芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

黴はえ柿

2006年12月28日 | Weblog
11月に剥いて干した柿のうち、物干に吊るした柿は食べられるようになっていたが、竹籠にのせて古家の廊下に干しておいたのは皆黴が生えていた。カビで真っ白になっているのを最初、粉が吹いているのと勘違いした。今、工事の仕上げにきている小学校、中学校時代に一級下だった建具屋の菅野君は、「干し柿には太陽と風が必要なのです」という。10月に家の中に干していた柿が皆べたべたになって落ちたので、今回は、日のあたらない寒いところにおいたのがいけなかった。100個以上が無駄になってしまった。まあ仕方ない。
伊達宗弘氏に次回1月に会うときに歴史の巻頭言をもらうことになったから、1月にまた田舎の家にいき、干し柿を点検して、家のことがだいたい終わって2月はインドに行けそうだ。

コナーラク、コルカタ

2006年12月21日 | Weblog
2月11日(日)からいく事にした。10日はすでに満席で空き待ちが60人もいるのだそうだ。なんだか、昔と違って、インドに行く人がずいぶん増えているようだ。今もいるかもしてないが、インドというと、なぜ?という人がいた。ハワイに行くのが今でも一番らしい。私からすると、それはそれでどうぞという感じで来たのだが、インドの国内線も昔と違って満席になりやすくなっているから、今回のデリー/ブバネーシュワル、コルカタ/デリーももう6席しかないと云われている。隔世の感がある。そもそも私が中国語科にするか、インド語科にするかでも迷った受験の時代は遥か昔になりにけりだ。中国語科は、当時国交がなかったから卒業しても仕事がないだろうと思い、やめて、インド語科にしたのだ。結果的には、どちらとも関係のない仕事に就いたが、インドの事はやめずに続けて来た。
今夜、ダルマサンガの忘年会で、他にいく人がいるか訊ねて、明日の朝には、飛行機の席を予約しないと、席が取れなくなる。考えてみると、2月出発まで後1ヶ月ちょっとしかないのだ。
いのだから帰ったらすぐ、登米物語の準備もあるから、帰ってからも忙しい事だろう。

2月はコナーラクへ

2006年12月19日 | Weblog
高柳正幸さんと相談して、2月10日か11日発のインドはコナーラクへいく事にした。高柳さんは、わたしを1982年3月5日放送のNHK教育テレビ「異文化との出会いーー悠久のガンジス」に出演させて私の話しを聞いてから、私と毎年インドに行くようになり、殆どインドをくまなく旅し、インドをテーマにした番組もたくさん作っているディレクターだ。放送大学では、辛島昇教授と組んで、インドの取材も相当していて、インドの歴史文化を教授する番組を作っているから、コナーラクには当然行っていると思ったら、珍しく行っていないという。放送大学を退職して暇になった今、久しぶりで一緒に行こうということになった。彼の作った放送大学の授業用番組は、何かの機会におおくの人にそのビデオを見せたい、実にためになる内容で、インドを良く知ることが出来る辛島昇教授の解説付きだ。
木我伸子さんがインドに行きたいという言上げをしてくれたおかげで、25年来の級友と久しぶりにインドの世界遺産を訪ねる旅をすることになった。今年は正月インドから帰国して以来、珍しく1年間もインドに行っていないから、兵庫県の橋本隆子さんは、確かすでにコナーラクには行っているが、前からどこでも良いから同行したいと言ってきているので、一緒に再訪してもらうことになる。私自身もコナーラクは、1970年から数回行っている。
これから、コナーラクを中心にゆったりとした旅程を組むことにする。

井伊家と毛利家

2006年12月14日 | Weblog
12月9日午後3時過ぎ、藤島から竹下に嫁いだよしみ叔母が99歳7ヶ月余で亡くなった。
昨年11月に初めてお遇いしたとき、よしみ叔母は、慶応大学にいた私の父「嘉道兄さんの世話で仙台から青山学院大学に入った。嘉道兄さんは柔道が強くて、仙台の東北学院にいたときに優勝していて、子供たちが連れ立って福島の海岸で夏を過ごしていたころに近所を通る人達から、藤島嘉道、柔道ナンバーワンとはやされていた」と云っていた。
私は、登米中学校の3年のときに登米郡中学校柔道大会で優勝して、個人戦でも2位だったが、仙台一高の柔道部では、初段のまま下位にあまんじた。下宿生活のため、質素な食事で毎日さんま1本とたくあん漬けだけだったせいか、体重が増えなかったからかもしれない。
父は、鐘紡に入社して、母と下北沢に住んでいた頃、近くの竹下家と良く行き来していたと母から聞いていた。その父は肺病で間もなく他界し、すっかり付き合いが途絶えていた。
その叔母と昨年、川渡の藤島旅館で遇い、記念撮影などもしたが、11月19日に藤島旅館の第19代の跡継ぎ、雅弘君の結婚式に、よしみ叔母の介護で出席できない従兄の桂さんと、代理出席の次女真紀さんの携帯で話して「この夏になってから急に弱ったから、一度逢いに来てください」と言われ、11月30日(木)の午後に行ってお逢いした時、桂さんがスプーンや箸で食事を手伝っていたので、ここまで面倒見るのは大変だろうと思っていた矢先のことだった。
よしみ叔母の家は、松陰神社の近くで、よくそこにお参りしていたと言い、11日、12日の通夜、本葬ともに遺言通り神式だった。
松陰神社には、吉田松陰など安政の大獄で刑死した人達が祀られていて、元は、長州毛利藩の屋敷跡だ。すぐ隣りに、日露戦争を開戦した桂太郎の墓があり、その創立になる国士舘がある。国士舘のさらに隣りには、安政の大獄を指導して、桜田門で暗殺された井伊直弼の墓がある豪徳寺だ。
竹下桂さんは、「国論に関して考えが極端に違う者同士が隣り合って住んでいたのだ」と、感心している。

皋水斎藤實

2006年12月13日 | Weblog
斎藤實記念館の館長菅原志保子さんから、斎藤實の号は「皋水」で、皋は皐(さつき)の古字、『沢』を意味するから、皋水は水沢を指すというお手紙を頂いた。
先日、斎藤実について、奥州市にメールで問い合わせていたのに対してわざわざお手紙で回答してくださったのだ。
皋水は「こうすい」と読むのであろう。
また、ご丁寧に、沼南という雅号についても調べてくださり、静岡県生まれのジャーナリスト、政治家で、「横浜毎日新聞」を創刊、第1回総選挙以来14回連続当選して自由主義者として社会改革に努めた島田三郎が使っていたという。
この双方の雅号が記された書があり、どちらが斎藤實か分からなかった。
また、続けて、斎藤實と後藤新平の実家の近く出身という星和夫氏からこのブログにコメントというかたちで、斎藤實の雅号が皋水であり、記念館もある事をご教示いただいた。斎藤実で検索しても記念館が出てこなかったが、斎藤實では出て来た。
これからは、斎藤実(さいとうまこと)ではなく斎藤實と書く事にする。
星氏の実家が、水沢の斎藤實家や後藤新平家の近くという事は、登米伊達家の縁戚に星家があることが、『登米物語』の歴史を書く過程で分かっているから、星家も仙台藩につらなる家臣だった可能性があるのではないか。

岩倉具視

2006年12月11日 | Weblog
長谷川俊雄君のお母さんは岩倉具視の孫だったと思う。お母さんの実家は、京都の渡月橋の近くにあると聞いた事がある。
高校生の頃によく長谷川君の家に行ってご飯をご馳走になった。たまに仙台に住んでいる九十歳代のそのお母さんに会いに行く。
羽田空港での長谷川君との話しのなかで、明治維新の失敗は、大久保利通と岩倉具視が中心となって武力と暴力によって徳川幕府から権力をもぎ取ったため、結局米国に武力で植民地にされたのだと私の考えを述べたら、彼は、子供の頃聞いていたらしい話しになって、「孝明天皇は殺されたのかもしれないし、明治天皇も本物かどうか分からない」という。岩倉具視は、死ぬとき、「誰にも話せないことをみんな持ってあの世に行く」と言ったのだそうだ。

『竹取物語』アラビア語版

2006年12月10日 | Weblog
『竹取物語』アラビア語版の訳者を紹介してくれた、仙台一高の親友、長谷川俊雄君がエジプトを再訪すると言い、カイロでする事はないかというので、出版社マスリーヤ・ルブナニーヤと私に替わって交渉してくれた国際交流基金の森田さんにお土産を託すため、翌日曜成田出発なので、土曜日に羽田で会った。森田さんから、出版社が大澤和泉さんの絵を欲しいと言って来ているとメールして来るまで、国際交流基金の援助プログラムに入っている事すら出版社からは何も連絡がなかった。トヨタの車を買うのに1年かかるというお国柄だから、『竹取物語』の出版契約書など作るとなると時間ばかり過ぎて援助プログラムの期限切れになりそうだから、森田さんに頼んで条件などを聞いたが、やはり、条件などをいうなら、出版そのものを辞退したいなどと言って来て、ふりだしから始めることになってしまった。どうも、私の最初の提案を社長が見ていなかったという事で、誤解があったと、その後翻訳者のイサムハムザ氏から森田さんの所に訂正があったと言い、イサムハムザ氏に交渉を任せると出版社からの初めての連絡がメールで入った。なんだか、インド的な交渉で、心もとない限りだ。
昨年アラビア語版の交渉にカイロに行った時、長谷川俊雄君の家に一緒に泊めてもらった大澤和泉さんと羽田の到着ロビーで旭川から来る彼を第1ターミナルで待ち、公務でない奥さんは安い切符で2時間後に札幌から来るというので、その間歓談した。国家公務員の出張は、そう言う所ががんじがらめでお気の毒だ。二人でカイロに行くのにも行きはなんとか一緒だが、帰りは奥さんは安い切符で後の便で帰るのだそうだ。
その奥さんを、第1ターミナルで待っていたら、携帯でもう着いていると言って来て、それが第2ターミナルであることが分かり、羽田空港も成田空港と同じくらい大きいのだと分かった。
出張旅費の使い方を細かく指示されるから、国家公務員はこういう時は、中々面倒なことになる。翻って、自分が民間で働いていたときには、私費で同行するような事はなかったが、あったにしても、そこまでは、細かく監査からいわれなかったであろう。

三田佳子

2006年12月09日 | Weblog
昨日、前に講演させられたダイヤ神奈川の会で、三田佳子が「杜子春」の朗読をするから聞きにこないかと、高校の同級生でダイヤ神奈川の幹事をしている白幡善雄君に誘われて聞いて来た。三田佳子と同級で、かつその夫君高橋康雄氏とも大学同級生の「大滝?」氏が友情出演してもらったのだそうだ。音楽も照明も友情出演で効果があったから、感動的な朗読だった。
三田佳子には、CD版の『源氏物語』の紫式部の語りを延々と朗読してもらったから、その頃からのおつきあいで、先日も、「遠藤周作の10回忌」でお会いしていて、朗読の後「また、お会いして、なんだかこのごろご縁がありますね」という話しになった。

斎藤実と芳賀明

2006年12月07日 | Weblog
斎藤実も、仙台藩の水沢で生まれ、登米の水沢県庁に勤め給仕などをした。海軍兵学寮(後の海軍兵学校)を出て、駐米公使館付海軍武官、海軍大臣、朝鮮総督、第30代内閣総理大臣、ボーイスカウト第二代目総長などを歴任、内相のときに、二・二六事件で森、平沼らの意を帯した青年将校たちに暗殺された。
芳賀明が斎藤実とどういう関係であったかはわかないが、この斎藤実の揮毫した書も家にあると、子供の頃から聞いている。しかし斎藤実の本名で書かれていないのと、その号が分からないのとでどの額がそれなのかいまだに分からない。

後藤新平と芳賀明

2006年12月03日 | Weblog
江戸時代の建物を大正時代に改築して現況の芳賀邸を造った芳賀明は、後藤新平が逓信大臣兼鉄道院総裁だったときの直属の部下であった。
芳賀明は、海事審判所の判事を拝命したときに、賄賂が横行している所なのに、敷島というタバコの箱に入れた賄賂などを全て荷主に返却して、賄賂に影響されずに判決を下したので、そのいさぎよい節操を賞揚した後藤新平が『芳賀君のために 清節 後藤新平』と大書揮毫した賛辞が、額装されて奥の間に掛けてある。