天正十八年(一五九〇)八月二十二日頃、奥州仕置き軍の浅野長政、石田三成たちが葛西氏の旧城、登米の寺池城に集結して、そこから平泉に進軍して九月十三日頃に攻略している。その進軍に二十日ほどかかったということは、葛西兵の抵抗が相当あったのかもしれない。また、葛西と大崎の旧領約三十万石を秀吉から与えられた木村吉清は、小身から急に大身になり、間に合わせで、ならず者をかき集めて領地経営をしたため、苦しめられた領民たちが一揆を起こし、登米の隣町佐沼城に葛西氏と大崎氏の残党が籠城したが、天正十九年七月三日に子女までも撫で切りにされ、多くのものが打ち首になって木村吉清は領地を没収された。さらに、伊達政宗の募兵に応じて桃生郡須江に集まった旧葛西氏の将兵が深谷で誅殺されたという。
安倍氏征伐の功で、源頼義は正四位下伊予守に長男義家は従五位下出羽守に、次男義綱は左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に、清原武則は従五位下に除せられ鎮守府将軍に任ぜられた。二十四歳の義家は武家の棟梁のつくべき鎮守府将軍に清原武則が就いたことに不満だったのか七十歳の父に孝養したいと、転任を願い出たという。
安倍頼時の娘で藤原経清の妻は、のちに藤原清衡となる七歳の息子とともに、敵方の清原武則にひきとられその嫡子、清原武貞の妻にされ、家衡を生んだ。
清原武則の頃の安倍氏は同族連合体的であったが、清原武貞を経て真衡(さねひら)の時代になると、嫡宗独裁的になっていったため、同族の長たちに不満がつのっていた。
真衡の養子、成衡(なりひら)と源頼義の娘との婚儀に吉彦秀武が祝儀の金を朱の盤一杯に積んで献じたが、奈良法師との囲碁に夢中になっている真衡に無視されたのを怒った秀武は、金を投げ散らかして出羽へ帰り、清原清衡・家衡兄弟と謀って胆沢郡白鳥村の家四百余を焼き打ちして気勢をあげた。真衡は、陸奥守として赴任してきた源義家の応援で清衡・家衡兄弟を追い払うことが出来たが、真衡自身は急病で頓死した。清原清衡・家衡兄弟は、開戦の責任を戦死した清衡の親族重光に転嫁して義家に降服した。義家は彼らを許し、清衡には胆沢、江刺、和賀の三郡を、家衡には稗貫、紫波、岩手の三郡を与えた。
この分配に不満を抱いた家衡は、清衡を暗殺しようとして失敗し、つぎに清衡の館を急襲して妻子眷属を殺害した。清衡は辛うじて逃げ、義家に訴えた。義家は応徳三年(一〇八六)数千騎で出羽の沼柵に家衡を攻めたが、冬を迎えたため寒さと飢えで多くの凍死者を出し、また、家衡の果敢な戦いに共鳴した叔父の武衡が参戦して金沢の柵に移って籠城したため、困難を極めた。京都にいた義家の弟、新羅三郎義光は兄の苦戦を聞いて、応援のため休暇を申請したが認められず、兵衛尉(ひょうえのじょう)の官職を投げうって応援に駆けつけた。義家は、飛ぶ雁の群れの列が乱れるのを見て、敵の伏兵に気づき、危機を免れて寛治一年(一〇八七)九月金沢の柵の包囲を完成し、柵は十一月十四日に落城して家衡と武衡は討たれた。これが後三年の役である。
源義家はこの勝利で朝廷からは、私闘であるという理由で恩賞もなく、陸奥に土地も与えられず、逆に藤原清衡は、関白藤原師実に名馬を送り、朝廷からの国司の権力を押さえることに成功した。
しかし、義家は陸奥の守として手に入れた陸奥の国の砂金を清原氏との戦いにかこつけて、朝廷におさめず、その私物化した財産で戦の論功行賞を行なったので、東国の武士たちは感激し、文武両道に通じる八幡太郎義家という武士賛美の英雄伝説が出来上がる
安倍頼時の娘で藤原経清の妻は、のちに藤原清衡となる七歳の息子とともに、敵方の清原武則にひきとられその嫡子、清原武貞の妻にされ、家衡を生んだ。
清原武則の頃の安倍氏は同族連合体的であったが、清原武貞を経て真衡(さねひら)の時代になると、嫡宗独裁的になっていったため、同族の長たちに不満がつのっていた。
真衡の養子、成衡(なりひら)と源頼義の娘との婚儀に吉彦秀武が祝儀の金を朱の盤一杯に積んで献じたが、奈良法師との囲碁に夢中になっている真衡に無視されたのを怒った秀武は、金を投げ散らかして出羽へ帰り、清原清衡・家衡兄弟と謀って胆沢郡白鳥村の家四百余を焼き打ちして気勢をあげた。真衡は、陸奥守として赴任してきた源義家の応援で清衡・家衡兄弟を追い払うことが出来たが、真衡自身は急病で頓死した。清原清衡・家衡兄弟は、開戦の責任を戦死した清衡の親族重光に転嫁して義家に降服した。義家は彼らを許し、清衡には胆沢、江刺、和賀の三郡を、家衡には稗貫、紫波、岩手の三郡を与えた。
この分配に不満を抱いた家衡は、清衡を暗殺しようとして失敗し、つぎに清衡の館を急襲して妻子眷属を殺害した。清衡は辛うじて逃げ、義家に訴えた。義家は応徳三年(一〇八六)数千騎で出羽の沼柵に家衡を攻めたが、冬を迎えたため寒さと飢えで多くの凍死者を出し、また、家衡の果敢な戦いに共鳴した叔父の武衡が参戦して金沢の柵に移って籠城したため、困難を極めた。京都にいた義家の弟、新羅三郎義光は兄の苦戦を聞いて、応援のため休暇を申請したが認められず、兵衛尉(ひょうえのじょう)の官職を投げうって応援に駆けつけた。義家は、飛ぶ雁の群れの列が乱れるのを見て、敵の伏兵に気づき、危機を免れて寛治一年(一〇八七)九月金沢の柵の包囲を完成し、柵は十一月十四日に落城して家衡と武衡は討たれた。これが後三年の役である。
源義家はこの勝利で朝廷からは、私闘であるという理由で恩賞もなく、陸奥に土地も与えられず、逆に藤原清衡は、関白藤原師実に名馬を送り、朝廷からの国司の権力を押さえることに成功した。
しかし、義家は陸奥の守として手に入れた陸奥の国の砂金を清原氏との戦いにかこつけて、朝廷におさめず、その私物化した財産で戦の論功行賞を行なったので、東国の武士たちは感激し、文武両道に通じる八幡太郎義家という武士賛美の英雄伝説が出来上がる
『陸奥話記(むつわき)』に安倍忠頼、忠良、頼良という俘囚の氏族が陸奥に善政をしいて三代、百年にわたって栄えていたという。安倍氏は、元々が、国司からは独立的で、多賀城の国府から郡司に任じられてはいたが、陸奥六郡に柵(さく)という城を造って一族で支配していた。多賀城の守、藤原登任(なりとう)は、国府に税を納めず、労役もつとめない安倍頼良を出羽の秋田城の介、平重成(たいらのしげなり)を先鋒にして攻撃したが、宮城県北部の鬼首で敗れた。
朝廷は平忠常の乱を収拾した源頼信の嫡子、頼義を永承六年(一〇五一)陸奥守に任命した。ところが、上東門院藤原彰子の病気平癒祈願のため大赦が行われ安倍頼良も許された。感謝した安倍頼良は源頼義と読みの同じ頼良の名前を頼時と改めて源頼義に帰服して、鎮守府将軍として胆沢城の鎮守府に来た頼義に駿馬、金宝を献じて仕えた。
源頼義はその射芸にゆえに、忠常の乱の追討使、平直方(たいらのなおかた)の娘婿にむかえられている。それにより、逢坂の関の東、関東の武士団が頼義に帰順するようになった。頼義は、陸奥の守についたので、陸奥においても武士団の棟梁としての地位を確立しようとしたらしく、部下の藤原の光貞・元貞が夜襲をかけられたのは、光貞の妹を妻に求めて、俘囚という卑しい地位ゆえに断られた貞任の仕業であるとでっち上げて、頼義は頼時・貞任父子と戦いの火ぶたを切った。頼時は戦死したが、貞任・宗任兄弟の活躍で頼義は苦戦を強いられ、出羽の俘囚の主、清原光頼・武則兄弟の加勢を得て、盛岡に近い安倍氏最後の拠点厨川の柵に追いつめ、貞任は戦死、宗任ら一族は降伏してとらわれ、京都に送られた。頼義が安倍氏を挑発してから康平五年(一〇六二)末に至る八年の戦い、これが前九年の役である。
朝廷は平忠常の乱を収拾した源頼信の嫡子、頼義を永承六年(一〇五一)陸奥守に任命した。ところが、上東門院藤原彰子の病気平癒祈願のため大赦が行われ安倍頼良も許された。感謝した安倍頼良は源頼義と読みの同じ頼良の名前を頼時と改めて源頼義に帰服して、鎮守府将軍として胆沢城の鎮守府に来た頼義に駿馬、金宝を献じて仕えた。
源頼義はその射芸にゆえに、忠常の乱の追討使、平直方(たいらのなおかた)の娘婿にむかえられている。それにより、逢坂の関の東、関東の武士団が頼義に帰順するようになった。頼義は、陸奥の守についたので、陸奥においても武士団の棟梁としての地位を確立しようとしたらしく、部下の藤原の光貞・元貞が夜襲をかけられたのは、光貞の妹を妻に求めて、俘囚という卑しい地位ゆえに断られた貞任の仕業であるとでっち上げて、頼義は頼時・貞任父子と戦いの火ぶたを切った。頼時は戦死したが、貞任・宗任兄弟の活躍で頼義は苦戦を強いられ、出羽の俘囚の主、清原光頼・武則兄弟の加勢を得て、盛岡に近い安倍氏最後の拠点厨川の柵に追いつめ、貞任は戦死、宗任ら一族は降伏してとらわれ、京都に送られた。頼義が安倍氏を挑発してから康平五年(一〇六二)末に至る八年の戦い、これが前九年の役である。
応永七年(一四〇〇)には、伊達、大崎、登米が結んで、登米町北部のイタチ沢に陣を張って葛西、桃生、深谷などの鎌倉方と戦って勝利したと『伊達正統世次考』にいう。同書と『留守文書』では、同じ頃に現在の登米に属する日根牛が葛西領であったことも記している。大崎探題をはじめとするこの地方の領主たちが鎌倉府から独立的だったようだ。
なかでも伊達氏は十五世紀に入って主な領主たちと縁組みをして勢力を増していった。奥州探題に補任された伊達成宗の子息宗清は葛西氏に入嗣し、父の権力を背景に葛西氏全体の実権を握った。明応九年(一五〇〇)桃生、登米、深谷の三郡一揆があった。
十六世紀永正三年(一五〇六)葛西氏と深谷長江氏の戦いに登米郡の小野寺氏が参戦したと『藤原姓小野寺系図』に記され、永正八年(一五一一)山内首藤、登米、伊藤らの一揆があり、永正八年と九年の秋に山内首藤氏は葛西宗清と戦って滅びている。登米氏もその頃に滅ぼされている。かくして江刺、伊沢、磐井、気仙、本吉、牡鹿、登米、桃生の八郡は、伊達系の葛西宗清によって葛西氏の支配下に入った。『伊達家治家記録』によると、伊達稙宗は、子息牛猿丸を宗清の死後、その娘に配して入嗣したという。葛西晴胤である。葛西晴胤は天文十七年寺池に新城を築き、居館とした。その子義重は寺池城に居住した。さらにその子晴信は寺池城を本館とした。
なかでも伊達氏は十五世紀に入って主な領主たちと縁組みをして勢力を増していった。奥州探題に補任された伊達成宗の子息宗清は葛西氏に入嗣し、父の権力を背景に葛西氏全体の実権を握った。明応九年(一五〇〇)桃生、登米、深谷の三郡一揆があった。
十六世紀永正三年(一五〇六)葛西氏と深谷長江氏の戦いに登米郡の小野寺氏が参戦したと『藤原姓小野寺系図』に記され、永正八年(一五一一)山内首藤、登米、伊藤らの一揆があり、永正八年と九年の秋に山内首藤氏は葛西宗清と戦って滅びている。登米氏もその頃に滅ぼされている。かくして江刺、伊沢、磐井、気仙、本吉、牡鹿、登米、桃生の八郡は、伊達系の葛西宗清によって葛西氏の支配下に入った。『伊達家治家記録』によると、伊達稙宗は、子息牛猿丸を宗清の死後、その娘に配して入嗣したという。葛西晴胤である。葛西晴胤は天文十七年寺池に新城を築き、居館とした。その子義重は寺池城に居住した。さらにその子晴信は寺池城を本館とした。
葛西氏は、地頭職、奥州惣奉行の地位にあり、その年貢徴収権を利用して、中尊寺の荘園を侵すなどして、次第に私有地をを増やしていき、中央から派遣された大崎探題などと対立するようになっていった。
少なくとも十四世紀南北朝の建武年間(一三三〇年代)には葛西氏が寺池城に居たことが『奥州寺池葛西系図』からわかる。
また、正平十七年=貞治元年(一三六二)に葛西氏が寺池城を小野寺伊賀守道景に託し石巻日和山に居を構えたという伝承がある(『角川日本地名大辞典 宮城県』)。永和三年=天授三年(一三七七)には山内・長江、登米、留守が一揆契約を結んで同盟し、大崎探題に対立した「五郡一揆」があった。
十五世紀応永九年(一四〇二)には、伊達、大崎、登米が結んで、イタチ沢に陣を張って葛西、桃生、深谷など鎌倉方と戦って勝利したと『伊達正統世次考』にいう。同書と『留守文書』では、同じ頃に現在の登米に属する日根牛が葛西領であったことも記している。
そして、応永18年(1421)に登米氏(豊間)、明応九年(一五〇〇)桃生、登米、深谷の三郡一揆。
十六世紀永正八年(一五一一)山内首藤、登米、伊藤らの一揆があり、登米氏の名前が出てくるから、葛西氏の支配下にあったことが伺われる。
秀吉の小田原北条氏攻略に参戦しなかったために奥州仕置きで葛西が滅ぼされた時には、登米の現在水道浄水場になっている保呂羽城がが葛西氏の城であった。
少なくとも十四世紀南北朝の建武年間(一三三〇年代)には葛西氏が寺池城に居たことが『奥州寺池葛西系図』からわかる。
また、正平十七年=貞治元年(一三六二)に葛西氏が寺池城を小野寺伊賀守道景に託し石巻日和山に居を構えたという伝承がある(『角川日本地名大辞典 宮城県』)。永和三年=天授三年(一三七七)には山内・長江、登米、留守が一揆契約を結んで同盟し、大崎探題に対立した「五郡一揆」があった。
十五世紀応永九年(一四〇二)には、伊達、大崎、登米が結んで、イタチ沢に陣を張って葛西、桃生、深谷など鎌倉方と戦って勝利したと『伊達正統世次考』にいう。同書と『留守文書』では、同じ頃に現在の登米に属する日根牛が葛西領であったことも記している。
そして、応永18年(1421)に登米氏(豊間)、明応九年(一五〇〇)桃生、登米、深谷の三郡一揆。
十六世紀永正八年(一五一一)山内首藤、登米、伊藤らの一揆があり、登米氏の名前が出てくるから、葛西氏の支配下にあったことが伺われる。
秀吉の小田原北条氏攻略に参戦しなかったために奥州仕置きで葛西が滅ぼされた時には、登米の現在水道浄水場になっている保呂羽城がが葛西氏の城であった。
坂上田村麻呂の延暦二十年(八〇一)の東国遠征以来、京都の朝廷に任命された国司が陸奥、出羽の荘園の収税権を握り、彼ら守(かみ)にかわって派遣された部下の介(すけ)という代理人が徴税の仕事をした。実務を握る彼ら受領(ずりょう)は、国司と納税者との間でおのれの収入を増やすために開墾や、増税をして土着化する者も出て来た。現在の秋田にあたる出羽では、苛烈な徴税にたいする俘囚の反乱がたえなかった。俘囚とは、京都の朝廷が陸奥の蛮族の蝦夷を平定する過程で帰順した蝦夷を蔑視した呼称だ。いまだ帰順していない蝦夷と俘囚の反乱を押さえるために、はじめは、今の警察にあたる検非違使や押領使が送られたが、それでは足りなくなっていった。開墾で私有地を増やした豪族や農民たちが武力も併せ持ち割拠し始めていて、彼らの武力が求められることになった。遠国に赴任するのを避けた国司たちは、京都にあって自己の昇進と優雅な生活にうつつを抜かして、警備と徴税は人任せだったのだ。
この武力を持った豪族たちによって武士団が形成されて行った。
十世紀前半、仮借ない徴税に不満を持つ人々を背景に、土着化した受領の子孫にあたる平将門の乱が関東で起こり、藤原純友の乱が瀬戸内海で起こった。この乱は、武士団をまとめていった平氏や源氏の実力者によって鎮圧され、武力・軍事力を背景にした武士団が、次々と起こる反乱と強盗を鎮圧して朝廷貴族から独立していく。
この武力を持った豪族たちによって武士団が形成されて行った。
十世紀前半、仮借ない徴税に不満を持つ人々を背景に、土着化した受領の子孫にあたる平将門の乱が関東で起こり、藤原純友の乱が瀬戸内海で起こった。この乱は、武士団をまとめていった平氏や源氏の実力者によって鎮圧され、武力・軍事力を背景にした武士団が、次々と起こる反乱と強盗を鎮圧して朝廷貴族から独立していく。
ささきいさおのコンサートが、今日7月2日(日)麻生市民館であった。和製プレスリーとはやされて、今年がデヴュ-45年の記念公演だそうだ。プレスリー、ポールアンカの唄を歌ってくれたので、懐かしかった。また、私の好きなフランク永井の「お前に」も聞けた。「お前に」はNHKの歌謡ショウに出演するため作詞家吉田正の直々の指導で練習したのだそうだ。
佐々木功氏は、私の幼馴染みだ。敗戦直後の昭和20年代に彼が東京から登米に疎開していたときによく遊んだのだ。彼とは、同じ年齢だ。
当時、登米では持っている子供などはいなかったが、彼は三輪車を持っていて、彼の三輪車で私は500メートルくらい離れている我が家に帰り、「明夫ちゃんが、僕の三輪車に乗って行っちゃった」と泣かしてしまったのだそうだ。乗って帰ったのと、それを返しに行かされたのは、覚えている。しかし、その後、彼が東京に帰ってからは、全く交流がなかったのだが、ある日、母と祖母がテレビに出ている「ささきいさお」を見ながら、「ほら、いさちゃんだよ」と教えてくれたので、思い出した。
数年前、地下鉄の竹橋から、サングラスをかけた私と同年くらいの男が乗ってきて私の隣りに座った。私はすぐ彼とわかったので、
「失礼ですが、ささきいさおさんでしょう。覚えていらっしゃらないでしょうが、わたしは、子供の頃登米で一緒に遊んだハガアキオと言います。あの頃、タッちゃんとも遊びましたね」と、彼のいとこの名前もだして、私がいい加減なことを云っているのでないことを示した。彼は、登米をちゃんと覚えていて、驚いていた。
「タッちゃんとは会うことがありますか」と、聞くと、
「来週会います」というではありませんか。
「ハガアキオと言えばわかりますから、宜しくお伝え下さい」と言って、私は、大手町で東西線の地下鉄を降りた。ほんの数分のやりとりだった。
それが、今度は、すぐ近くで、コンサートをするというので、田舎で名物のあぶら麩を買ってきて、渡すのを楽しみにしていたのだ。普通は花をあげるのだろうが、公演が終わってから、CDを買った人と握手をするというので、握手しに行き、
「お荷物になって済みませんが、登米の名物あぶら麩です」と言って、渡すと、また驚いていた。
佐々木功氏は、私の幼馴染みだ。敗戦直後の昭和20年代に彼が東京から登米に疎開していたときによく遊んだのだ。彼とは、同じ年齢だ。
当時、登米では持っている子供などはいなかったが、彼は三輪車を持っていて、彼の三輪車で私は500メートルくらい離れている我が家に帰り、「明夫ちゃんが、僕の三輪車に乗って行っちゃった」と泣かしてしまったのだそうだ。乗って帰ったのと、それを返しに行かされたのは、覚えている。しかし、その後、彼が東京に帰ってからは、全く交流がなかったのだが、ある日、母と祖母がテレビに出ている「ささきいさお」を見ながら、「ほら、いさちゃんだよ」と教えてくれたので、思い出した。
数年前、地下鉄の竹橋から、サングラスをかけた私と同年くらいの男が乗ってきて私の隣りに座った。私はすぐ彼とわかったので、
「失礼ですが、ささきいさおさんでしょう。覚えていらっしゃらないでしょうが、わたしは、子供の頃登米で一緒に遊んだハガアキオと言います。あの頃、タッちゃんとも遊びましたね」と、彼のいとこの名前もだして、私がいい加減なことを云っているのでないことを示した。彼は、登米をちゃんと覚えていて、驚いていた。
「タッちゃんとは会うことがありますか」と、聞くと、
「来週会います」というではありませんか。
「ハガアキオと言えばわかりますから、宜しくお伝え下さい」と言って、私は、大手町で東西線の地下鉄を降りた。ほんの数分のやりとりだった。
それが、今度は、すぐ近くで、コンサートをするというので、田舎で名物のあぶら麩を買ってきて、渡すのを楽しみにしていたのだ。普通は花をあげるのだろうが、公演が終わってから、CDを買った人と握手をするというので、握手しに行き、
「お荷物になって済みませんが、登米の名物あぶら麩です」と言って、渡すと、また驚いていた。