妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・34
大段第二に偈頌に三つ。初めには雙べて二問を頌ずるに二つ。初めには徳を歎ず。
「爾時無盡意菩薩、以偈問曰、世尊妙相具」
「爾時」の下の十一字(爾時無盡意菩薩、以偈問曰)は經家の叙なり。此の中に、尒時(そのとき)とは長行の二段の問答終る時なり。
「以偈問曰」とは世尊より観世音に至るまでの二十字(世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名爲觀世音)を指す。凡そ此の偈頌は羅什の譯の本にはなかりしを隋の文帝の仁寿元年辛酉の歳(601)に當って北天竺の闍那崛多(じゃなくった・此には志徳と云。北天竺揵陀羅國の丈夫官の刹利種性の人なり。唐僧伝第一に見へたり。)及び南天竺の三蔵、達摩笈多(だらまきった。此は法密と云。又法蔵と云。刹利種姓の人なり。)長安城の大興禅寺にして同じく翻訳して加へたるなり。此の故に天台大師の疏(観音義疏?)には此の偈をば釈せず。此れに由って妙楽の記にも亦釈せず。趙宋の代(10から13世紀)に至って、天竺寺の遵式法師(10世紀。遵式は徳をもって尊ばれた。二六歳のとき、疾病にかかり吐血するも、観音懺法を修した結果快癒したという。この観音懺法とは智顗の『請観世音懺法』のことであり、それ以来遵式は懺法実修に重きを置くようになった。また、遵式の浄土教は、懺法を多く取り入れた形式の実践論を展開する反面、在俗には易行道として口称念仏を勧めた。智顗以来、助道として採用されたに過ぎなかった称名念仏に、往生の正因としての意義を見出したことは、後世に大きな影響を与えることになった。著書に、『往生浄土決疑行願二門』『往生浄土懺願儀』『天竺別集』三巻、『金園集』三巻など)此の重頌を加へて誦じ用ゆ(佛祖統記第十の意)。又科を作りて長行の二段の問答に対するに宛も符契の如し(知禮の記「觀音玄義記」に見へたり)。遵式の同門に四明山の知禮法師と云人、天台の別行の義疏を釈する因みに遵式法師の科を用て此の頌を消釈(矛盾点を解消して理解すること)せり。今は彼の科釈に依りて粗ら文句を解すべし(遵式も知禮も俱に寶雲の義通の資にして天台より第十四世の法孫なり。共に趙栄の初めの人なり。統記の第十四に傳あり)。
「偈」とは具なる梵語には偈他(新には伽陀と云ふ。)此には孤起と云。此は今の頌には合はざる名なり。又梵語には祇夜、此には重頌と云。此は長行にあることを重ねて頌ずるが故に。今の頌は是にあたる。されば慈恩の玄讃には、此れは祇焔の頌なりといへり(妙法蓮華經玄賛卷第二・沙門基撰 「賛曰。梵云伽陀此翻爲頌。頌者美也歌也。頌中文句極美麗故歌頌之故。訛略云偈。此祇焔頌。進詮體義劣於名句。退爲所依不及聲文。」)。又重頌に就いて嘉祥寺の吉蔵法師の法華の義疏に十體五例を立て委曲に分別せり。謂く、十體とは
一には國土に隨ふ。天竺に散華・貫華(経典の中の偈頌を「貫華」というのに対して、「散華」を散文の呼称とする)の説あり。漢土の序と序の後の銘との如し。
二には樂欲に隨ふ。或は散説を好み、或は章句を樂ふ。此の二機に契ふが故に(此の一義は十住婆沙の第一に依るなり)。
三には解を生ずる不同に隨ふ。或は散説に於て解を得、或は章句に於て解を得。
四には利鈍の不同に隨ふ。利根の者は一たび聞て即ち悟り、鈍なる者は再び説きて方に悟る。
五には佛の慇勤に重説し玉ふことを表す。
六には後の人をして經に於いて信を生ぜしむ。
七には言語を易奪して勢を轉じて説法す。たとへば病人を息めんが為に、食味を換るが如し。
八には義の無盡を示す。謂く長行にその一を明かせば偈頌に又其の二を明かす。
九には至人に無方の用いますことを明かす。謂く、巻舒自在にして散束縁に隨ふ。
十には衆の集まる前後に隨ふ(是は涅槃経に由る)。
(法華義疏卷第二胡吉藏撰 序品之二「問何故諸經有長行與偈。答長行與偈略明十體五例。言十體者。龍樹十地毘婆沙云。一者隨國法不同。如震旦有序銘之文天竺有散華貫華之説也。二者好樂爲異。彼論云。或有樂長行。或有樂偈頌。或有樂雜説莊嚴章句者。所好各不同。我隨而不捨。三者取悟非一。或有聞長行不了聞偈便悟。或各聞倶迷。或合聞方解。故雙明之。四者示根有利鈍。利根之人一聞即悟。鈍根不了再説方解。五者欲表諸佛尊重正法。慇懃之至一言之中而覆再説也。六者使後人於經生信。尋長行不解或恐經謬。見後偈同前方知自惑。七者欲易奪言辭轉勢説法。其猶將息病人故迴變食味也。八者示義味無量故。長行已明其一而偈頌復顯其二。九者表至人内有無礙之智外有無方之説故。能卷舒自在散束適縁也。十者明衆集前後故有長行與偈。如涅槃所辨。」)。
五例は繁なれば出さず。
「世尊妙相具」とは、妙相は外に現るる相好なり、相は相貌なるが故なり。是を科に歎徳と云ことは如来の外に微妙の相を具へ玉ふことは内心に万徳を具し玉へるが故なり。淮南子に、山玉を蔵(かく)して草木潤ふ、と云へり(大戴禮記卷七勸学「玉山に在れば而ち木潤ひ、淵珠を生ずれば而ち岸枯れず。」)。玉は温潤の物なるが故に地中に玉あれば艸木潤ふ。非情すら其の内徳を外に顕す。況や有情をや。況や應身の佛は化他の故に外に相を表すは内徳も亦かくの如しと知らしめて仰慕せしめんが為なり。此れを以ての故に妙相を云は則ち内徳を歎ずるなり。是を以て知るべし、我等が悪相をあらはすは、内心に無量の煩悩罪垢ある故なりと。實に慙がましきことなり。
二には雙て問に二つ。初めには上の二問を含む。
「我今重問彼」
「我今」とは、我は無盡意なり。「重」とは長行に問しことを又問ふ。故に重と云なり。
「彼」とは観音を指す。
問、若し彼の字は観音を指すといはば、此れ唯前番に観音の名に就いて問答せしを今重ねて問ふなるべし。何ぞ科に上の二の問を含むと云や。
答、彼の字は観音を指すといへども、観世音は人の體なり。普門は所具所現の法なれば、能具能現の本の人體を挙るに所現の法は自を含む理あるが故に科に二問を含むとはいふなり。
二には別の初の問を頌ず。
「佛子何因縁名為観世音」
「佛子」とは観音を指して云ふなり。佛の跡を紹ぐべき菩薩なるが故に佛子と云ふなり。世間の人の子は父の跡を継ぐべきが如くなるゆえに名るなり。
二には雙べて二の答を頌ずるに二つ。初めには經家の叙。
「具足妙相尊偈答無盡意」
此れは經家の叙なれば強ちに偈頌なるべきにはあらず。然るを今偈とすることは或は結集者便に乗じて頌ず。或は翻訳の三蔵(崛多笈多)偈を以てこれを翻ずるなり。
二には佛の答を頌ずるに二つ。初めには総じて行願を歎ずるを加ふ。
「汝聽觀音行 善應諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清淨願」
「汝聽」とは佛戒めて諦聴せしめ玉ふなり。
「観音行」とは通論せば自利に通ずべし。今は別して化他に約するなり。一心三智(一切智・道種智・一切種智を同時に証得すること)を以て無量の衆生の称名の音を観じて無邊の苦をして一時に解脱せしむ。即是前に既に利他の行を成就せるなり。
「善應」とは真心(理智不二の心)を動ぜずして三土(事浄土・相浄土・真浄土が説かれる。事浄土とは凡夫が有漏の浄業によって受用する土、相浄土とは声聞・縁覚および初地以下の菩薩が無漏を習得して受用する土、真浄土とは初地以上の菩薩および諸仏が実証した善根によって受用する土)に化を播す。是則不動即動、動即不動にして奇妙不可思議なるが故に善應と云。善とは妙の義なり。梵語の「そ」字を妙とも善とも翻ずるが故に。
「諸方所」とは横には十方、竪には三土を云なり。「方」とは四方四維上下。「所」とは彼彼(三土)の處所なり。此れまでの二句(汝聽觀音行 善應諸方所)は総じて剋證するところの真應二身を歎ず。
「弘誓」等の四句(弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清淨願)は総じて能成(真應二身を成ずる行願なり)の行願を云なり。此の中に「弘誓」とは最初発心の時の四弘誓願は、是諸仏菩薩の通願なるが故に、先ず挙ぐるなり。「深如海」とは喩を以て甚深なる
ことを歎ずるなり。
「弘誓」の「弘」は廣き義なれば、今の「深」と合して深廣なり。竪には三世に徹し、横には十方に遍きが故に深廣なるなり。又「誓」とは制要の義なり。我が心を禁制して自他の二利を要契するが故に誓と云なり。
「歴劫不思議」とは、其の行深廣にして邊際なきことを示す。
「思議」とは心に思ひ言に議るなり。
「侍多千億佛」とは誓ひ深きが故に長時に退転せず。時節長きが故に佛に遇ひ奉ること幾千億と云ことを知らず。(凡そ供佛の数を明かすには繪木の形像を供ずるをも其の數を記すといへり。是則ち影像即ち真佛なる道理あればなり。)佛の為(しわざ)の如く自利利他するを以て侍佛とは云なり(一切の法、皆佛法なるを佛の為(しわざ)と云なり。)
「發大清浄願」とは一一の佛の所にして皆發せる願なり。「大清浄」の三字は願を歎ずるなり。此の願は後心の別願なり。若し願行廣大ならずんば、何ぞ能く冥顕の二應を起して無量の機を導くことあらんや。故に爰に先ず願行の無量を挙ることは利益の無邊を説くべき起因なり。源遠ければ流深く、龍大なれば雨多き道理なるが故なり。
二には別して二番の答を頌ずるに二。(二番とは長行の前後両番なり。此の別の字は上の科の総の字に対するなり。)初めには観音の得名を答ふるを頌するに二。初めには総答を頌す。
「我爲汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」
「我爲汝略説」の一句は総じて下の「衆怨悉退散」までに冠しむる句なり。
「我」とは佛。「汝」とは無盡意なり。實には普く現在未来の一切衆生の為にし玉へども、對告衆なれば先ず「汝」と指玉ふなり。
「略説」とは今の頌文は皆要を挙げて略摂し玉ふとなり。通じては下の諸句に繋る。別しては「聞名」等の三句(聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦)を指す。是則ち若し廣説せば百千万劫にも窮盡すべからざればなり。「聞名」等の二句(聞名及見身 心念不空過)は三業の機を挙ぐ。此の中に初めに「聞名」とは二義あり。初めに利根の人は観世音の名字を聞くに、世の称名の音を観ずる義あるが故に其の利益深からんと知りて称名す。次に鈍根の機は観音の御名をば南無観世音菩薩と唱ふるものぞと知りて称名す。故に此の二字は口業の機を説けり。
「及見身」とは観音の身を見奉るが故に禮拝し供養す(是亦繪像木像にも通ず)。
「及」とは合集と相違との二義あり。若し口業と身業とを分かたんが為に此の字を安んずと見ば是相違の義なり。若し観音に帰依する一類を集むと見ば是合集の義なり。但し今は頌文の字数を足んが為に安(つけ)るなり。
「心念」とは心に常念恭敬す。是意業の機なり。復次に
「聞名」などの二句(聞名及見身)を通釈せば、「聞名」は是冥應(身相をみることなきが故に)、「見身」は是顕應なり(まのあたり見るが故に)。二應具足せり。亦可(いふべし)一心三観の縁修の功積んで一心三智、圓に現ずるは是則ち妙智の身を見るなり。但し是は内心に自知自證するが故に冥應なり。
「不空過」の三字は三業に貫通す。謂く、名を聞ては称名して空しく過さず。色身を見ては禮敬供養して空しく過さず。心に念じては二六時中空しく過ず。かくの如く三業の修行間断なき時は不思議の應験あるものなり。世人は戯論の談話に日を暮らし、酒宴音楽歌舞娼妓に夜を曙し、或は囲碁蹴鞠し、或は連歌俳諧等をして徒に駒隙をば費せども、称名禮佛などの善業を作にすは片時を度(わたる)をも三秋を経が如くに思へり。是皆無始より已来曠劫に薫習せる因縁の故に轉ずること難きが故なり。若し轉ずること難しと云てそのままにせば、多生の悪の上に又悪を重ぬべし。未来も又いよいよ薫習すべし。然らば未来際を盡すまでも出離の期あるべからず。今般偶ま人身を受て幸に佛法に遇ふこと誠に盲亀の浮木の孔に逢ふが如し。何ぞ一たび励まざらん。寶山に入りて手を空くして歸るは我等が身の上にあることなり。深く慙愧して善法を行じ悪業を捨つべきものなり。
「能滅諸有苦」とは三業修行の得益を出す。謂く三業に帰依して常に捨離せざる時は唯現世の七難等の苦を免るるのみに非ず、能く未来の三界二十五有(欲界・・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・弗婆提・瞿陀尼・鬱単越・閻浮提・四天王・忉利天・閻魔天・兜率天・化楽天・他家自在天。色界・・初禅天・大梵天・二禅天・三禅天・四禅天・無想天・五浄居天。無色界・・四空処天)の苦果を滅して畢竟安楽の大涅槃に至ると云意なり。是則ち三業の懇誠を盡すを以て無始の業煩悩を消滅するが故に、源涸れぬれば流れ竭き、根を斫る時は
枝葉も枯れるが如くにして能く一切の苦を滅するなり。此の中に煩悩を滅することは一心法界の心念に由るべし。此の心念の功を積む時は變易(菩薩や阿羅漢などが、三界の輪廻を超えた身をもって、その願力によって肉体や寿命を自由に変え、この輪廻の世界に現われて受ける生死のこと。)の細苦すら猶滅し難からず。況や二十五有の分段の麁苦をや。されども今は且く界内の苦果に約して「諸有苦」とは云なり。「諸」とは二十五なり。「有」とは二十五處皆因果歴然として亡ぜず。此の故に「有」と名く。二十五有とは略摂の頌に曰く、四洲・四悪趣(四洲は東弗婆提洲、南閻浮提洲、西瞿陀尼洲、北俱盧洲。右の四は人界なり。)六欲幷梵天(六欲天とは、四天王・忉利天・夜摩天・都率天・化樂天・他化自在天。この六つは欲界の天なり。梵天とは色界初禪の王なり。)四禅・四空處(四禅とは初禪に三天、梵衆天・梵輔天・大梵天なり。但し大梵をば除く。二禪に三天、少光天・無量光天・光音天なり。三禪に三天、少浄天・無量浄天・遍浄天。四禪に三天、無雲天・福生天・廣果天なり。是皆欲界の天なり。四種の空定を因として生ずるが故に四禪と名く。四空處とは空無邊處天・識無邊處天・無所有處天・非想非非想處天。此の四は無色界の天なり。四種の空定を因として生ずるが故に四空處と名るなり。)無想及び那含(無想天とは無心定を修せる外道の當来の生處なり。廣果天の中に摂在せり。那含とは聲聞の阿那含果の人の住處なり。是に五の天あり。一には無煩天・二には無熱天・三には善見天・四には善現天・五には色究竟天なり。此れ又色界の中に摂せり。又五浄居とも云ふ。清浄の人の所居なるが故なり。)
妙法蓮華経秘略要妙巻之九終。