛ヲ食シ非嫡正嫡ヲ犯シテ即ち身二法衣ヲ著テ堂に入るに及テ三宝ヲ穢スカ故ニ。

四には他ノ有徳ヲ誹り自ノ無徳ヲ讃ルカ故二。

五には一乗一実ノ法ヲ悟ら不シテ権門有相ノ教二耽著スルカ故に。」とあり。

また優鉢祇王経には、伽藍法界内地大小便を汚せば五百生抜波地獄に堕すとあり。

「聖教」とは釈尊等の教えなり。孔子老子の教えも聖教というてしかるべし。弘決等に儒童菩薩摩訶迦葉なりとみえしがゆえ。)

 

 

人倫礼有れば 朝廷に必ず法在り。人として礼無きは、 衆中又過ち有り。(十七条憲法に「四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。」とあり。)

 

衆に交はりて雑言せざれ、事畢(おは)らば速に避けよ。事に触れて朋に違へず、言語離すことを得ざれ(周礼の疏にいわく、朋はうとうしておほく、友はしたしくして少なし。公羊伝にいわく、門を同じくするを朋といふ、志を同じくするを友といふ。親しくなきを朋といひ、心を一つにして親しむを友といふ。)

 

 

語多き者は品少なし、老いたる狗の友を吠ゆる如し。(家語・顔回篇に孔子ののたまわく「君子は行をもってものいひ、小人は舌をもってものいふ」。無門関に「丁寧は君徳を損ず、無言まことに功あり」と。離騒経に「人は多言を以て善とせず、犬は善く吠ゆるをもって良しとす」)

 

 

 

懈怠の者は食を急ぎ、痩せたること猿の菓(このみ)を貪る如し(菩薩本行経「懈怠は衆行のわずらいなり、在家懈怠なるときは衣食そなわらず、産業あげず、出家懈怠なるときは生死の苦しみを出離することもあたわず」)

 

勇む者は必ず危き有り、 夏の虫の火に入るが如し。鈍き者は又過ち無し、春の鳥の林に遊ぶが如し。(ここの勇者とは血気の勇者を指す。心に仁義なくただ命を軽んじて戦い争う事を好むをいう

 

 

人の耳は壁に付く、 密(かく)して讒言すること勿れ、人の眼は天に懸る、 隠して犯し用ゆること勿れ。(楊震の「四知「」あり。また景行録にも「密室に座することは通衢のごとく、寸心を馭することは六馬のごとくせよ」とあり

 

車は三寸の轄を以て 千里の路を遊行す、人は三寸の舌を以つて五尺の身を破損す。(論語・為政篇に「子し曰いわく、人ひとにして信しん無なくんば、其その可かなるを知しらざるなり。大車たいしゃに輗げい無なく、小車しょうしゃに軏げつ無なくんば、其それ何なにを以もってか之これを行やらんや。汝衍が車の銘に云く、車輪無くば安くんか行かん」羅大経が鶴林玉露に、讒を聞きて詩に云、堂々たる八尺の躯、三寸の舌を聞くこと莫れ、と。史記巻二十五張良が世家に「今、三寸の舌を以て帝者の師となる。」と。索隠に、春秋緯を引きて曰く、「舌は口に在りて長さ三寸、斗玉衡に象る」)

 

口は是れ禍の門、舌は是れ禍の根(『古今事文類集・後集』に「口は是れ禍の門、舌は是れ身を斬るの刀」とあり)。口をして鼻の如くならしめば 身終るまで敢へて事無し。 過言を一たび出だす者は駟追(しつい)の舌を返さざれ(四頭立ての馬車でも追いつかぬ)。 白圭の珠は磨くべし、悪言の玉は磨き難し(『詩経』にあり)。禍福は門無し、 唯(ただ)人の招く所に在り(「春秋左伝」襄公二十三年及び「太上感応篇」にあり)。天の作る災は避くべし、自ら作る災は逃れ難し。 夫れ積善の家には 必ず余慶有り(『易経』坤、文言伝)。 又好悪の処には 必ず余殃有り。人として陰徳有れば 必ず陽報有り(淮南子 人間訓)。 人として陰行有れば 必ず照名有り。信力堅固の門には、災禍の雲起ること無し。 念力強盛の家には福祐の月光を増す。 心の同じからざるは面の如し、 譬へば水の器に随ふが如し。 他人の弓を挽(ひ)かざれ、 他人の馬に騎らざれ。前車の覆るを見ては 後車の誡となす。 前事の忘れざるは後事の師となす。 善立ちて名流れ、 寵極めて禍多し(論語先進に「過猶不及」)。 人は死して名を留め 虎は死して皮を留む(「五代史記」の中の「王彦章画像記」にある。 王彦章が戦いに敗れて敵に捕らえられたとき、誰もが彼の才能を惜しんで降服をすすめた。しかし、彼は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」と言い残して潔く刑死したという。) 国土を治むる賢王は 鰥寡を侮ゆることなし(孝経に「国を治むる者はあえて鰥寡かんかを侮らず。しかるをいわんや士民においてをや」とあり) 、君子の人を誉めざるは 則ち民怨と作ればなり。境に入つては禁を問へ、 国に入つては国を問へ、郷に入つては郷に随ひ、 俗に入つては俗に随へ(南宋の普済「五灯会元」に「且道入郷随俗一句作麼生道。良久曰、西天梵語、此土唐言」とあり)。 門に入つては先づ諱(いみな)を問へ、 主人を敬ふ為なり。 君の所に私の諱無し。 尊号二つ無ければなり。 愚者は遠き慮(おもんぱかり)無し、 必ず近き憂ひ有るべし(「論語」衛霊公にあり)。 管(くだ)を用ひて天を窺ふが如し(『荘子』「秋水」より)。針を用ひて地を指すに似たり(「説苑」弁物)。

 

 

神明は愚人を罰す 殺すにあらず懲らしめんが為なり。 師匠の弟子を打つは 悪むにあらず能からしめん為也。 (論語・憲問篇に、「原壌夷俟」条という名高い一条あり。「原壌、夷して俟つ。子曰く、幼にして孫弟ならず、長じて述ぶる無し。老いて死せず。これ賊と為す、と。杖を以てその脛を叩く」(原壌があぐらをかいて待っていた。(それを見て)孔子は、「こいつは幼いころは目上のひとを敬することなく、大人になってからは立派なことは何一つしなかった。今、老人になっても死のうともしない。こういうのを悪党というのだ」と言い、ついていた杖で原壌のすねを打った)、これも孔子は原壌の道に背くのを折檻したのである。仏も悪しきものをば打擲せよと、涅槃捃拾のみのりに説き賜う。)

 

生れながらにして貴き者無し、習ひ修して智徳とは成る。(礼記郊特牲篇「天子の元子(皇太子)も士なり、天下に生まれながらにして貴きもの無し。」

貴(たつと)き者は必ずしも冨まず、 冨める者は未だ必ずしも貴からず(白氏文集「高き者は未だ必ずしも賢ならず、下き者は未だ必ずしも愚ならず。」往生要集に「富める者は未だ必ずしも寿ならず、寿なる者は未だ必ずしも富まず」)

冨めりと雖も心に欲多ければ、 是を名づけて貧人とす。 貧なりといえども心に足るを欲せば、 是を名づけて冨人となす(涅槃経に「汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せばまさに知足を観ずべし。・・足るを知らざるものどもは富めりといへども貧し、足るを知るの人は貧しといえども富めり」)

 

師の弟子を訓へざるは、 是を名づけて破戒とす。 師の弟子を呵責するは、 是を名づけて持戒とす。(涅槃経第三の巻に、弟子の破戒を見て呵責せざれば我が弟子にあらずと。菩薩善戒経には、師として弟子を教え怒らざれば仏法を破りて地獄に堕すべし、と。毘奈耶論に、弟子に五事あらばおしいかるべし、一には不信、二には懈怠、三には悪口、四にはこころに恥を知らず、五には悪知識に近ずく、とあり。)

 

 

悪しき弟子を畜へば 師弟地獄に堕ち、 善き弟子を養へば、 師弟仏果に到る。 教へに順はざる弟子は、 早く父母に返すべし。 不和なる者を冤(なだ)めんと擬すれば、 怨敵と成つて害を加ふ。悪人に順ひて避けざれば、緤(つな)げる犬の柱を廻るが如し。善人に馴れて離れざるは 大船の海に浮かべるが如し。(佛本行集経「愚痴の人はその繋縛を被むること、犬の枷に着いて自在を得ざるが如し」)

 

 

善き友に随順すれば 麻の中の蓬の直きが如し。悪しき友に親近すれば、藪の中の荊の曲るが如し。(論語学而「君子、重ざれば則ち威あらず。

学べば則ち固こならず。忠信を主とし、己に如ざる者を友とすること無れ」。荀子・勧学篇「蓬麻中に生ずれば扶めずとも直し」。文選巻二十六潘岳の河陽県の詩に「曲蓬なにをもってか直き、身を託して叢麻に依る(張銑の註に「蓬の性は曲がれり、直くなる所以は叢麻に依る、」李善の註「曾氏曰く、蓬麻中に生ずれば扶めずとも自ら直し」)

 

 

祖に離れ疎師に付く、 戒定恵の業を習ひ、根性は愚鈍と雖も、 好めば自ら覚位に致る。(たとえ根性は愚鈍なりとも戒定慧の業を積めば自ずから悟るなり、須利般特の如し)

一日に一字を学べば、 三百六十字。一字千金に当る、 一点他生を助く(「史記呂不韋伝」に秦の呂不韋(りよふい)がその著「呂氏春秋」を咸陽の都の城門に置いて,書中の一字でも添削できた者には千金を与えようと言ったの故事あり。一点他生とは、文字の点一つをおぼえても来世を助ける、の意味)。

 

一日の師たりとも疎んぜざれ、 况や数年の師をや。師は三世の契り、 祖は一世の眤び、 弟子七尺を去つて、 師の影を踏むべからず。

 

観音は師孝の為に、 宝冠に弥陀を戴き(如意輪瑜伽念誦法に「(如意輪観世音菩薩は)頂髻は宝をもって荘厳し、冠に自在王(阿弥陀)を座せしめ・・」とある。また十一面観音様の頂上一面が佛面で阿弥陀仏となっています。) 勢至は親孝の為に、 頭に父母の骨を戴き、 宝瓶に白骨を納む(秘鈔問答に「木幡口傳云。觀音戴本師。敬師徳義也。勢至戴瓶入父母骨。重親恩故也。孝養父母奉仕師長意也」とあり)。 朝早く起きて手を洗ひ、 意を摂して経巻を誦せよ、 夕には遅く寝て足を洒ひ、 性(せい)を静めて義理を案ぜよ。 習ひ読めども意に入れざるは、 酔ふて寐て閻を語るが如し。 千巻を読めども復さざれば、 財無くして町に臨むが如し(論語に、南容という人、白圭の詩を日に三度復するとあり。また同じく論語・為政第二に「学びて思わざれば則ち罔し」とあり。)

 

薄衣の冬の夜も、 寒を忍んで通夜誦せよ。 食乏しきの夏の日も、 飢を除いて終日習へ。

酒に酔ふて心狂乱す。 食過ぐれば学文に倦む。(論語、梵網経、楞伽経等に飲酒を戒めたまう。慧遠の無量寿経義疏にも「飲酒の人は善行を修せず、家業をこととせず」と。善悪所起経には三十六の飲酒の咎を説けり。資持記には十の過を出し、竜樹の大智度論には三十五の失を説けり。)

 

身温まれば睡眠を増す。 身安ければ懈怠起る(業報差別経には睡眠に十二の過を説き、発覚浄心経には二十種の過患ありと。『論語』公冶長に「宰予(さいよ)昼寝ぬ。子曰く、 「朽木は雕る可からざるなり。糞土の牆は(ぬ)る可からざるなり。予に於いてか何ぞ誅めん」と」。阿那律仮寝す、釈尊蛤のそしりをおこせり。(楞厳経)。菩薩善本経に「懈怠は衆行のわずらい」と。遺教経に「懈怠とは心懶惰のゆえに、睡眠とは心悶重の故に」。景行録に「心ほしいままならざれば、形労せずんばあるべからず」)」

匡衡は夜学の為に、 壁を鑿つて月光を招き(童子教故事要覧(加藤咄堂)「匡衡、字は稚圭。東海承の人、家貧しくして灯なし、壁に穴を穿って隣の灯の光をかりて書を読む。その里に家冨て書物あまたもちたる人あり。匡衡その家に雇われて耕作しけるがかって価を取らざる。故に主人怪しみてその仔細を問ひければ、匡衡が曰はく『願わくば君が書を読まん事我望みたり』と。主人その心を感じ書を貸して価としけれ。後についに世に隠れもなき学者となれり」)、

孫敬は学文の為に、 戸を閉ぢて人を通さず(楚国光賢傳にはく「孫敬,字は文寶、楚郡の人、学問を励みて人来れば妨げになる故に戸を閉じて人の通ひをやめて書を読めり、依って世の人「閉戸先生」と称せり、国君より召されけれども出でて仕えざりけるとなり。」)、

蘇秦は学文の為に、 錐を股に刺して眠らず(史記及び李氏蔵書の六歳臣傳に詳しく載せたり。戦国策には蘇秦は洛陽軒里の人なり。十年学文をつとめて家に帰りけるに兄の妻おきてもてなさず、妻もものいふことなし。蘇秦嘆きて曰く『太夫の位に達せねば妻も嫂も我を軽んじめ侮るとて即ちそこを去りて鬼谷先生を師として学文を励む。書を読むうちに眠り兆せば錐を以て足の股を刺し通せり。一寸の日の陰の去るをも惜しみて励みける程に遂に学文の功積もりて斎王に仕へ承相になれり。かくて蘇秦、六国の諸侯達より印書を授かりこれを佩びて我が家に帰へるに嫂も妻も六十里程迎へに出しかば蘇秦、嫂に向ひ、『その上、我を見て少しももてなすことなかりしが、今迎へに出は何事ぞ』といふに嫂『御身今承相といふ官になり、六国の諸侯の印を佩びて来り、名を天下にあげ、親・おほじまでの外聞をすすがれたれば、迎へにこそ来れ』と答ふ。蘇秦これを聞きて曰く『われかくの如く立身の身となりしは皆嫂のおきざりし手柄也』といへり。)、

俊敬(しゆんけい)は学文の為に、 縄を頸に懸けて眠らず(先の蘇秦の錐股の例とあわせて「懸頭刺股」との諺を生む。三教指帰にも「首を懸け、股を指すの勤」とある。俊敬は孫敬のことか。『蒙求』上、「孫敬閉戸」「孫敬、字は文寳(ブンポウ)、常に戸を閉じて書を読み、睡(スイ)してば則ち縄を以て頸(くび)に繋(か )け、之を梁上(リョウジョウ)に懸く」とあり。)

車胤(しやいん)は夜学を好んで、蛍を聚めて燈とす(晋書に、車胤字は武子、南平の人、常に学文に努めて倦むことなし、家貧しくして油を得ず、夏の夜は薄物の袋の中へ蛍をあまた取りてものの本を照らし、夜に日をつぎて学文しけり、遂に吏部尚書の官になれり。)

宣士(せんし)は夜学を好んで雪を積んで燈とす(文館詞林人伝に「宣士は字を演侍といへり、会稽の人、代々農家を務む。家極めて貧しければ夜学を務めんとすれども油無し。冬より春に至れるまでは雪を集めてその光にて書を読めり。後に侍中の官となれり。」)、

休穆(きうぼく)は文に意を入れて 冠(かんぶり)の落つるを知らず(文士傳にみえたり。休穆字は周和、河陽県の人、幼少時より学文を好み怠ること無し。宣帝に仕へて従事の官となれり路を行く時も書を読みて手を棄てず、ある時路の辺にて風吹きて頭の冠落ちたり。然れどもその冠の落ちたるを知らず、といへり。)、

高鳳(こうほう)は文に意を入れて麦の流るゝを知らず (「高鳳漂麦」の諺があり。「後漢書」(高鳳伝)及び李氏蔵書に見えたり。字を文通、南陽葉の人、後漢の人、高鳳は、読書に夢中になって、庭に干した麦がにわか雨で流されるのに気がつかず。後に名儒の誉れを得たり。)、

劉寔(りゅうしょく)は衣を織り乍ら 口に書を誦して息はず(晋の劉寔は広輿記東昌府の人、人物類にみえたり、字は子真、高唐の人、家貧しくして牛の衣を織りて世を渡れり。博学にして司空の官になれり。『崇譲論』を作りて世の風俗を矯むる。)、

倪寛(げいくはん)は耕作し乍ら 腰に文を帯びて捨てず(漢書列伝、李氏蔵書、循良名臣傳等にのせたり。千乗の人、孔安國につかへて学文をはげむ。常にやとはれて耕作しつつ腰に経を佩びて鉏といへり)

此等の人は皆 昼夜学文を好んで文操国家に満つ。

遂に碩学の位に致る。 縦へ塞を磨き筒を振るとも、口には恒に経論を誦し、又弓を削り矢を矧(は)ぐとも、 腰には常に文書を挿せ。 (例え双六の賽子を磨き筒を振る所作をなすとも口にはつねに経と論を誦し、弓を削り矢を作ることになっても、腰には常に文書を挿しはさみなさい。)

 

張儀は新古を誦して 枯木に菓(このみ)を結ぶ(『史記列伝』の張儀列伝によると張儀は魏の人、鬼谷先生を師とし学術に達す。諸子百家、合従連衡策のうち合従策を説く。諸侯に遊説中、楚でたまたま宰相の璧を失われけるが張儀疑はれて杖にて打たるること数百度、されども盗まぬに極まりて許されしが妻張儀に向かひ「御身書を読みてあらずばなにしに斯の如き恥をかくべき乎」と問ひければ、張儀「我が舌を見よ,ありやなしや」と言ひけり。「新古」の「新」とは三の近き代の書の意味、「古」とは古の書の意味。「枯木に菓を結ぶ」とは張儀がものの本を読めばあまりの弁舌に枯れ木も感応して花咲き菓を結ぶやうに見えしとなり)。

亀耄(きほう)は史記を誦して 古骨に膏(あぶら)を得たり(三教指帰に「亀毛先生といふものあり、天資弁捷にして面容魁悟なり。九経・三史・心蔵に括嚢し、三墳・八策・意府に諳憶せり、三寸わずかに発すれば枯れたる樹栄え華さき、一言わずかに陳ぶれば曝せる骸反って宍つ゛く、蘇秦・妟平もこれに向かえば舌を巻き、張儀・郭象も遥かに瞻て声を飲む。」とあり。亀耄(亀毛)は実在の人物ではなく儒者一般をさす)。

 

伯英(はくえい)は九歳にして初めて 早く博士の位に至る(国朝名世類苑に、「伯英、字は長花、瑯邪の人、五歳にして文詩をよく作れり。七歳にして経史に達せり。九歳の時元帝に仕えて博士となれり」と)。

 

宋吏(さうし)は七十にして初めて 学を好んで師伝に登る(獻徴録に、宋吏は幼少の時より年老いたるまで耕作を営みけり。然るに七十にして始めて陳丘という人に随ひて学問セリ。日に夜をついで学びしに遂に大学の誉れを得て詩史百家の書に通ず。位三公に登れり。三公とは、太師・太傳・太保なり。故に師・傳に登るといへり。)

智者は下劣なりと雖も 高台の閣に登る。 愚者は高位なりと雖も奈利の底に堕つ。(涅槃経に、「戒を保つ人を有智と名ずけ、保たざるを愚痴という」。「高台の閣」とは佛果をいう。

 

 

智者の作る罪は 大いなれども地獄に堕ちず、 愚者の作る罪は 小さけれども必ず地獄に堕つ。(大般涅槃経の大意。衆生に二種あり、有智と愚痴なり。戒定慧を修するを智者といい、戒定慧を修する事のできないものを愚痴という。往生要集(諸経要集)に愚人の如きは悪を作りて後に罪を得ること多いなり。智人は悪を作れども罪を得る事少しなり。たとへば黒鉄を火に焼きて地に置くとき、一人は焼けたることを知り、一人は知らず、知らざる者は手のうちおおいに爛れ、しれるものは破るること少なし。愚者は自ら罪を悔いることなし、かるがゆえに罪を得るなり。智者は悪を作れども自ら悔いることをなす故にその罪少なし。)

 

 

愚者は常には憂を懐く。たとへば獄中の囚の如し。 智者は常に歓楽す、 猶(なを)光音天の如し(正法念誦経に「智者は常に憂いを懐く、而も獄中の人に似たり。愚人は常に歓楽す、猶し光音天の如し」と。光音天とは、三界のうち色界18天の下位から数えて第6 番目の天。色界第二禅の第3番目の天。極光浄天ともいう。 この天は、音声(おんじょう) がなく、何かを語るときには口から浄らかな光を発して言語の作用とするので、光音天と名づく

 

父の恩は山より高し。 須弥山尚(なを)下(ひく)し。 母の徳は海よりも深く滄溟の海還(かへ)つて浅し。 (心地観経「慈父の恩高きこと須弥山王の如し、悲母の恩深き事大海の如し。我若し世に住すこと一劫二劫に於いて説くとも尽くすこと能わず」)

 

白骨は父の淫、 赤肉は母の淫、 赤白の二諦和し五体身分(しんぶん)と成る。(灌頂私見聞に「・・又世間ノ父母ニハ胎赤肉ト云。又ハ金ハ白骨ト云。此時胎赤金白。若爾者相違如何

答。胎ノ白色ハ莊嚴ルカ故ニ。本體赤色也。金ハ白色ハ本體。赤色ハ莊嚴ナルカ。眞實ニハ理智ノ二境智ノ二法也。故ニ胎白金ハ赤ト可得意也」)

 

胎内に処すること十月、 身心恒に苦労す。(阿難聞経・寶積経の意に依るに、母の胎内にて三十八箇の七日を経るなり一七日に一つの風吹きて形を次第に変えて三十八の七日をふれば凡そ二百六十六日なり。人の胎内に宿るは長い短いの不同あり。羅云は六年、脇尊者は六十年、伏羲は十二年、老耼は八十一年、聖徳太子や弘法大師は十二月胎にいます。仏祖統紀により計算するに釈尊も胎にいますこと十二か月なり。)

 

胎外に生れて数年、 父母の養育を蒙る。昼は父の膝に居て、 摩頭を蒙ること多年、 夜は母の懐に臥して、 乳味を費すこと数斛(父母恩重経「母の乳を飲むこと、一百八十斛となす」)、

朝には山野に交はつて 蹄を殺して妻子を養ひ、暮には江海に臨んで 鱗を漁つて身命を資け、 旦暮の命を資からん為に 日夜悪業を造り、 朝夕の味を嗜まん為に、多劫地獄に堕つ。 恩を戴ひて恩を知らざるは、 樹の鳥の枝を枯らすが如し。 徳を蒙つて徳を思はざるは、野の鹿の草を損ずるが如し。 (大智度論にも「恩を知らざる人は畜生よりも甚だし」と。遺教経に「たとえば大樹の衆鳥之を集める時は則ち枯折の患あり」)

 

酉夢(ゆうむ)其の父を打てば 天雷其の身を裂く(岑象求の吉凶影響録にあり。『酉夢は唐の人、ある夜遅く帰宅せしを父が打擲しければ酉夢忽ち杖を以て父の顔を打つ、その時天俄かに掻き曇り地震霹靂して雷その家に落ち酉夢を掴んで空に登る、明日その死骸庭に落つ。背中に銘あり、「酉夢、打父天報裂身」といふ八字あり』)。

班婦其の母を罵れば霊蛇其の命を吸ふ(張師正の括異記に『班婦、字は才幼、鐘山に居す。常に母をそしり,いかれり。或る時鐘山の巴蛇きたりて班婦を喰ふ』と

郭巨(くはくきよ)は母を養はん為に、 穴を掘りて金の釜を得たり。(二十四孝より、「郭巨は河内といふ所の人なり。家貧(まど)しうして母を養へり。妻一(ひとり)の子を生みて三歳になれり。郭巨が老母、彼の孫をいつくしみ、わが食事を分け與へけり。或時、郭巨妻に語る樣は、貧(まど)しければ母の食事さへ心に不足と思ひしに、其内を分けて孫に賜はれば乏しかるべし、是偏に我子の有りし故なり、所詮汝と夫婦たらば子二度(ふたゝび)有るべし、母は二度有るべからず、とかく此子を埋みて母を能く養ひたく思ふなりと夫婦云ひければ、妻もさすがに悲しく思へども、夫の命に違はず、彼の三歳の兒(ちご)を引きつれて、埋みに行き侍る。則ち郭巨涙を押へて、すこし掘りたれば、黄金(わうごん)の釜(かま)を掘り出だせり。其釜に不思議の文字すわれり。其文(そのもん)に曰く、「天孝子郭巨に賜ふ、奪ふことを得ず、民取ることを得ず」と云々。此心は天道より郭巨に給ふ程に、餘人取るべからずとなり。則ち其釜をえて喜び、兒(ちご)をも埋まず、ともに歸り、母にいよいよ孝行をつくせるとなり。」)

姜詩(きやうし)は自婦を去りて、 水を汲めば庭に泉を得たり。(二十四孝より、「姜詩(きやうし)は母に孝行なる人なり。母つねに江の水を飲みたく思ひ、又なまいをの鱠(なます)をほしく思へり。すなはち姜詩妻をして、六七里の道を隔てたる江の水を汲ましめ、又いをの鱠をよくしたゝめて與へ、夫婦共に常によく仕へり。或時姜詩が家の傍に、忽ちに江の如くして水湧きいで、朝ごとに水中に鯉あり、すなはち之をとりて母にあたへ侍り。かやうの不思議(ふしぎ)なる事のありけるは、ひとへに姜詩夫婦の孝行を感じて、天道より與へたまふなるべし。」)

孟宗竹中(ちくちう)に哭すれば、 深雪の中に筍を抜く。(二十四孝より「孟宗はいとけなくして父に後れ、ひとりの母を養へり。母年老いて常に病みいたはり食の味ひもたびごとに變りければ、よしなき物を望めり。冬の事なるに竹子(たけのこ)をほしく思へり。すなはち孟宗竹林(ちくりん)に行き求むれども、雪ふかき折なればなどかたやすく得べき。ひとへに天道の御あはれみを頼み奉るとて、祈をかけて大きに悲み、竹によりそひける所に、俄に大地ひらけて、竹の子あまた生ひ出で侍りける。大に喜び、乃ちとりて歸りあつものにつくり、母に與へ侍りければ、母是を食してそのまゝ病もいえて齡をのべけり。是ひとへに孝行の深き心を感じて、天道より與へ給へり。」)

 

 

王祥歎きて氷を叩けば、 堅凍(けんたう)の上に魚踊る。(二十四孝より「王祥はいとけなくして母を失へり。父また妻をもとむ、其名を朱氏といひ侍り。繼母(けいぼ)の癖(くせ)なれば、父子の中をあしく言ひなして、惡まし侍れども怨とせずして、繼母にもよく孝行をいたしけり。かやうの人なる程に、本の母冬の極めて寒き折ふし、生魚(なまいを)をほしく思ひける故に、肇府(でうふ)といふ所の河へもとめに行き侍り。されども冬の事なれば、氷とぢていを見えず。すなはち衣(ころも)をぬぎて裸(はだか)になり、氷の上にふし、いを無きことを悲み居たれば、かの氷すこしとけて、いを二つをどり出でたり。乃ち取りて歸り、母にあたへ侍り。是ひとへに孝行のゆゑに、その所には毎年人の臥したる形(かたち)、氷のうへにあるとなり。」)

 

 

舜子盲父を養ひて、 涕泣すれば両眼を開く(孟子、離婁(りろう/「孟子」巻第八、離婁章句の図解に舜の父は目はあり、好悪(よしあし)をわかたざるゆへに時の人瞽叟(こそう)と名付くとあり。又小説家には舜の父実に瞽なり。舜これを舐(ねぶり)霍然(カクゼン/意味・いきなり)として開くと、この二説あり。本文にはのちの義をとりてしるせり。孝子伝ならびに史記を按ずるに舜の姓は姚(よう)字をば重華といへり。重華母に別れて父の瞽叟のちの妻を娶り象(しょう)といふ子をまふく。母はかたくなに象おごれり。舜には孝行あれども後の母悪心をもて舜を殺さんと瞽叟に讒言してはかりごとをめくらし舜に倉の屋根を葺かせけり。舜その心をさとりて手にふたつの笠を持ちて倉にのぼる。瞽叟下より火を放って倉を焼く。舜二つの笠を開きて飛び降りけり。瞽叟その死せざるをみてまた舜をして井を掘らしむ。これ舜を埋め殺さんためなり。隣の人その心を知り舜に告げて他国へ逃げよといふに、舜がいはく我ただ父母にしたがふて死して孝をなすべし。走りて(逃げて)不孝をなすべからずといへり。隣の人その心を憐れみて舜に銀銭五百文を与ふ。その明日井を掘るときに舜この銭を掘りあぐる土にまじへて上ぐる。父母大きに喜びて欲心に万事を忘れたり。そのひまに隣の家の井へ逃げ穴を掘りて逃れ出でて歴山の麓に耕してゐたり。歳々に三百石の米を納む。そののち父の瞽叟は盲(めしひ)となり母は聾(耳しひ)、弟は唖(おし)となり貧困にしてまた天火(落雷によっておこる火災)にあふて家を焼く。舜は継母をみるに薪を売りて飢寒なるていなりしかば舜悲しみて食物を与へ薪を買ふに値をましてその米の袋の中へ銭を入れてかへらしむ。かくのごとくすることたびたびなり。瞽叟怪しみてこれもし我が子の舜にあらじやと手を妻にひかれて市に出で、つゐに舜に会ふて名乗りあひ父子相抱き悲哭哀傷(ひこくあいしょう)ちまたにみつ。市の人これを見て悲嘆せずといふことなし。舜手をもって父の目を撫でて天にあふひでかなしむにたちまち両目開け母の耳また音を聴き、弟の唖よくものいふようになれり。この孝順四海に聞こふ。尭帝その聡明を聞きて天子の位を譲りたまへり。舜その位にあること八十二載也。)

 

 

刑渠(けいこ)老母を養ひて食を噛めば齢(よはひ)若く成る(楽史の孝悌録に刑渠は会稽の人なり。幼少にして父を失い母を養い至って孝行也。母若し病あれば夜を寝ずして看病セリ。冬は床を温め夏は床を扇ぐ。朝夕母に仕えて味を調え好き好まれし食物を供えたる故に年七十ばかりなるに常に三十ばかりに見えしとなり。

 

董永(とうゑい)一身を売りて、 孝養の御器(ぎよき)に備ふ。(二十四孝によると「董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。」)

 

 

 

楊威は独りの母を念つて、虎の前に啼きしかば害を免る。(二十四孝では少し変わってこうなっています「楊香(やうきやう)はひとりの父をもてり。ある時父と共に山中へ行きしに、忽ちあらき虎にあへり。楊香、父の命を失はんことを恐れて、虎を追ひ去らしめんとし侍りけれども叶はざる程に、天の御あはれみを頼み、こひねがはくは我命を虎にあたへ、父を助けて給へと、心ざし深くして祈りければ、さすがに天も哀とおもひ給ひけるにや、今まで猛(たけ)きかたちにて執りくらはんとせしに、虎俄に尾をすべて逃げ退きければ、父子ともに虎口の難をまぬがれ、つゝがなく家に歸り侍るとなり。これひとへに孝行の心ざし深きゆゑに、かやうの奇特をあらはせるなるべし。」)

 

 

顔烏(がんう)墓に土を負へば、 烏鳥(うちやう)来つて運び埋む。(広與記十金花府の人物類にあり。また 今昔物語集 巻9第10話 「震旦顔烏自築墓語 第十」に「今昔、震旦の東陽と云ふ所に、顔烏と云ふ人有けり。幼稚の時より孝養の心深し、 而る間、其の父死せり。顔烏、此れを葬(はふり)して、墓を築(つか)むと為るに、自ら一人して、土を負ひ運て、更に他の人の力を加えしめず。然れば、其の事成り難し。 而る間、天地、此の事を助けて、忽に、千万の烏、其の所に集り来て、各塊(つちくれ)を含て、顔烏が墓を築く所に置く。此れに依て、墓、心の如くに疾く成ぬ。 即ち、顔烏、其の烏を見るに、烏毎に、口より血出たり。然ば、含める所の塊に、皆血付たり。見聞く人、此れを、「奇異也」と思て、孝養の心の深き事を貴びけり。 此れに依て、其の県を名付て、「烏傷県」と云ふ。其の後、王莽の時に改めて、烏孝県と云ふ。孝行の深きを烏の示したれば、烏孝県とは云ふ也となむ、語り伝へたるとや。」とあり。)

 

許孜自ら墓を作れば、 松柏植へて墓と作る(氏族排韻に晋の許孜、字は季義といへり。東陽の人、二親死して後に身をやつれ骨をも断ちて憂い嘆きて土を負うて墳を作るに鹿ありてその植えたる松柏を損ず。許孜嘆き悲しみければ明日その鹿たけき獣に食われて死にけりと広與記にあり。その孝行を感じてその里を「孝順里」というなり。松柏とは「まつがえの木」をいうなり。盂蘭盆経の新記には松柏すなわち墳に植ゆるところの樹なりといえり)

 

 

此等の人は皆、 父母に孝養を致し、 仏神憐愍を垂れ、所望悉く成就す。 生死の命は無常なり、早く涅槃を欣ふべし、煩悩の身は不浄なり、速に菩提を求むべし。

 

厭ひても厭ふべきは娑婆なり。 会者定離の苦しみ、 恐れても恐るべきは六道。生者必滅の悲しみあり、(慧林の大般涅槃経寿命品音羲に聖者たるひとこの中に於いて堪えていたわり苦しみて修行して衆生を救うが故に堪忍土という、とあり。祖庭事苑には苦忍ともいう。涅槃経に「盛んなるものは必ず衰えることあり、会うものは別離有り。」)

 

寿命は蜉蝣(ふゆう)の如し。 朝に生れて夕に死す。(毘曇論に「寿きわめて長きものも一劫に過ぎず、極めて短き者は朝に生まれて夕べに死す」

 

身体は芭蕉の如し、 風に随つて壊れ易し。(維摩経「是身は芭蕉の如く中には堅あることなし」。随願往生経「四大仮に合して形芭蕉の如し、中に実あることなし、又電光の如く久しく停まることを得ず」)

 

綾羅錦繍は 全く冥途の貯えに非ず。 黄金珠玉は、只一世の財宝。 (震丹の維摩といわれた 龐居士が珍宝を水に沈めた話は有名)

 

栄花栄耀は 更に仏道の資けに非ず。官位寵職は、唯現世の名聞、 亀鶴の契りを致すも、 露命の消えざるが程なり、(漢書蘓武伝に「人生は朝露の如し」卓氏藻林巻三「朝露は人の久しく存えざるを喩うなり」

 

鴛鴦(ゑんわう)の衾(ふすま)を重ぬるも、 身体の壊(やぶ)れざる間なり。(西京雑記巻一に、趙飛燕という人皇后となれり、その女弟照陽殿にありて飛燕に送る書に、鴛鴦の襦・鴛鴦の被・鴛鴦の褥などを送ることあり、皆絵にかきたることなり。また天宝遺事に、玄宗楊貴妃の契りを称して「被底鴛鴦」といふなり。本草綱目に「鴛鴦雌雄離れず、人其の一を獲れば則ち一は相思いて死す、之を匹鳥という」。老杜が詩に「合歓尚時有り、鴛鴦独り宿せず」

 

刀利摩尼殿(とうりまにでん)も 遷化(せんげ)無常を歎く。( 忉利天の第十三に摩尼殿あり。雑宝蔵経巻四「命終わりて三十三天の摩尼炎宮殿の中に生ずることを得、この宮殿に乗じて善法堂に至る」。往生要集「忉利天のごときは快楽極まりなしと雖も臨命終の時五衰あい現ず・・」菩薩本生鬘論に「是時三十三天帝釋天主五衰」)

 

大梵高台の閣も、 火血刀の苦しみを悲しむ。(大梵とは初禅の梵天、俱舎の疏にいわく「梵輔天の中に高楼閣あり、大梵天と名く、一主のいるところにしてさらに別地なし」。火血刀とは三途のこと。竜樹の勧発禅陀王経偈に「梵天離欲の娯を受けると雖も還って無間熾燃の苦に堕し、天宮に居して光明を具すると雖も遂に地獄黒闇に中に入る」)

 

須達(しゆだつ)の十徳も、 無常を留むること無し。(須達は舎衛城の富豪、祇園精舎を寄進、給孤独長者。十徳とは天台大師文句に「姓貴・高位・大富・威猛・智染・年耆・行浄・礼備・上歎・下帰」須達の如く十徳を備えた長者もついに給孤独にて死す。別訳雑阿含経に「(須達長者は体の苦悩に悩まされたとき、仏の説法を聞き)於佛去後。尋於其夜。身壞命終。得生天上。」とあり。三教指帰にも「勢いを以て留めることを得ず」とあり。)

 

阿育(あしゅく)の七宝も 寿命を買ふこと無し。(阿育王は金銀財宝を多く蓄え、南閻浮提に八万四千の塔を建てられたること釈迦譜巻五、阿育王造八万四千塔記にあり。しかれども宝をもちて寿命を買うことはならぬ、となり。蔡伯嗜が陳仲碑にいわく「命は贖うべからず。」註に翰がいわく「人の命は分あり。一たび死して重き財宝を以て贖って生を取るべからず」)

 

 

月支の月を還せし威も炎王の使ひに縛せらる(法句経譬喩経に、梵士あり、兄弟四人あり、各五通を得たり、後七日過ぎて四人ながら一度に命終わらんことを知りて、共に評議して曰く、我ら五通の力、天地を反復し手に日月を取り山を移し流れを留む、いかでか死を免れざらんや、と。・・・仏柘植たまわく、人に四つの事あり、一には中陰の中にありて生を受けざるを得ず、二にはすでに生じて老を受けざるを得ず、三にはすでに老いて病を受けざるを得ず、四にはすでに病して死を受けざるを得ず、と。「炎王の使ひ」とは十王経にいう奪魂鬼・奪精鬼・縛魄鬼なり。ここの大意は月氏国の日月を自由に還しめぐらしたる梵士も炎王の使三人に縛りからめとられて命終われりとなり。)

 

龍帝の龍を投げし力も、獄卒の杖に打たる。

 

人尤(もつと)も施しを行ふべし。 布施は菩提の粮なり。 人最(もつと)も財を惜しまざれ、 財宝は菩提の障なり。

 

若し人貧窮の身にて布施すべき財無く 他の布施を見る時、 随喜の心を生ずべし。(諸経要集「若し貧窮の人ありて財の布施すべき無くんば、他の施を修するを見て随喜の心を生ぜよ。随喜の福報と施と等しくして異なる事無し」)

 

心に悲しんで一人に施せば、功徳大海の如し。 己が為に諸人に施せば 報を得ること芥子の如し。(提婆尊者の丈夫論偈「悲心を以て一人に施せば功徳大なる事、地の如し、己がために一切に施せば報を得る事芥子の如し、一人の厄難の人を救うは余の一切の施に勝る、衆星光有りと雖も一月の明かりには如かざるがごとし」

 

砂(いさご)を聚めて人塔を為す、 早く黄金の膚(はだへ)を研(みが)く、(仏祖統紀巻九の普明傳をみれば稚き頃より砂を集めて塔を作り蒿を刈て殿とせられたる事あり。法華経方便品に「童子の戯れに砂をあつめて佛塔となす、是のごとき諸人等皆既に仏道を成ぜり」)

 

花を折つて仏に供する輩は、速かに蓮台の政(はなぶさ)を結ぶ。(法華経方便品「若し人、散乱の心にて乃至一華を以て画像の供養せば、漸く無数の仏を見る」科註に賢愚経を引いて「長者あり、一男子を生めり、天より衆花を雨ふらす、前世に草花を以て僧に散ずぜしが故に出家して羅漢果を証す」)

 

一句信受の力も転輪王の位に超(いた)る。 半偈聞法の徳も 三千界の宝にも勝れたり。(華厳経に「若し一句一偈未曾有法を聞くは三千大千世界の中に満てる七宝釈梵転輪王の位を得るに勝たり」秘蔵宝鑰巻中に「満界の財宝は一句の法にしかず、恒沙の身命は四句の偈に比せず」

 

 

上(かみ)は須く仏道を求む、 中は四恩を報ずべし、 下は編(あまねく)六道に及ぶ、 共に仏道成るべし。(広弘明集に「沙門の孝たるや上は諸仏に順い、中は四恩に報じ、下は含識の為にす、三の者遺ずば大孝なり」)

 

幼童を誘引せんが為に 因果の道理を註す。 内典外典より出でたり。 見る者誹謗すること勿れ、 聞く者笑を生ぜざれ。(おわり

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