芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

ヨット

2006年02月28日 | Weblog
一昨日、昨日の二日間かけて、ヨットを廃船にした。平成元年オーストラリアに行って買い求め、コンテナ船で運び、横浜に繋留してこの18年近く東京湾と外洋を乗り回した。冬はスキー、夏はヨットであったが、一昨年のスキーでの左足首骨折で、ヨットに乗るのも大変で、この2年間はほとんど船出できなかった。本を編集する仕事を、続けていたときは、遊びもかなりできたのに、退職して、それまで年に2~3回しか行かなかったインドにほとんど毎月行き出して疲れが溜まっていたところに、学生時代に漕いでいたボートにも誘われて、いきなり宮が瀬湖紅葉レガッタで大学OBレースに出場して優勝するまで頑張って、一気に過労に陥ってしまい、その後インドから帰ってきて、急性肝炎になってしまった。インド帰りだから、いろいろな肝炎を疑われて検査をしたがどの肝炎もあてはまらなかったことから、ただただ休息して直りかけたとき、誘われたスキーで運動不足を解消しようと思ったが、山スキーの靴で滑っていたので、足首を後ろ向きに回転させて折ってしまった。乗らないヨットの係留料を払ってもしょうがないので、貰い手やシェアする人を年度末繋留更新ぎりぎりまで探したが、駄目だったので、あきらめて廃船にした。長いこと乗せてもらった文字どおり愛艇の「ラクシミー号」だった。廃船にしないためこの2年間ヨットを誰かに乗ってもらおうと努力したのは、ラクシミーに相当愛着があったからだということが、船底の貝を取り除き、船をきれいにしてから別れる時に良く分かった。本当に楽しませてもらったのだ。
最初は、何も知らないから、ヨットを東京湾の海岸のマンション脇に繋留しようと思っていたが、日本の海岸はオーストラリアと違って、ほとんど国家、県、市が管理していて、コンクリート壁を造り、波で痛む度に補修する格好の公共事業用地であることを初めて知った次第である。航路など、海に対する国家の利権も大きいことが分かった。しかし、それとて、横須賀港付近の航路に対する権限は、米軍がしっかり握っている。「いざ鎌倉」という時には、民間の船は規制を受ける。海上自衛隊の潜水艦が釣り船を跳ね上げたことで、その辺が危険だということが分かったが、黒色の潜水艦が浮き上がってきたり沈んだりするのはよく見かけた。日本の周りの海は潜水艦だらけなのかもしれない。

電車の遅れ

2006年02月24日 | Weblog
「栃東」では、鯛の活け造りなどに続いて出た、ちゃんこ鍋を食べたあと、残った汁でラーメンが作られた。汁にこくがあるので、おばさんたちが、「この汁はどうやって作っているの?」など質問していたが、「部屋の伝統的な作り方で」とか言って、教えてはくれなかった。「これでラーメン屋もすると良い」などと言っているおやじもいた。鶏ガラで出している汁のような味だ。田舎の同級生が届けてくれたというドブロクまで飲んですっかり満足して帰る途中、代々木上原で急行に乗ろうとしたら、開いたドアの中に人が倒れている。直ぐに駆け付けた駅員が、「担架、担架」と懐抱している乗り合わせの客に言われて、駅員数名で担架を運んできて、それにのせて電車から降ろしたのを見たら、倒れた時ぶつけでもしたのか、ジーンズ姿の若い女性で額から血を流している。その急病人の連れや、荷物も探していたから相当時間がかかったように思えたが、走り出してからの社内放送で「ご気分をを悪くされたお客様を救助したため、2分遅れました、お急ぎの所まことに申し訳ありません」という。たったの2分かとその手際の良さに感心した。携帯電話ででも連絡したから駅員が直ぐ来たのだろうか。私は持たないことにしているが、こういう時は重宝だ。成城学園駅で、その清掃とおろし忘れた荷物を探したにもかかわらず、新百合丘駅に到着する時には遅れを取り戻していた。清掃したというところを見たが、まだ相当血が残っていたから、かなり出血したものと思われた。
その数日前、電車で帰ろうと思って駅のホームに上がると、電車が大幅に遅れているという表示が出ていた。電車がきて乗ったが、ノロノロ運転である。社内放送で、夕方起きた人身事故で遅れているという。
案の定、翌日の朝刊に飛び込み自殺の記事があった。しかもロマンスカーの最前部のガラスが割れて数名の乗客が怪我をしたという。
現政権の市場原理・改革至上主義が始まった3年前頃から、自殺が増え、交通事故を上まわる年間3万人以上の死因になった。
数年前から、車内放送では人身事故という飛び込み自殺で、満員電車が動かなくなるたびに、スキーで骨折した足で立っている苦痛から、飛び込んだ者を恨みたくなるが、自殺者の増えている最大の原因が、リストラなどによる経済的不安からきていることを考えると、批難すべきは、こんな世の中にした政権者を攻めるべきだと思い直す。
飛び込み自殺による電車の遅れなどの損害は、自殺者の家族が払わなければならないと聞いている。当人ばかりか遺族の苦痛はいかばかりか。
「改革のため国民にも痛みを負担してもらう」といって市場原理・改革至上主義を錦の御旗に登場して、最近の選挙でまた圧倒的多数により政権を獲得した政治家も官僚もちっとも改革による痛みを負担しているようには見えない。民営化と責任回避でかえって、焼けぶとっているように見える。
国民の多くは、政権が威勢のいい言葉で操作するマスコミ報道に踊らされやすいものなのだ。
戦中、南京陥落などの威勢のいい記事に煽られた国民は提灯行列でそれを祝った。その影では、南京虐殺が行われていたという。今それが問題にされても、そんなことはなかったと頬かむりだ。
しかし、アウシュビッツのユダヤ人虐殺はなかったのではないかといったら、たちまちユダヤ人協会から脅しが来て、それを記事にした編集長は首にされ雑誌「マルコポーロ」も廃刊になった。そのうち南京虐殺に触れるだけでも脅かされ、罰せられるようになるのであろう。
ブッシュ政権とその閣僚たちが、予知できていたニューヨークの自爆テロを放置して、それを理由にアフガーニスターン、イラークと私欲を満たすために軍事制圧している。それを批判する国民は「テロの仲間として」そのうち、日本でも罰せられるであろう。現代は「強いものは何をしてもいい」戦国時代になってしまっているのだ。強大な権力者には国民は迎合するしかなくなっているし、進んで、協力せざるを得なくなっている。テロと名指しされているイスラーム圏の人々からすれば、アメリカの暴力にはほとほと困惑しているのに誰もそれをとめられないのだ。アメリカの植民地である日本の政権担当者も自分の地位を上げるにはそれに協力するしかない。日本の社会全体が、自分の地位を上げるためには、上のいうことしか聞かないという風潮に馴れはじめている。しかし、上に上がったものは、後から来る者を引っぱりあげる権限を与えられるから、そのことだけに精力を使い果たす。現政権を批判する評論家は、マスコミでは直ぐに政権にすり寄っている経営者から退場させられてしまう。政治の世界だけでなく企業でもそうなってしまっている。そういう者だけの構成する組織はいずれ滅ぶ。天皇とその茶坊主で構成した明治憲法下の大日本帝国は、朝鮮、満州、台湾を植民地にした後、そこに移民した大日本帝国国民の大半を守ることなく、敗戦の情報を握っていた軍隊と一握りの支配層だけが助かって逃げ帰ってきたというのに、その反省を国家から聞いたこともない。明治憲法下の国家が無条件降伏して、解体され、植民地に堕したままなのだから、やむをえないか。

ホームページ閲覧1万打と栃東優勝記念

2006年02月23日 | Weblog
2月22日(水)にホームページの閲覧数が1万打を超えた。2005年3月22日に立ち上げたのだから奇しくも丁度11ヵ月目に当たった。ブログのコメント欄に初めてのコメントを野村伸子さんが書いて下さったのも記念になった。たまたま開いたら10001打目だったそうだ。1万打から次の第1歩をちょうど踏み出して下さったことになる。私は、栃東の先場所の優勝記念祝賀会に急に誘われて行っていたため、1万打に接することはできなかった。大関栃東は、次の大阪場所で13勝以上、準優勝以上であれば、横綱になれると言って、ヨーガにも来ている小中学校の同級生斎藤英武君が誘ってくれたのだ。彼は、一昨年出版した現代日本語・ヒンディー語訳『竹取物語』を50冊も買って売ってくれ、そのお姉さんが大澤和泉さんの絵を出版記念原画展の時に買ってくれたのだ。栃東は祝勝の会合が目白押しで忙しく、都合が付く日がなく急に決まったと、一昨日連絡されたのだが、そんな彼の誘いだから都合を付けて参加した。栃東には横綱になってほしいし、会場は、先代栃東から栃東の谷町をしているやはり、小中学校同級生早川勤助君が経営するちゃんこ料理屋「栃東」で開かれたから、久しぶりで同級生たちにも会えた。亀戸にある「栃東」は流行っているようで、予約で席が埋まっているから、会場を半分に仕切ってぎりぎり40名しか呼べなかったという。18:00からは次の会場に行くというから、17:00から始まった。店に入っていくと、左のカウンターに座っている若い関取に挨拶されたので軽く会釈を返したが、大関栃東その人だと、あとでわかった。関取の好きだというマジシャン、BLACK SHIMADAも呼ばれていて、フラメンコの音楽に合わせて口から次々火のついたタバコやカードを吐き出す芸は面白く、拍手喝采だった。栃東と並んで記念撮影をしたが、私より背が低く、こんな小柄で大男たちを相手に、よく何度も優勝できたとその技と気迫のすごさに驚いた。話をすると温和な好青年であった。積極的に、且つけがをしないようにと声を掛けた。怪我をしなければ、十分優勝できると感じたからだ。

『竹取物語』ウルドゥー語訳と古家改築

2006年02月22日 | Weblog
この頃になって、やっと『竹取物語』のウルドゥー語訳を始めた。文字を全部打ち出して一欄表を作って、それを見ながら文章を打っていくからなかなか進まない。ウィンドウズのパソコンにはヒンディー語もウルドゥー語も文字が入っていないようだ。アップルのMACのパソコンには入っているが、ウルドゥー語はアラビア語の文字を基に出来ているせいか、アラビア語の文字から入って探すことになった。アラビア語やペルシア語よりウルドゥー語の文字数は多い。アラビア語にはバの音はあるが、パの音はない。ペルシア語にはある。ウルドゥー語にはそれに加えて、舌を上に上げて発音するタ、タh、ダ、ダh、などが加わるから、それを探すのに手間どった。タ、タh、ダ、ダhは、もともとサンスクリット系のヒンディー語にある音で、ウルドゥー語にも入っているのだ。『竹取物語』のヒンディー語訳を始めた時には、これらの文字を探すのに苦労して、始めは他の文字で代用した。本の完成後見つかったりしたサンスクリットのリという文字もある。ヒンディー語の文字配列をやっと覚えて、打てるようになったが、今度はウルドゥー語の配列を暗記しなければならないから、しばらくは、文章を打つのに時間がかかりそうだ。英文の文字配列に日本語の平仮名が並記してあるが、最も多く使う、あうえおが、使い勝手の悪い一番上にあり、英文で最も多く使うASDFGHJKL;のところに、ちとしはきくまのりれ、があるのが、なぜなのかわからない。ヒンディー語の文字数も多いが、日本語の文字数はさらに多い。そもそもが、日本語の五十音はサンスクリットの配列をまねてできものだ。インドの文字を研究する悉曇(しったん)という学問もあるくらいだ。ヒンディー語はインドに100回以上も行っているうちになんとなく覚えたものだが、ウルドゥー語は大学と大学院で習った言葉だ。『竹取物語』ヒンディー語訳は文字配列を覚えながらでも2か月程度でできたが、『竹取物語』ウルドゥー語訳はゆっくりと半年くらい時間をかける覚悟だ。
4月末から田舎の家の家財を片付けて、5月の連休明けに土台を上げる工事に入る。すでに、インドに日食を見に行く旅で同行して以来スキーや山に何十回とご一緒している小牧邦男氏が、日立研究所を定年退職して暇だからと、片付けの手伝いをすると名乗りを上げて下さっている。彼と行ったスキーで一昨年折った足がいまだ不調で、重いものを持ち上げられない私としては心強い限りだ。
古家は祖母の話だと、元禄時代の建築と言っていたが、本当かどうかは分からない。祖母が大正時代に茅葺き屋根を天然スレートに葺き替えて洋風建築に改造した家だ。登米産のその天然スレートは東京駅の屋根にも使われているが、東京駅の屋根を葺いた八十代の職人が今一人残っているだけで、その跡を継いでスレート屋根を葺ける職人は町内にはもう一人もいない。家のすぐ前に国の重要文化財に指定されている明治建築の小学校があり、その見学者がたまに私の家も見に入って来たりする。そのために残そうという考えではないが、手を入れれば、まだ数百年は使えるだろうから今のうちに土台を上げて、持ちを良くしようと思うのだ。最近の外材で造ったプレハブやコンクリートの家より、江戸時代以前の家の方が立派に思えるということもある。

ハガエンタープライズ、ホームページ閲覧数1万打

2006年02月21日 | Weblog
昨2005年ハガエンタープライズのホームページを開いてから、1年足らずで、閲覧数が1万打になんなんとしている。おそらく2月21日(火)か22日(水)に達成することでしょう。何度も御覧いただいている方達のおかげであることに、ここで、感謝申し上げます。
一口に1万打といっても、大変な数字で、内容空疎なのにそれほど何度も見ていただいたのかと、驚き且つ、恐縮の態である。これほどの方々に御覧いただいているのであるからには、もうちょっと内容を見るに値するよう充実させなければならないのではと、思うにつけ、ご希望などあれば、できるだけ添うようにしますので、ご意見などお聞かせいただけるとありがたいです。

インド旅行7

2006年02月08日 | Weblog
ジャルガーオンで雇った車の運転手は2人ともまだ若いので、仕事を終えて早く帰りたそうなのが見え見えだったが、まる1日観光する予定だから、彼らの気持ちは無視してまる1日観光することにした。宿でピタルコーラ石窟には虎が出没するから行くなら朝早く行くと良いと言われ、ピタルコーラは取り止め、パンチャッキーとビービー・カ.マカーバラの後にオウランガーバード石窟寺院に行った。ピタルコーラ石窟寺院は前回行った時にはそんなことは知らずに谷間の長い階段を降りて行ったが、幸い虎はいなかった。インドの知らぬが仏とはこのことだったか。ビービー・カ.マカーバラからオウランガーバード石窟寺院は目と鼻の先でどちらからもそれぞれ眺められる近さだから、修学旅行生はビービー・カ.マカーバラからオウランガーバード石窟寺院まで歩いていた。エローラ、アジャンターもそうだが、修学旅行生が以前から多かったから、その団体と重ならないようにしないと、身動きが取れなくなる。雇ったガイドは、イスラーム建築の説明をするから、イスラーム教徒かと思ったら、名前からヒンドゥー教徒と分かった。それなら、仏教寺院の説明もできるだろうと、オウランガーバード石窟寺院に伴った。説明は詳しかったが、見学が終わってから遺跡の切符売りに切符の半券を返すように頼まれた。道理で、私が買わされた入場券は貼り合わせてあった。彼等の間で、その半券を再利用しておそらく入場料を誤魔化して私物化しているのだ。こういうのは以前インドではよくあったが、こんな田舎に来るとまだ横行している。その後、そこからエローラに直行した。一番の見どころのカイラーサナータ神殿を最初に見た。カイラーサ山はシウ゛ァ神のすみかであるから、ヒンドゥー教徒の聖地で、ティベットにある。ネパール経由でも最短3週間を見なければならないから、勤めていた今までは行けなかったがネパールの政情が落ちついたら、これも近いうちにいきたい。インド・ヒマーラヤにあるカイラーサナータ山はチャンバからバルモールに入って徒歩で往復するとデリーから1週間で行けそうだが、バス通りが危険に満ちている。ナータは守護神を意味する。従ってカイラーサナータはシウ゛ァ神のことだ。境内を取り巻くシウ゛ァ神の神話に関する神像群は、見るものを圧倒する。これにたっぷり時間を割いたあと、仏教窟を第一窟から見て、カイラーサナータ神殿を挟んで相当離れているジャイナ教窟院は最後に力車で見て廻った。見学が終わってから近くの食堂で食事をして、オウランガーバード空港に着いた時には暗くなっていた。ムンバイの空港から3台のタクシーに分乗して、タージマハルホテルに着いたが、旧館といっておいたのに、2台のタクシーは新館のほうに止めて乗客を下ろしてしまい、全員が合流するのに手間どった。旧館のほうは相当前から予約しないと満室状態が続いているというから、夜の11時という遅い時間に着いたので、もう部屋はありませんなどといわれるかもしれないと危惧したが、私の部屋だけしばらく待たされて入室できた。どの部屋も改装してあり、立派なのだが、部屋によってはカビ臭いと言われたので、デリーで買っておいた白檀香を渡したら役に立ったようだった。翌7日の朝食は、海の見える2階の食堂でゆったりとした時間を過ごせた。エア・インディアの都合でムンバイからの直行便がなくなり、午後3時という早い国内線でデリーに飛ぶことになったので、インド門のあたりを歩き、空港に行く途中で、チャトラパティ・シウ゛ァジー駅(旧ウ゛ィクトリア・ターミナス)の写真を撮るだけにした。

インド旅行6

2006年02月07日 | Weblog
前の戦争の戦争責任は、東京裁判によって戦勝国に取らされただけで、個別に自決などした者はいても、戦争を遂行した中心人物が、どんな反省をしているのかまるで見えていない。むしろ、占領軍の政策に乗っかってそれを遂行することで、政治の中心に再び戻った者もいるし、民間で大儲けをしていた者も見られた。一般人の感想は戦争中の苦しさから解放されて「負けて良かった」というのが本音であった。私の小学校時代には父を戦死させられて片親の同級生が多かった。わたしの父の弟も戦死している。以前に明治維新は失敗だったと言ったが、明治憲法に裏打ちされた国家の長期戦略というものがあったとすれば、これは見事に失敗したわけだ。戦術的な失敗は各部隊がその責任をとったであろうが、八紘一宇など一見平和愛好的な欺瞞的戦略には、勝っているうちは見えない付け焼き刃の思想が隠されている。どこの国にも勝ち馬に乗って利益を上げようとするものはいるのだから、占領地で歓迎されているように錯覚してしますのもやむを得ないが、負けが込んでくると、途端に便乗組にも見放され、無条件降伏した国は、戦勝国に徹底的に搾取される。それが現在も続いていることを、現政権が明らかにしてくれたことが、現政権の国民に対する最も大きな功績ではなかったか。沖縄ばかりではなく戦時中首都圏攻防の要だった横須賀、厚木、立川はいまだに占領軍の手中にある。バブル経済といわれた時期に、日本は、米国を雇って、日本を守らしてやっているのだという倒錯者の発想をしたものがいた。そのような発想をする者は戦後は終わったと政府が2回ほどいったのにいまだにマヤカサレテいるものだ。西部劇の無頼漢のような犯罪者たちが、収監されるかわりに戦争に送り出されてきて、日本やイラーク、アフガーニスターンの基地で殺戮を働くのは当然の帰結である。どこの国だって平和で豊かな暮らしをしている国からわざわざ戦地に行きたい者など希少なのだ。何らかの方法で兵隊は狩り出さねばならないのが現実だ。現在そのような法律を作ることに為政者は腐心しているということだ。しかし、あからさまに派兵されて喜ぶ人々がいる国があるだろうか。日本の宗主国の政権担当者には喜ばれるのは当然としても、占領されて基地をおかれている国民で喜んでいるのは日本くらいかもしれない。何しろ現政権は圧倒的な多数で選挙されたのだから。国民に強権を発動しなくても国民は協力的に政権を支えているから、これからも国民をマヤカセル法律作りに邁進できるめでたい時代が続きそうだ。かつて、植民地支配におかれてやっと独立したのにまた植民地支配におかれたイラークやアフガーニスターンの国民は、派兵されて基地をおかれることに敏感に反応している。その不満が、ムハンマドの風刺画にも敏感に反応して暴動に発展する。その証拠に暴動が起こっているのは、民主主義と平和というマヤカシを売り物に占領しているかしようとしているイスラーム圏で起こっている。植民地支配のつけが、朝鮮半島の分断を長引かせ、北朝鮮との緊張を未だに解けないままでいるのは、それによって大きい利益を得る政治屋もいるからであろうが、植民地主義による他国支配がどのような結果を招いているかをもう一度いま考えるときでもあろう。どさくさにまぎれて海外派兵などを始めているが、明治維新によって富国強兵策を採用して大失敗に終わったことの反省をまずするのが第一だろう。勝ち組負け組などといった米国流の単純な発想でマスコミを動員して国民を煽動するのもどうかと思う。それに乗ってしまう者が多いのも困ったことではあるが。


インド旅行5

2006年02月06日 | Weblog
アマルピート・ホテルで食べたのは、ターリーだ。南インドでは、よく、バナナの葉っぱに盛られて菜食料理が出てくるが、平たい金だらいのような食器に野菜料理が盛られて出てくる。「あー、ここはもう南インドなんだ」と認識させられる。それなら、南インド・コーヒーもあるかと聞くと、マドラス・コーヒーがあると言うからそれを注文した。最初からミルクが入ったインド風カフェオレだ。ただ、今回の旅行の参加者には酒飲みは少なくコーヒーも紅茶も生で飲むのが良いという人が何人かいて、これは、インド産のカフェオレを経験してもらうためということになった。生の南インド・コーヒーは既にデリーの初日に南インド料理店サーガルで試してもらっている。インドで飲むコーヒーは大体が不味いが、南インドのニルギリで採れるコーヒーは美味い。改良を加えればもっと美味くなるであろう。ニルギリは紅茶の産地でもある。インド紅茶の3大産地のうちダージリンとニルギリは行っているが、アーサームはグワーハティー空港に降りただけで行っていないから、今年あたり行きたいと思っている。インドの東北地方は独立運動などで、旅行が制限されている地域だから、ウ゛ィザのほかに特別許可証が必要で、面倒なので、今まで行かなかった。最近の日本政府のインドに対する態度の変更で、ウ゛ィザなし渡航も可能になりそうだから、制限区域の旅行も比較的楽に行けるようになりそうだ。少なくても、ビルマ戦線で日本軍が大敗北を喫したインパール地方には、今だに供養されていない遺骨が相当量残っているのだから、前の戦争責任を日本政府としてその遺骨を供養することで果たさなければならないので、ナーガランドのインパールなどには日本人が容易に入れるようにインド政府と交渉するのが望ましい。現地の人たちが日本軍の敗残兵や遺骨の面倒を見てくれているのだから、それに対するお礼もしなければいけない。軍隊を派遣することの意味をそういうことを通して国民が理解できるようなる。負け戦の反省が足りないままで戦勝国に対しているのだから、言いなりにならざるを得ない日本、といってもいい。