一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

村上春樹『アンダーグラウンド』

2007-03-13 | 乱読日記

最近、ちょっと昔の本を読むことが多くなりました。

これは村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューによるノンフィクションです。


地下鉄サリン事件は1995年3月20日に起きました。

当時職場は虎ノ門にあり、被害のあった霞ヶ関駅に近かったため、朝からヘリコプターがいっぱい飛んでいてるな、と空を見上げると、とてもきれいな青空だったという記憶があります。


この本をノンフィクションとして読むと、日常生活の中に予想もしない危険が現前したときに人々はどう考え、どう行動したのか、そして自分だったらどうしたのか(そこに居合わせた被害者であったら、または被害者を助ける立場、危機管理をする側であったら)を考えさせられます。
そして、具体的な言葉で語られる後遺症と(今では一般化しましたが)PTSDについても深く印象に残ります。


もうひとつは「村上春樹の書いたノンフィクション」としての読み方です。最後に村上氏自身がなぜ本書を書くに至ったかについての40ページほどの文章があります。

オウム真理教のもつ「居心地の悪さ、後味の悪さ」は私たち自身が持っている「物語」への依存の仕方を非常に醜い形で提示されたことに起因しているのではないか。
そして、われわれもそれを無意識のうちに認識しているために、あえて事件そのものの意味を掘り起こさずに「異常な集団の反社会的行動」として裁判という制度の中に封印してしまおうとしている(=「とっとと死刑にしてしまえ」)のではないか。
そしてその疑問は麻原彰晃の作った「物語」の結果としての惨劇を「あちら側」の荒唐無稽なものとして処理してしまうこと、は逆に「こちら側」が有効な「物語」を持ちえていないことへの問題意識につながります。

あなたは誰か(何か)に対して自我の一定部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?(中略)あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたが見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?

こういう性格自体が物語の本来持つ機能でもあるわけです。
これがゆがんだ形で出ると企業戦士(死語w)とか自分探しとかになっちゃうわけですが・・・

小説家である村上春樹としてはそこを強く意識したのだと思います。


ところで僕は昔は村上春樹の小説が好きで、新刊が出るとすぐに買って読んでいたのですが、書棚を調べると『国境の南・太陽の西』(1992年刊)までが単行本で買っていて、『ねじまき鳥クロニクル』からは文庫(1997年刊)になってます。『海辺のカフカ』以降は読んでません。


その間、何を「自分の物語」にしていたんでしょうかね、あたしゃ(^^;

 






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