芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

未来志向の政策をできる政治家は?

2008年10月31日 | Weblog
先日、東京都と登米市は同じくらいの広さでないかと不確かなままで記したが、調べたら、登米市は東京都の4分の1くらいの広さであることが分かった。人口は、市制がしかれたときは、9万を越えていたが、一年後の平成18年までの統計しか分からないが、8万人台であるから、それから、2年経っているので、現在は、7万人台になっているのではないか。
国家政策が、官僚の机上の計画によって最近は、次々とその出鱈目ぶりが露呈されているとはいえ、東京都や、愛知県を除いたら、殆どの地方が人口減少であろう。
東北も、仙台圏を除くと、軒並み減少しているであろう。
住民の出入りと、地域の発展とは関係が深いから、人口減少をにらみながらの地域振興が望まれるのだが、登米市の現状を見ると、なかなか難しいのかもしれない。要するに、最近の国家政策も地方の政策も場当たりである。
国家にも地方にも将来を見越した、未来志向の政策をできる政治家はは出て来ないのであろうか。

田舎暮らしに車の必要性を説かれる

2008年10月30日 | Weblog
先日、佐藤元大工さんに蜂谷丸の柿をあげたら、今日、紫しめじ2本と、畑しめじを沢山持って来てくれた。つい最近、秋田県側の栗駒山に近いところにある、日本三大地獄と言われる川原毛地獄に行ってきたと写真を見せてくれた。携帯で撮ったと言うが、ちゃんと、紙焼きにしてある。500万画素だそうだ。日本三大地獄のもう二つは、立山と、恐山にあるのだだそうだ。その辺一体が、温泉になっていて、滝から落ちた湯につかることもできると言う。
鬼首から行くといいらしいが、私には車がないから、行けない。そのうち誰かに連れて行ってもらおう。
先日我が家で飲んだときも、皆は、車は必需品だと言っていたが、免許証を持っていても、今更、運転して事故でも起こしては大変であるから、運転はしないと答えておいた。
何か、こんな田舎暮らしで、車を持つのは、おかしく感じるのだ。行政は、車を持っていることを前提に、市町村合併を進めていながら、老人の多い田舎では、老人に免許証を返納させる運動を一方でしている。
登米市は、東京と同じくらいの広さがあるのではないかと思うが、そこには、電車は勿論なくて、バスも殆ど走っていない。隣町の病院と学校にく為のバスが朝夕あるだけだ。これでは、住民が減る一方で当たり前だ。
その川原毛地獄に公共機関の乗り物で行くには、バスの乗り継ぎで、おそらく最後はタクシーになるのであろう。

ウルドゥー語拙訳『竹取物語』続編ラジオジャパンで昨28日放送

2008年10月29日 | Weblog
NHK WORLD RADIO JAPAN の昨二十八日のウルドゥー語放送をインターネットで今朝聴いた。はじめに、日本に住む外国人が210万人を超えて、外国人子弟に対する日本語教育の必要性があると言う、浜松での大会を報道して、そのあと、先週に続き、「一つの出会い」という番組での私のウルドゥー語訳の『竹取物語』について、また放送してくれた。私が先週、『竹取物語』が非暴力主義を標榜していると言ったことに関連して、私の経歴を「ダルマサンガ」という、日印友好協会を主宰していることとともに、日本の文化をもっと外国に知ってもらわなけらばならないという主張を報道してくれていた。最後に、私のウルドゥー語での挨拶があり、『バフット、バフット、シュクリア』で締めくくられた。
いずれにしろ、日本の一番古い物語がインド・パーキスターンに向けて放送された意味は大きい。そもそもこの『竹取物語』は現代日本語訳・ヒンディー語訳をして2004年にハガエンタープライズから出版して、その改訂版が、インドの出版社、BOOKS INDIA INTERNATIONAL から2005年に出版されたが、その直後にやはり、NHK WORLD RADIO JAPAN のヒンディー語放送でインド向けに放送された。この『竹取物語』はウルドゥー語放送は、インドでも聞かれているから、インド・パーキスターンのかなりの人々に浸透したであろうと期待している。これによって日本への理解が一層深まればいいと思う。
このウルドゥー語放送は下記をクリックすると、micro soft media playerが起動して、番組の後半の『一つの出会い』というところで聴ける。
NHK URDU:http://www.nhk.or.jp/nhkworld/urdu/top/index.html

日本の進路のあり方

2008年10月28日 | Weblog
米国はいずれ崩壊するとだいぶ前から記して来たが、今回の世界不況を直接先頭に立って招いた大統領がFoolish Bush であることも何回も記してきた。そのブッシュ政権にとりいって利権を拡大した日本の政治家たちは、町村派と言われる派閥であり、その後押しで政権を取った現政権である。これまでの政権は、米国政権の言いなりになっていれば、それなりのおこぼれにあずかれたから、政権を維持できたが、これからは、米国の言いなりでは、やっていけないであろう。米国は、自らの衰弱して出来なくなった分を日本に転嫁することで自らの危機を抜けようとするであろう。しかし、それをそのまま日本の政権が受けいれて、国民の税金をつぎ込んだら、国民の窮状はますますひどくなるであろう。日本の税金を米国につぎ込んでも、それなりにやって来れた今までのようには行かないであろう。日本の財は充分に米国につぎ込まれて、多くの国民が窮乏するまでになったのだ。
今、日本に望まれる政権は、米国政権から独立した世界戦略を持った日本の政権だ。このままいけば、日本は米国旦那に貢いだ上に心中をさせられる女になる。あるいは、米国将軍様の狩猟のたびに貢納をつづけたうえに、狩りの最中に一緒に底なしの泥沼に引きずり込まれるようなものだ。

そういえば、『竹取物語』の拙ウルドゥー語訳が今日また以下の時間帯で放送される。先週火曜日の放送で「続きはまた来週放送する」と言っていた。ニュースのあとだから、35分番組のうちの後半だ。

放送時刻(現地時間):23:30~翌水曜00:15(日本)、20:00~45(インド)、19:30~20:15(パキスタン)
・周波数(短波ラジオ) :17595kHz (16mb)
(詳細は、http://www.nhk.or.jp/nhkworld/urdu/radio/frequency.html をご参照ください)

・インターネット:
 NHK URDU:http://www.nhk.or.jp/nhkworld/urdu/top/index.html
 10/22(水)の放送直後から一週間聴くことが出来ます。

私は、短波放送のラジオを持っていないから、先週の水曜日にインターネットで聞いた。前回、ヒンディー語訳の時の放送もそうして聞いた。

邉見清二さんの『おくのほそ道』ルート検証を読む

2008年10月27日 | Weblog
北上川運河交流館の邉見清二さんから、芭蕉『おくのほそ道』、曾良『随行日記』を検証した論文を送ってきて下さった。松島から、平泉までの出来うるかぎり、当時の資料に基づいたルートを追っている。あまりに詳細にかかれていて、検証するのに相当の時間が必要である。『おくのほそ道』の芭蕉自筆本の写真まで載せている。
凝り性の方であることは先日のお話で分かっていたが、これほどまで調べ尽くしているとは思わなかった。
風邪が中々抜けないため、畑にほうれん草を植えるだけでも息切れがして、つらいものがある。やむを得ず、伊新薬局から強い薬を買ってきて飲み始めた。
熱が下がってきては、また、柿とりに行ったり、畠を掘ったりであるから、直ぐぶり返すのかもしれない。
体力だけが自慢であったのにこれでは、いっそ寝込んだほうが治りが良いかもしれない。早くすっきりした気分になりたいが、寒さも厳しくなってきた。昨日は、同級生が集まって呑み会をしたので、その疲れもあるかもしれない。

登米の土手町

2008年10月26日 | Weblog
昨日は、軍場山の柿を採ってきた。皆渋柿だが、一本は、名前は分からないが、主にそれを採り、蜂谷丸という大きな柿が2本あり、それも少し採った。佐藤元大工さんが蜂谷丸を欲しいと言っていたから、今日それを届けた。ついでに、本覚寺の入口にある石碑を見たら、山神があった。先日雨漏りをしているところを直してもらった時に、86歳の老スレート職人の高橋哲郎さんに北上川沿いに上町から金谷まで今の堤防に当たるところに土手町があり、その上町側と金谷側に石碑があったが、現在はそれぞれ清龍神社と本覚寺入口に保存されているということを聴いていたので、確認したのだ。夏の間散歩をしている時に清龍神社に湯殿山と、水神の石碑があるのを確認してあったから、北上川沿いの土手町の上流は水神、下流は山神が守っていたことが分かった。水神と湯殿山は化政時代に立てられたのが分かったが、山神は良く読み取れなかった。その他にも石碑がいくつかあったが、よく分からなかった。

登米の旅館のあり方

2008年10月25日 | Weblog
なぜ、海老紋旅館の玄関前に立たされたのをいつまでも覚えているかと言うと、その少し前に私は、スキーで足首を骨折して、骨折は直っていたが、半回転した足首のねんざがいたくて、立っているのがつらかった上に、資料の入ったザックを背負っていたからである。旅館組合長からすれば、資料が入っているザックが重そうであろうがどうであろうが関係のない話しではあるが、元々、体育会系の私は、そんなことでもなければ、原稿書きなどの為に閉じこもったりするのは、苦手なのだが、歩くのも不自由でやむを得ず、原稿書きをして、『登米物語』を造ったのだ。であるから、それまで、登山にも相当行っていたが、すっかり行かなくなっていた。そもそもが、登山、インド旅行、スキーと続けていたところに、インドの友人の家で食べた肉にあたって、肝臓を悪くして、休んでいたところにスキーに誘われていきなり運動をしたので、骨折とあいなったのではある。従って、自業自得であるから、立たされたことをうらんでいるわけではなく、つらかったので、接客業の人が、どうして、座れとも言わないのだろうかと、ひっかかって、自分本位に思い続けているのだ。
もう一つ、昨年東京から来た私の親しい老夫婦が、私の家に泊まるのを遠慮して、海老武旅館をネットで予約して泊まったが、食事などは良かったが、夜中に食堂で酒を飲んだ客が部屋に戻って、深夜の3時頃まで呑み騒いでいた為、良く寝られなかったと言う。
これなども、旅籠宿のように音が筒抜けの防音していない旅館主が他の客に迷惑をかけないように注意すべきことではある。
登米の旅館の特徴を知っているつもりの私としては、そのようなあり方に客に喜んでもらう一言の提言をしたかったのではある。


トイマでは芭蕉に宿貸さず

2008年10月24日 | Weblog
北上川遠漕に協力する話しで、脇谷閘門と記したことについて、以前、仙台に来られたときにお会いした阿部三朗氏から脇谷洗堰のことであろうと、その開閉の申込先である石巻の北上川下流河川事務所の連絡先をメールして下さった。また、ボランティアについては、豊里の斎藤幸子さんから、北上川を筏で下る会がある事をメールして下さった。
本来、登米の旅館に泊まってもらうのであるから、旅館組合長が、先頭に立って、ボランティア活動をすべきことではあるが、登米でボランティアと言うと、町の案内をする人達が、観光客から3000円を貰って、「ボランティア活動をしている」と公表しているので、実際は有料でないと動かないも知れない。
なにしろ、旅館組合長の旅館に行って、四つの旅館の責任者を集めて私の話を聴いてもらいたいとお願いした私は、小学校以来、立たされたことがないのに、ヨワイ60代半ばにして初めて、その旅館組合長の宿の玄関前に一時間半も立たされて私の持論を開陳させられたのだ。その時の旅館組合長の最後の言葉が、『ほかの旅館は皆敵でがす』であった。私はそれほど情熱を持って町起こしに関わっているわけではないから、提案はしてもそれに応じてくれなければ、「はあ、そうですか」で引き下がったのだ。
芭蕉が登米に来たときも、曾良随行日記に記されているように、「戸いま、儀左衛門、宿不借」であった。芭蕉の『おくのほそ道』では、この事件は石巻で起こったように書いていて、石巻にとっては迷惑な話しであろう。石巻では、予定通りに泊まっているのだから。
要するに、他所からの客に対するもてなしのないところに見える。これが、日本の古い町に共通することなのかどうかは分からない。


北上川遠漕の企画

2008年10月23日 | Weblog
20日(月)の夕方5時ころに、三菱ボート倶楽部の岸田氏が、気仙沼で水産系の仕事をしている千葉さんの車で来た。千葉さんは東北大学のボート部で、ローマオリンピックに参加したときの主将だ。かねてから約束で、北上川を石巻から川崎まで遠漕したいので、その下調べに寄ってくれたである。その前日に丁度邉見清二さんが来て北上川をゴムボートで下ったときの話をしていただいていたので、その話をしてあげようかと思ったが、予定より一時間も遅く来たため、そのあと、気仙沼での食事会かなにかの予定があるらしく、30分もいないで帰られた。遠漕の途中で登米に一泊されるようだから、登米の旅館にとっては、助かる話しだ。
ただ、脇谷閘門の濁流を見て、そこを閘門に漕いで入るのは、勇気が要るから、どうしたらいいか、と迷っていられた。何しろ、岸田さんは80歳近くで、ドイツの川も漕いでいて、元気ではあるが、10数人で漕ぐとなると慎重にしなければならないと言っておられた。中には、まだ奥さんの健在な方もいるから死なせるわけにはいかないと言う。
私自身そこを電車の上からしか見たこともないし、漕いで越したこともないから、私が、地元でボランティアを集められる立場なら、綱で船を引いて閘門を越えさせることもできるのかもしれないが、なんとも云えなかった。閘門を越えて流れる川が濁流でなくなる時期があるのかどうかも分からない。
東京方面から北上川の遠漕に来るのは初めてかもしれないから、これをきっかけに北上川の船漕ぎの宣伝になればいい。登米市に脇谷閘門の通過を支援する仕組みがあれば、その援助を要請するのだが、先日も、観光物産協会で門前払いを食ったばかりであるから、支援は望み薄である。むしろ、石巻の邉見清二さんに相談したほうが良いかもしれない。とはいえ、登米に宿泊者を増やすという私の当初からの目論見が一歩前進するかもしれないが、旅館組合長の海老紋旅館主に話しても前回同様、「他の旅館は皆敵だから、その手の話しには乗られいん」という答えは分かっている。

『登米物語』を納品に仙台へ

2008年10月22日 | Weblog
昨日の深夜に放送された『竹取物語』拙ウルドゥー語訳の放送を今日、インターネットで聞いた。私の日本語説明のあとに直ぐウルドゥー語放送が入るので、ウルドゥー語が分からないと中々理解が行かないかもしれないが、最後に「この続きは、また来週のこの時間に」と言っていたから、29日(火)に続きが放送されることが分かった。一応放送を朝聞いてから、来週も聞く旨、NHKにメールして直ぐ、今日は、仙台に行ってきた。帰ると、NHKからは、「連絡が遅くなったが、来週は、昨日放送しきれなかった分の、私の履歴を放送するのだ」と、メールが来ていた。私がウルドゥー語で最後を締めくくったのも来週放送されるのだろう。今日の放送では、『竹取物語』の著者は、非暴力主義を標榜しているという私の持論がちゃんと紹介されていた。
仙台では、丸善仙台アエル店、ジュンク堂書店仙台ロフト店、東一番町の金港堂に『登米物語』を納品してきた。仕入れかかりの方に皆喜んでいただいた。しかし、重い本をザックで背負って持っていっても大変なだけで、500円の本では、くたびれ儲けではある。
紀伊国屋書店仙台店はとおいので市内から宅急便にした。