芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

農家に対する戸別所得補償の説明

2010年02月28日 | Weblog
私の家は農家としては、午房坂というに所属する。その寄り合いが、数日前に館山会館というの集会所であった。
議題は、農家に対する戸別所得補償の説明であった。
主催は、農協と実行組合長である。初めに農協の綱領というのを読まされたが、通常は、その綱領を読み上げるらしい。要するに農協というものがいかに絵に描いた餅かという理想的な言葉の羅列である。それから農協の現状を説明され、現在、年率、5%という安い金利で金を貸すというのと、葬祭会館を経営するから、その会員になってほしいということであった。共に、農協の理想とする農業のバラ色の未来となる綱領とは相反する単なる金儲けに過ぎない。町が年よりばかりになってきて、儲かる仕事がなくなってきたので、いよいよ、葬式を商売にすることになったのだ。
この町で成り立つ事業は葬式くらいしかないことは、以前に記したが、農協もいよいよ、それに気付いて参入するのだ。農協が金貸しをして、返せない農家の田んぼを取り上げて、売り払ったりしているのがかなり前から見られている。いよいよ、年よりばかりの農家で金を穫れるのは、その年寄りが死んだ時に葬式をすることでしかなくなってきたということである。先ずは、この二大事業の説明をしてから、戸別所得補償の説明に入ったが、主要な目的は自給率の向上であるというのが、新しい政権の農業政策ということである。それに即した様々な施政を上げているが、これでは、農業の改善にはならないものばかりである。

マハートマー・ガーンディーの番組

2010年02月27日 | Weblog
一昨日の二十五日に録画したマハートマー・ガーンディーの政治運動を、北大の准教授という人の解説で見た。ガーンディーとアンベードカルとの関係について以外は、学生時代に学んだことであるが、その准教授の解説が、日本の現在の政治的立場をこの番組を見た国民に自覚させるのに役立ったたのではないかと秘かに思った。
今、話題の辺野古に米軍の基地を移す問題について、基地が当然あるという前提そのものを議論しなければならない。日本は、米国との、というよりは、中国との戦争に負けたのである。中国が支援してもらった米国に直接には、負けたのであるが、日本は、元々中国に侵攻していたのが、追い出されたのだ。その米国は、ヴィエトナムに侵攻して中国の支援を受けたヴィエトナムに負けた。そして、米国は、イラークとアフガーニスターンに侵攻して、今まさに負けようとしている。あるいは、既に負けたと言って良い。仮に米国がイラークやアフガーニスターンに基地を残せたとしても、日米同盟よりは、イラークやアフガーニスターンに有利な同盟関係になるであろう。戦死した米兵は無駄死にをしたことになるのだ。
米国がそう言う羽目に陥るであろうということは以前にも記している。
日米同盟については、それを結んだ1960、70年に若者たちが反対したが、その後は当たり前になっている。しかし、明らかに米国に有利な同盟関係である。

湯浅誠の出演番組

2010年02月26日 | Weblog
インドヘよくご一緒した服部さんから以下のような情報をメールしてきてくれたので、より多くの方に見てもらうため、ここに紹介することにした。私自身、ヨク見るTBS系のサンデー・モーニングとあわせて日曜にに見たいと思う。
湯浅誠氏がどのような壁にぶつかっているかは、分かっていたので、以前にここで記したが、それを具体的に見せてくれるであろう。
2月28日午後9時からのNHKスペシャルは湯浅誠特集
前回のエントリーでお知らせしたNNNドキュメントにつづく、湯浅誠さんの特集です。

良質とされる2大ドキュメンタリー番組。 何が違って何が共通するのか見ものです。

2010年2月28日(日) 午後9時00分~9時49分
NHKスペシャル 総合テレビ
権力の懐に飛び込んだ男・100日の記録(仮)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100228.html
※再放送 3月3日(水) 午前0時45分~1時34分 (2日深夜) 総合
昨年”年越し派遣村”の村長を務めた湯浅誠氏。NPOとして在野で活動を続けてきた彼が民主党に招かれ、この秋から内閣府の参与となり、緊急雇用対策本部「貧困・困窮者支援チーム」事務局長として活動を始めた。待ったなしの貧困対策。カメラは、従来の枠組みを超え、官僚や政治家、地方自治体の間を自在に飛び回り、貧困者の対策に乗り出す湯浅に密着。「誰もが平等に尊厳を大切にされる社会」を理想に掲げ、現場一筋に解決策を見出してきた湯浅は、果たして行政に横たわる様々な障壁を乗り越え、効果的な施策を実現してゆけるのか。困難に直面しながら格闘し、時に挫折する湯浅の100日を通して、政治主導を掲げる新政権、そしてなかなか崩れない縦割りの官僚組織や、疲弊する地方自治体の現実を描いていく。

なぜ若者の就職を急がなければならないか

2010年02月25日 | Weblog
今、なぜ若者の就職を急がなければならないかについて、私見を述べてみる。
小泉平蔵による、新自由主義に基づく政策のせいで、大学あるいは高卒の派遣社員という不安定な条件で働く若者の増加が、異常な犯罪を増やしているとかねかねがね思っている。勿論その政策を指示した米国ブッシュ政権のチェイニー、ラムズフェルド等が世界に害毒をまき散らしたのだが、その政策が日本をも救うと信じ込んで実施した政権のこれらの閣僚こそが救いようがない。
もともと、税務当局の都合で、税の源泉徴収しやすいサラリーマンを増やすことで、猫も杓子も進学させて、サラリーマンを増やしてきたのであるが、高学歴であれば、3kの仕事をしないという前提で進学した若者が、約束された就職口がないからと、3kの労働者になるよりは、派遣を選んでいるのであろう。中学校卒でも職人を育てる仕組みをこれまでの政権が作っていれば、これほどまでのサラリーマン予備軍が失業しなかったであろうが、これほどの若者が食えないという常態で、この程度の犯罪ならまだましで、反政府運動が起こっても不思議ではない。そのハシリが、オーム真理教である。これから、それに似た市民団体や宗教団体が次々とできてきて、社会不安の原因になるであろうから、今、喫緊にしなければならないのは、社会からあぶれた若者にまずは、職業につかせることである。昔だったら、食べられれば何の仕事でもしたという時代とは、サラリーマンを大量に作り上げて、しかも、それを核家族にして、所得税を取り立てる現在の進学教育構造の下ではまるで違うのだから、若者の考えを甘えと贅沢であると非難するよりも、その構造を作った財務省の思考方法の歴史を変えるしかないと思われる。母親の確定申告を代理でしてきての感想である。

シャワーの元栓が凍結破裂

2010年02月24日 | Weblog
久しぶりで帰宅して、風呂に入ろうとしたら、シャワーの元栓から水が溢れ出ていて、どのように栓をしても止まらない。シャワーの器械が凍結して破裂したのだ。2月初めに寒い日があったから、その時に破裂してずっと水が流れっぱなしだったようだ。どうして良いか分からないので、そのまま風呂に入り、寝たが、水が漏れつづけるのをこの辺で止めないと、これまで漏れたのも含め水道代が大幅に上がるかもしれないと思い、元栓を止めに外に出て探した。懐中電灯で見ると、水抜きと書いてあるので、それを止めてみたら、シャワーの元栓からの水漏れはなくなった。翌日、水道局に電話したら、業者を紹介してくれたが、なかなか来ない上に、来てから、これは部品交換になり、注文してから宅急便で送られてくるのに数日かかると言われた。
今週になって月曜に部品が届いたからと直しにきた。
水道の元栓に水抜きと記してあったのは、それを止めると、水抜きもされるのだと、あとで、佐藤元大工さんから教わった。佐藤元大工さんには、言われるままに、風呂の水を落として留守にしたのだが、水抜きのことを教えないでしまった、と残念がっていた。寒冷地では、水を抜くということをすることが分かった。それが常識らしい。

大分陽気が良くなってきて嬉しい

2010年02月23日 | Weblog
今日は、最近で一番暖かい日で、灯油のストーブを最弱で燃やしても、充分に温かだ。風は相変わらず冷たいが、陽の当たっているところがぽかぽかしている。こうなると、昨年末、インドから帰って、体調を崩している時には、寒さが殊の外、身にしみたのが、嘘のように体調が良くなっている。
仙台で、一月末から二月初めの寒い中、軍艦行進曲をがなり立てながら、行進している大きな車から若者の声で、仙台市や小沢の金の問題を挙げて演説している中で、その演者が自分も貧乏であると話してその演説の有効性を主張していたのが、奇異に聞こえた。今、困っている人達は、失業保険も貰えず、まるで収入がないわけで、立派な街宣車の上から自分も貧乏だと言ったって、それで食って行ける援助がそれなりに、しかるべきところから貰えているのだから、おかしいのであった。これも、検察の情報操作に乗っかって金をしかるべきところからもらって生活している人たちである。
特捜部の検察は、最近になって読んだ古い『河北新報』によると、小沢問題で本人を被疑者として聴取したのは、市民団体の訴えがあったから、と記してあったが、その市民団体の正体も記すべきである。市民団体にもいろいろあり、今月初めに記した三井財閥の役員を殺した血盟団も市民団体であって、その子孫には、赤軍の女リーダー、重信房子もいるのだ。したがって、特捜部検察ばかりではなく、マスコミも、情報操作に載せられるだけではなく、その市民団体が、どんな団体かを明らかにすべきである。情報操作には、このような市民団体と称するものも利用するのが常套手段なのだ。

一筋の糸

2010年02月22日 | Weblog
登米高等尋常小学校と仙台一中の建設を山添喜三郎がしていたことが分かり、それに伴って、我が家の歴史にも想いを致したが、一筋の糸が、それをたどって行くと、いろいろなことに関係していることが分かり、これが縁の不思議ということなのかもしれない。
もし、私がもう少し、研究熱心であれば、その糸をたぐり寄せて、もっと詳しい関係を知ることができるのかもしれないが、そこまでは深入りする性格ではない。
三嶋秀之助の兄である、三嶋武之助が芳賀家に養子に入って、その息子である、私の祖父が書き残していることは、その芳賀家のことより、三嶋家のことが多く、養子というものの性格上、そちらに重きが行くのかもしれない。
それによると、三嶋家は、源頼朝が平家討伐をひそかに打ち合わせした、三島市の三島神社出身だそうだから、源頼朝が義経を討つ名目で平泉の藤原氏を滅ぼした時に、三嶋氏も葛西氏たちと平泉に派遣してきたのかもしれない。いずれにしろ、三嶋秀之助は本家を継いだ家督で、そのあとの家督は、好という人が継ぎ、その人たちのお墓が我が家と同じ寺にあることが分かっているが、その子孫がどうなっているか、杳としてわからない。三嶋家の墓参りは取りあえずは私が今している。母に聞くと、母もうちの墓参りと一緒に三嶋家の墓参りをしていたと言うが、お葬式については知らないと言う。

三嶋家のその後

2010年02月21日 | Weblog
私の曾祖父の弟、三嶋秀之助は、建築材料提供者をやめたのか、その後、北千住で包み紙などの特殊印刷をする印刷会社を経営していると祖母に聞いていたが、既に付き合いはなく、どこに住んでいるかも分からなかった。
ところが、一昨年になって、三嶋秀之助の家督、好と結婚した女性の姉を祖母に持つという人が知り合いにいることが分かり、その人が、子供の頃にそのおばあさんに連れられて、三嶋秀之助の墓参をしていて、今もその墓があると教えられた。その知り合いは、登米納豆を作っている塚本納豆の末っ子で、その姉は私と同級生の塚本睦子であった。そして、その末っ子和敏くんに案内されて、墓に参ると、三嶋秀之助とその妻、その家督、その兄弟の3つの墓が、無縁仏にされて、墓石が一カ所に押し込められていた。私の家の墓からは、ほんの10メートルしか離れていないところに、墓があり、しかも、その好の行年は、昭和32年で、私がまだ、登米に住んでいたころである。しかし、そのお葬式など聞かなかったから、三嶋秀之助の家と私の家には何かうまくいっていないものがあったのかもしれない。その三嶋秀之助が、私の祖父の産まれた家とその隣家の2軒を領して、明治18年に住んでいたことも、日野氏と野村紘一郎氏に見せられた古地図で分かった。それは、現在、半田写真館になっている。三嶋秀之助がなぜ私の祖父の産まれた家に住んでいたのか、その辺のことは、詳しくは調べていない。

山添喜三郎の仕事ぶり

2010年02月20日 | Weblog
旧登米高等尋常小学校の建築については、後日談があり、2007年に発行した『登米物語』にも記したが、山添喜三郎は妥協をしない仕事ぶりで、現場泣かせであったらしく、材料を徹底的に吟味して、例えば、屋根瓦を一晩水に浸けて、一定以上重くなっているのをはねたという。そのハネ材だけで、もう一つ学校が造れたほどだったという。そのため、材料提供者や大工が破産して、夜逃げをしたようだ。私の曾祖父、武之助も保証人になっていて、その倒産で夜逃げをした人のせいで、家産を傾け、その息子に当る私の祖父は、教科書も買えなかったという。そのため、祖父は遺言状を残していて、そのひとつに、
一、保証、連帯などは決してすべからず。その際は、可能の範囲において、恵与せよ。
と記されていた。
山添喜三郎が仙台一中の校舎を造ったのは、登米高等尋常小学校を造ってから、十年以上経ってからであるから、おそらく、若い時程には、厳しくはなくなっていたのではないかと思う。そんな厳しい仕事ぶりだったと言うことは仙台一中の歴史には記されていなかった。若気の至りであったのかもしれない。

仙台一中旧校舎と旧登米高等尋常小学校の設計者

2010年02月19日 | Weblog
仙台一高柔道部の歴史を調べていたら、明治三十年(1897)南六軒丁に山添喜三郎の監督下に柔術室、雨天体操場が竣工、十一月二十二日学友会発会式が挙行され、このとき、学友会は、二部制をとり、撃剣・柔道を第一部とし、野球・庭球・蹴球を第二部とした。
この南六軒丁の校舎は手狭になったので、移転を予定していたところ、火災で焼失したため、茶畑に移転を余儀なくされた。
宮城県尋常中学校は、明治三十三年に宮城県第二中学校の開設に伴って校長を兼務して、宮城県第一中学校と改称、さらに、明治三十七年に宮城県立仙台第一中学校、大正八年に宮城県仙台第一中学校、そして、戦後の学制改革により、宮城県仙台第一高等学校となった。
ここで、分かったことは、この校舎の建築を監督した山添喜三郎が私の出身小学校、旧登米高等尋常小学校の設計監督もしていることである。旧登米高等尋常小学校は現在、国の重要文化財である。
ついでにいうと、旧登米高等尋常小学校のの材料提供者は、気仙出身で三嶋秀之助といい、私の曾祖父の弟であった。私の曾祖父、武之助は、二男で芳賀家に養子に入ったのだ。