遠藤周作の「没後10年・遠藤周作さんをしのぶ会」に出席したとき、来賓席の瀬戸内寂聴尼が、開会前でごったがえしている会場の人ごみの中にわたしを見つけて、84歳とは思えない勢いでわたしの所に駆け寄って来て、わたしの肩に手をかけて、耳元に「来たのよ来たのよ」と囁くから、
「なにが?」と、訊ねると、
「文化勲章よ。まず、あなたに第一番めに話そうと思っていたから、誰にもまだ話していないの」と言う。
「それは、おめでとうございます」と、寂聴さんの耳元にこたえて、
「あ、ついに来たか」という思いが頭をよぎった。
『源氏物語』の現代語訳をしてもらっていた時、元気づけるため、
「これを完成させれば、文化勲章ものです。ノーベル賞だって、夢じゃありません」と、煽って書いてもらっていたら、文化功労者に選ばれたのだ。
京都の寂庵を訪ねて、そのお祝いの言葉に、「文化勲章を貰う人は、その前に文化功労者に選ばれるから、まもなく、文化勲章が来ますね」と付け加えたのだ。
「これは、『源氏物語』のせいで貰ったのではないのよ。わたしの文学に対してなのよ。あなたは、『源氏物語』のせいだなんて考えないでよ」と、敢えてわたしに向かって言ったのだった。
可愛くないことを云うと思ったが、「はい、はい」と、応えておいた。何しろ、わたしより二十歳も年上だ。
わたしとしては、これで仕事がやりやすくなったから、それで十分だった。
その文化功労者の祝いを何回かして、その後、『源氏物語』も二五〇万部を超える記録を達成して、わたしの手を離れ、退職もしてしばらく経っていたから寂聴さんには逢っていなかった。
「あなたにしかまだ、話していないのよ」というのは、彼女の性格からして、額面通りは受け取れないが、悪い気はしなかった。
なにしろ、よく寂聴さんからは「『源氏物語』では苦楽をともにした」と言われてわたしも、ねぎらわれていたから、「やっと貰えたか」という思いでほっとした気持ちでもあった。
昔懐かしい気分でもあった。
その受章のニュースが27日に仙台から戻ってくる新幹線の車内でと、その日の夕刊に出ていた。
11月3日のちょっと前に発表されるであろうから、それまでは誰にも黙っていようと思っていた。以前に、寂聴さんから、これは、「あなたにだけ話すのよ」と、言われたことを人に話したことが、後で分かり、『おしゃべりなんだから』と言われたことがあったから、今回は黙っていた。これで、このことについては、話せるようになった。
「なにが?」と、訊ねると、
「文化勲章よ。まず、あなたに第一番めに話そうと思っていたから、誰にもまだ話していないの」と言う。
「それは、おめでとうございます」と、寂聴さんの耳元にこたえて、
「あ、ついに来たか」という思いが頭をよぎった。
『源氏物語』の現代語訳をしてもらっていた時、元気づけるため、
「これを完成させれば、文化勲章ものです。ノーベル賞だって、夢じゃありません」と、煽って書いてもらっていたら、文化功労者に選ばれたのだ。
京都の寂庵を訪ねて、そのお祝いの言葉に、「文化勲章を貰う人は、その前に文化功労者に選ばれるから、まもなく、文化勲章が来ますね」と付け加えたのだ。
「これは、『源氏物語』のせいで貰ったのではないのよ。わたしの文学に対してなのよ。あなたは、『源氏物語』のせいだなんて考えないでよ」と、敢えてわたしに向かって言ったのだった。
可愛くないことを云うと思ったが、「はい、はい」と、応えておいた。何しろ、わたしより二十歳も年上だ。
わたしとしては、これで仕事がやりやすくなったから、それで十分だった。
その文化功労者の祝いを何回かして、その後、『源氏物語』も二五〇万部を超える記録を達成して、わたしの手を離れ、退職もしてしばらく経っていたから寂聴さんには逢っていなかった。
「あなたにしかまだ、話していないのよ」というのは、彼女の性格からして、額面通りは受け取れないが、悪い気はしなかった。
なにしろ、よく寂聴さんからは「『源氏物語』では苦楽をともにした」と言われてわたしも、ねぎらわれていたから、「やっと貰えたか」という思いでほっとした気持ちでもあった。
昔懐かしい気分でもあった。
その受章のニュースが27日に仙台から戻ってくる新幹線の車内でと、その日の夕刊に出ていた。
11月3日のちょっと前に発表されるであろうから、それまでは誰にも黙っていようと思っていた。以前に、寂聴さんから、これは、「あなたにだけ話すのよ」と、言われたことを人に話したことが、後で分かり、『おしゃべりなんだから』と言われたことがあったから、今回は黙っていた。これで、このことについては、話せるようになった。