芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

寂聴さんに文化勲章

2006年10月28日 | Weblog
遠藤周作の「没後10年・遠藤周作さんをしのぶ会」に出席したとき、来賓席の瀬戸内寂聴尼が、開会前でごったがえしている会場の人ごみの中にわたしを見つけて、84歳とは思えない勢いでわたしの所に駆け寄って来て、わたしの肩に手をかけて、耳元に「来たのよ来たのよ」と囁くから、
「なにが?」と、訊ねると、
「文化勲章よ。まず、あなたに第一番めに話そうと思っていたから、誰にもまだ話していないの」と言う。
「それは、おめでとうございます」と、寂聴さんの耳元にこたえて、
「あ、ついに来たか」という思いが頭をよぎった。
『源氏物語』の現代語訳をしてもらっていた時、元気づけるため、
「これを完成させれば、文化勲章ものです。ノーベル賞だって、夢じゃありません」と、煽って書いてもらっていたら、文化功労者に選ばれたのだ。
京都の寂庵を訪ねて、そのお祝いの言葉に、「文化勲章を貰う人は、その前に文化功労者に選ばれるから、まもなく、文化勲章が来ますね」と付け加えたのだ。
「これは、『源氏物語』のせいで貰ったのではないのよ。わたしの文学に対してなのよ。あなたは、『源氏物語』のせいだなんて考えないでよ」と、敢えてわたしに向かって言ったのだった。
可愛くないことを云うと思ったが、「はい、はい」と、応えておいた。何しろ、わたしより二十歳も年上だ。
わたしとしては、これで仕事がやりやすくなったから、それで十分だった。
その文化功労者の祝いを何回かして、その後、『源氏物語』も二五〇万部を超える記録を達成して、わたしの手を離れ、退職もしてしばらく経っていたから寂聴さんには逢っていなかった。
「あなたにしかまだ、話していないのよ」というのは、彼女の性格からして、額面通りは受け取れないが、悪い気はしなかった。
なにしろ、よく寂聴さんからは「『源氏物語』では苦楽をともにした」と言われてわたしも、ねぎらわれていたから、「やっと貰えたか」という思いでほっとした気持ちでもあった。
昔懐かしい気分でもあった。
その受章のニュースが27日に仙台から戻ってくる新幹線の車内でと、その日の夕刊に出ていた。
11月3日のちょっと前に発表されるであろうから、それまでは誰にも黙っていようと思っていた。以前に、寂聴さんから、これは、「あなたにだけ話すのよ」と、言われたことを人に話したことが、後で分かり、『おしゃべりなんだから』と言われたことがあったから、今回は黙っていた。これで、このことについては、話せるようになった。

遠藤周作さんをしのぶ会

2006年10月16日 | Weblog
先日、遠藤周作の10回忌の「没後10年・遠藤周作さんをしのぶ会」に出席した。
遠藤周作氏の担当になったのは、「群像」に配属されて間もない、1969年の11月で、小田急線の玉川学園前にあった氏の大きな家に挨拶に行った。
サービス精神が旺盛な方で、お宅から見える丹沢の山々のなかの三角の山をを指して、
「浮世絵に描かれている大山の絵は、ここから見るのとそっくりだから、ここで描いたんだと思うよ」と、日本文学に無知なわたしに別の話題を作ってくれた。
どのくらい、わたしが無知だったかというと、当時、たまたま、氏の『沈黙』を読んではいたが、後に「違いの分かる男・遠藤周作」を千葉周作の名前と混同していて遠藤周作との違いが分からなかったのだ。
瀬戸内寂聴さんもそうだったが、遠藤周作氏もわたしを作品に登場させる時は、インド哲学を専攻しているという設定で書いている。インド文学を専攻していたとは一言も書いていないのは、特に遠藤さんと文学の話しをしても、わたしはかなわないから、インドの宗教について話す機会が多かったからかもしれない。担当になって3年ばかりは、ともかく、その作家の作品を読むだけに時間を割いていたが、1972年末にインドを再訪してから、毎年2、3回インドに行くようになり、帰ると土産話をしていた。インドについて話す時は、どうしてもヒンドゥー教の話しに触れるから、瀬戸内寂聴さんも遠藤さんも、わたしをどちらかというと、宗教哲学に関心を持っているととらえていたのであろう。
宗教についてなら、割合に話しが出来たし、氏の書いた、固くて難しい評論でも、同じ方向を見ていたから、比較的に理解できた。
そんなせいか、遠藤周作氏の担当を離れて大分経ってから、
「インドに行きたいんだけど、一緒に行ってくれないか?」
「いいですよ」
「宗教はやっぱりインドなんやなあ」
ということになって、インドをご案内した。

既得権は誰も手放さない

2006年10月08日 | Weblog
前政権のまやかし政治を引き継いだ現政権は、本来表明しなければならない基本姿勢を述べずに、憲法改正と教育基本法の改定のみを表明している。
前政権でするはずだった政治改革は、わたしが政権樹立当時から予告していたように全て見せかけであった。
なぜかというと、まず、派閥政治を止めて、自民党を潰すと言って出て来た政権の政治母体が、森派に乗っかっているのだから、政権樹立の基盤を潰せるわけがないと云ったのである。
単なる派閥争いの派閥政治に終始しただけなのだ。最大派閥の田中派、竹下派を継いだ橋本派を後退させて、政権を支える森派が、利権を握って最大派閥にのし上がっただけだ。
一般国民に利する政治改革など何もなされていないで、他派閥の利権を奪うだけの政治であった。道路公団、然り、郵政、然りだ。
気がついてみれば、医療費、年金をはじめ国民の負担のみが著しく増大し、嘘つきフーリッシュ・ブッシュの金儲けの戦争に加担して、値上がりした石油、ガソリンである。良かったのは、デフレを解決できないまま長期政権についていたため物価が上がらないから、当面生活が維持できた国民が居る一方で、生活保護世帯は、100万単位という記録的数字を塗り替えて、確実に増えている。このような政治なら、現政権が、基本政治姿勢を明らかにしないまま、『美しい日本』などという曖昧な言葉で国民をけむに巻く「曖昧ぼんやり政治」で、まやかす、煽動政治だから、素人でも出来る政治だ。煽動省という煽動係だけが頑張れば良いのだ。マスコミに政治を肯定させるよう記者発表し、それに批判的な記者はマスコミの上層部を通じて左遷させるという今の手法は、批判しない子弟を生み出す今の教育と相まって実にうまく機能している。マスコミで批判されないだけでは足りなくて、ゲリラ的に郵便受けに批判的文章を入れるのも逮捕させるということまでしたから、長期拘留されて首にされたゲリラは、テロとひとからげにされて、反社会的という立派なブランドを貰ってしまった。銀座、青山にこの数年で増えたユダヤ人経営のブランドショップで売ってもらうと、宣伝上手なユダヤ人のこと、面白いくらい、ゲリラブランドが売れるかも。
政権批判をした『噂の真相』を潰すため、まず、右翼暴力団に岡安編集長を半殺しにさせておき、次いで、『個人情報保護法』を作って『噂の真相』を完全に廃刊させた。行き着いた先は、「いま治安維持法」である共謀罪の国会上程である。継続審議だから、国民を目くらましで、心地よい状態にしておけば、現政権で成立だ。わたしなどは、もう徴兵されないが、間もなく、米国から指示されれば、イラーク派兵と同じように得意の煽動政治の手法を使い、嘘で国民を言いくるめて、男の兵士だけ徴兵したのでは足りない場合は、女も志願させる法律を作るであろう。これからまずは、生活保護世帯の子弟などは、生活のため、兵役につかざるをえない、米国方式が定着させられるであろう。

元気な老人の美しい国

2006年10月01日 | Weblog
しり抜け次いでにもう一つ言うと、10月1日をもって公共料金が軒並み値上げされた。長い不況で物価が上がらないデフレに陥っていたから、一部の政治家とそれを選挙した一部国民に取ってはデフレから脱却して値上げできると喜ばしい限りであろう。
しかし、値上げになるのは、航空運賃や紙代など、フーリッシュブッシュとその取り巻き家臣が引き起こした石油ガス産出国での戦争によって異常に値上がりした石油を大量に使用する分野だ。
徳川時代の幕藩体制で言えば、米国は、江戸徳川で、日本は直轄の成り上がり旗本大名に匹敵する。
馬鹿将軍が、懐を温めるために行なった海外派兵を藩を上げて支えた結果が、石油資本だけが儲かるために他に悪結果をもたらしている。
その弥縫策が健康保険や介護保険に次ぐ今回の、年金料、老人医療費の値上げである。
70歳以上の老人が家族と住んでいて収入が多いと医療費の負担が大きくなるのだそうだ。老人が一人暮らしで収入が少なければ、医療費は上がらないのだそうだ。それなら、どこの家族も老人を世帯から独立させるであろう。形式的な姥捨て奨励である。形式は、後追いで、実質が伴ってくるから、老人をホームに入れさせる家庭崩壊の始まりである。ホームを経営する企業は、厚生労働省のお墨付き天下り先で役人だけは儲かり、教育の建前では、家族を大事に、老人を大切にしようという基本法で、実際は老人を大事にしない社会を、国民は作ることになる。
すでに、身体障害者は、家族と同居して収入があると、異常に高額な医療費がかかるから、家族から切り離されている。身障者が高齢化したら、二重に社会から切り離されることになるのが、今回の法律だ。実に立派な政治家と官僚諸先生だ。他には適切な候補がいないからと選挙された先生がたが作った法律である。これが、明治維新を礼賛して美しく強い日本を目指す方々なのだ。いやホントに立派だ。みんなで、老人を独立させようではないか。ますます元気な老人の住むこの美しい国で。