芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

美しい庭や畑を造るには瓦礫を棄てる場所がいる

2010年05月31日 | Weblog
好天で、日差しが暖かい。しかし、風は冷たい。この後週末にかけて、気温が上がって行くらしい。
生ゴミを棄てて堆肥を作っているところに、今年の初めに腐って棄てたカボチャが芽を出してきている。それを先週軍場山に移植したが、まだ沢山あり、以前、台所だったところに植えた。そこは、瓦礫だらけだから、深く掘れないので、浅く掘って植えた。
工事で出た瓦礫をそこに棄てたのだ。屋敷の表側に敷いてあったコンクリートを砕いて土を掘ってみるとやはり瓦礫が出てくる。
それを裏門の近くに棄てた。綺麗なところを作ろうとすると、そこにある瓦礫を棄てなければならないが、捨て場に困る。
鳩山政権は、行き詰まっている。米国の鼻息をうかがわずに最初に、東アジア構想や、対等な日米同盟を築くなどと言っていたから、結局米国に潰された。中国のようには外交が上手でない日本なのであるから、もっと言動に気をつけないと、逆鱗に触れてしまう。普天間を移設先に決定させられることになった。鳩山政権のあとの政権もそれに縛られる決定をするようだ。これでは、この普天間問題に最初から触れないほうがましだった。米国はインディアンを殆ど全滅にした国である。民主主義を声高に叫んで、他国を攻めているが、それほどに立派な民主主義国ではない。
しかるに、中国は、孫文が革命に身を投じた時に、日本の政府とは関係なく、梅屋庄吉が最後までその経済的支援をしたので、中国の要人はその梅屋庄吉の日本に対して礼儀を忘れていない。歴史の違いか。

老人会の編集会議

2010年05月30日 | Weblog
昨日、仙台一高の柔道部百年史の編集会議に出席したが、ここに来て、その資金について集める自信がなくなったから、その場合は、発行を遅らせようなどと言うことを云い始めた。先週も既に決まったいることを初めから説明しなければならないような場面で、私としては、わざわざトヨマから片道1時間40分、往復2000円掛けて行って、同じ内容の話しをなんどもするようなことになって、嫌になっている。
100万円を200人の柔道部OBから集めて、足らないことになったら、本の作り方を変えて安く上げる方法に切り替えればいいと言うことを今までなんども話しているのだが、まだ、募金を始める前から金を集められないのではないかといった、マイナスの思考に時間を割いているので、集まらなかった時のことを前提にして話しを進めては,事を起こせない。集まらなかった時の対応を既になんども話しているのに,金が集まらなかった時の事に特化した話しばかりになっては,いつまで経っても原稿の依頼ができない。まず、生き証人といわれる高齢者に早く原稿なり,聞き書きなりさせてもらうのが大事だが,話しを進める議長なり編集長なりを決めないと,だらだらと同じところを堂々巡りしているだけだ。最初は少人数で始めたのに,あとから入ってきた人達に前に決まった事を説明しながら、というのは,単なる手伝いと言う立場で入っていると,会議というものの面倒さばかりが気になって,自分が一人で話しを進めるならこんなことにならないのだがと,やめたくなる。最初になんどか編集会議は少人数でいいいと私が言っているのに,ずるずると人を増やして,同じ話しをする人間が増えると,いよいよもう惚け老人会の仲間入りしているような気分である。

談論風発

2010年05月29日 | Weblog
先日、クラレの和久井康明氏と会って、飲みながら、鳩山首相と民主党について、意見を聞かされた。
民主党政権がさっぱり決断できないのは、その大臣などの閣僚たちが、組合出身であり、かつて要求するばかりだったから、逆の要求をされる立場になれない、と言う。急に着いた大臣の地位に安住して、それにしがみついて、何のための大臣かが分かっていない。
これについては、私の意見で、自民党時代も大臣にしてもらうために、実権者の言うことばかりを聞いて、何のための大臣かという視点が欠けていた点は同じであり、単なる大臣のたらい回しをしていたのを国民が見限ったのだと述べた。
一緒に飲んでいた長田章氏は、もと警察庁の幹部で、こちんこちんの自民党支持者であるが、鳩山首相のあまりの駄目さに、鳩山首相以外ならだれでも良く、小沢一郎が首相になったほうが良いと主張していた。
辺野古の問題について、私は、自衛隊が独立国の軍隊の態をなしていないのだから、それをどうするかという方針を作ってそれに基づいて辺野古の問題も解決して行くのが良いのではないかと述べた。長田章氏は反対したが、米軍のコンピュータの仕組みの下に自衛隊が置かれているのだから、先ずそれをなんとかしなくては、というと、再軍備を考えるのかと言うので、そこから国民的議論をしなければならないのではないかというと、彼は黙った。

ボート仲間の葬送

2010年05月28日 | Weblog
外林さんの通夜の日は雨模様だったが、告別式の昨日は、晴れて暑いくらいであった。
覚性院法潤信士という法号の説明が住職からされた。初七日の法要も行われた。登米の初七日の法要は、会衆のほうに向かってお経を上げるというが、葬儀と同じで祭壇に向かって読経した。
親族以外は、ほとんどが艇友だったので、遠漕歌を歌って葬儀を締めくくった。
デルタ造船所の社長のお兄さんである、谷古さんが来ていたので、廃艇をもらって登米に出来るだけ安く運びたいと協力を求め、6月中とかの期間限定でなければ安い運賃が可能であると請け合ってもらった。登米の運送屋の東京からの帰り荷で安くしてもらうことを考えていたが、思っていたようにトレーラーの大きいのは、今、日本でも数台しかなく、普通のトラックでは運べないと言うことだった。そのトレーラーを手配するのが、なかなか難しいようだが、弟さんに話してくれるのであろう。谷古さんは早稲田大学漕艇部の方で、昨年の平泉から石巻までの漕ぎ下りに参加していて、そのとき同じ舟に乗った。非常に気遣いをされる方でお世話になった。
デルタ造船所は今は造船は中国に頼んでいて、谷古杯というレガッタに名前が残っているが、修理等しかしていない。
葬儀のあと,焼き場にバスで行き、1時間ほど掛かる間に精進料理をご馳走になってから、お骨を拾った。外林さんと同期の池田孝至さんと一つのお骨を箸でともに拾った。お骨になってしまったのを見たら、故人への思いが吹っ切れた。

東京に行く

2010年05月27日 | Weblog
東京に着くとすぐ、廃艇を見せてもらいに戸田に行き、ダブルスカルや無しフォアの長さを確認した。この2杯をもらえる可能性が高いようだ。
エイトについては、他の団体も候補に挙がっているようで、競合しているので、もらえるか解らない。そのまま外語大の合宿所に行くと、いつも練習しているOBたちがいた。
外林先輩の大宮の通夜に一緒に行った。
大分早くついたので、死に化粧した外林さんを拝することをなんども出来た。
日蓮宗の僧が来て読経をしていた。
終わって、軽食、飲み物をとりながら、久しぶりで会う艇友達と話し合った。
その中に、早稲田のOBで嶋田さんと畠山さんがいて、嶋田さんは同期だが、畠山さんはずっと先輩であるが、気仙沼出身で、畠山宮城県議会議長のおじさんであることが解った。
今日は、告別式で、そのあと火葬場まで行くことになった。

雨上がる

2010年05月26日 | Weblog
外林潤氏の通夜に行くために、早朝起きた。
仙台までの一番バスで行き、そこでまた高速バスに乗り換えると、14時過ぎに東京に着く。東京に行く時は、最近はもっぱら高速バスにしている。と言っても、滅多に上京することもなくなった。帰りは夜行バスである。
前回、庄野潤三氏の告別式には、丁度間に合うので、往復新幹線にした。
今日は、通夜までの時間があるので、戸田に行って、貰える予定の競技艇を見ようと思う。昨日、何回か電話して、見せてもらうように話したが、肝心の主将がいなくて、ちょっと不安ではある。総監督、監督から紹介されて、主将に会ってその舟を見せてもらうのである。
通夜には、昔の仲間が集まるであろうから、夜遅くまで呑み会であろう。
それにつけても、外林潤氏は、まだ72歳くらいのはずであるが、数年前から大腸がん、胃ガンを切って、回復する度にボートを漕いできて、終に倒れたのだ。私の以前からの考えは、癌は切ってもしょうがないのではないかということだ。痛い思いと余計な金をつぎ込んでも結局はそうは長生きできない。切っても切らなくても余命はあまり変わらないということだ。

不順な天候

2010年05月25日 | Weblog
朝から晴れて暖かいというよりは、暑い日であった。しかし、それも束の間で、午後から小雨がぱらつき、畑仕事もできなかった。一つには、佐藤元大工さんが来て、午前中、政治談義と葬式の東京との違いをしておわってしまった。
東京では通夜、葬式のあとで火葬になるが、この辺では、通夜のあと、火葬にしてから葬儀になるという。その理由はおそらく、葬儀になるまで日にちが経ちすぎる事があると、遺体を保全できにくいといことではないかと、説明してくれた。
昔は、特に夏場に遺体を保全する方法がなかったので、火葬を先にしたのではないかとも思われる。都会では、遺体を冷蔵する方法が早くからあったのかもしれない。
だから、この辺では、死者とのお別れは通夜ではしないで、火葬の直前にするのだそうだ。
なぜそんな話しになったかというと、昨日の朝、艇友の斎藤攻君から立花栄治君を通して、東外大端艇部の敬愛する先輩、外林潤氏が未明に亡くなったと知らされ、その通夜が明日の夜、告別式が明後日の午前中にあることがその後分かったからだ。
東京では、しばしば、亡くなって数日してから告別式になり、そのあとで火葬になるのだ。
外林潤氏には、在学中ばかりでなく、その謦咳に接することが出来たのは、幸運であった。合掌

雨も時には恵みの雨

2010年05月24日 | Weblog
久しぶりでまとまった雨が降っている。気温は、ストーブは焚いているが、それほど寒くない。昨日移植したカボチャの苗には恵みの雨である。前に家の畑から移植したジャガイモもおがるであろう。
ジャガイモもカボチャも昨年植えて食べ残したのを種にして植えている。新たに野菜の種を入手するのは、病気の心配があるかもしれない。昨年流行ったインフルエンザがが異国から来たことは明らかであるが、野菜の種も殆どが外国から輸入しているものだ。今回の宮崎県の畜産業にダメージを与えている口蹄疫も外国から入っている。
異国からの悪疫の渡来には注意しなければならない。食物や病気ばかりではなく、政治、経済も日本に害毒をもたらしている。
基地問題も、本来、基地は治外法権を持って、日本の一部から日本全体に睨みを利かせるものだから、この影響も受けないようにきちは徐々に撤退してもらわなければならないのだが、長期的な視野に立って論じられていない。
食物や病気も輸入しないように長期的に自国でまかなう方法を作り出して行くのでなければならない。インフルエンザに至っては、外国から入ってきたのを外国の薬を買って治療している。何とかならないものであろうか。

今年も軍場山にカボチャを植えてみる

2010年05月23日 | Weblog
軍場山の畑に行ってきた。
先日屋敷の畑の間引きしたジャガイモを移植したのが、このところの暑さで枯れているかと思ったら、殆ど、枯れずに少し伸びていた。去年から今年にかけて堆肥にしようと思って、ゴミとして棄てたカボチャの食い残しや古くなって棄てたカボチャが芽を出してきていたので、その芽を20本ほど持って行って植えた。山の斜面に這わせるため、斜面のしたを掘って植え、さらに去年植えて失敗したところに今年も植えた。去年は、種から植えたが、殆ど育たなかった。
日本は、米国の植民地であることは以前に記したかもしれないが、今回、沖縄基地の普天間飛行場の辺野古移設について、結局は、米国の言いなりになるしかないことからも確認できた。しかも、なぜかこの時期に韓国の哨戒艇が北朝鮮の魚雷に爆破沈没させられたことが、沖縄基地の米国政府の言いなりになるしかない理由にされている。テポドンがなんども日本上空に飛んできているのに、基地を海外に持って行ってもらうなどと言ってきて、テポドンより直接的ではない韓国、北朝鮮境界付近での魚雷による哨戒艇沈没を理由にしているのは、取ってつけているとしか言いようがない。米国政府に対して拒否できない何かがあるのであろう。

小学校の運動会

2010年05月22日 | Weblog
今日は、目の前にある小学校の運動会である。昨日まで、練習を観ていたので、今日は、わざわざ観には行かなかったが、歓声だけは聞こえてきた。
今日も暑い日ではあったが、快晴で絶好の運動会日和であった。観に行かなかったのには、佐藤元大工さんが来て、お茶を飲んだあと、加賀野のコメリに行くというので、一緒に乗せて行ってもらい、私も灯油や肥料を買って来たので、午前中はそれで終わり、午後からは、消石灰を追加で町のコメリに行って買って来た。その途中で、昨日母の俳句を芭蕉祭に応募した時、私も応募するようにいわれていたので提出した。
たけのこ掘りの時のことしか思い出せないので、昨夜、急遽ひねり出した「タケノコよ竹の落ち葉に頭出す」という駄句のほか2句を作ったである。
ところで天皇家では、和歌を作っているが、米国によって廃止された他の宮家は現在、和歌を作っているのであろうか。伝統を守っているのなら作っているのであろうが。
天皇家を一つの宮家に絞って御するようになったのは、米国政府の都合で御しやすかったということだけであろう。