芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

長い停電

2011年06月30日 | Weblog
昨日の昼過ぎから、夕方まで、停電になり、これは、地震のあとと同じように、真っ暗な夜を凄さなけらばならないかと思ったが、幸い暗くなって間もなく、電気がついた。
しかし、インターネットが繋がらなくなり、今朝も直らないので、たまたま今日は、雨が降らず、日差しが強いので暑い中を本部のある丘の上にパソコンを持って行き、設定し直してもらって、帰ったが、やはり、繋がらないので、係りに来てくれるように電話したが、なかなか来ず、やっと来てみてもらうと、昨日の停電で、部屋の入口に取り付けてあるワイファイの器具が昨日の停電の時に焼けたのだそうだ。この町では売っていないから、取り寄せに時間がかかると言う。
それでも、午後5時頃に別のところの器具から繋がるようになり、今、ブログを書けることになった。インドでは、デリーでもしょっちゅう停電していたから、珍しいことではないが、やはり、不便ではある。デリーから内陸に1000キロも離れていると、インターネットが出来ないと、何も出来ない気分になる。そんなことはないのだが。

セーワグラムのガーンディーの旧居再訪

2011年06月29日 | Weblog
昨日、日本山妙法寺にオリッサ出身のインド人と結婚して住んでいる日本人女性に会わせると、学長が車を用意してくれたので、先ず、その車でセーワグラムのマハートマー・ガーンディーの住んでいた家に案内して貰い、ガーンディーとそのあとからきたカストゥルバ夫人の住んでいた家を見た。ここに来るのはこれで3回目である。
それから、日本山妙法寺に行ったが、その女性は日本に帰っていて留守であった。この境内も広くかつ立派で、ここを訪れるのは、去年の9月以来二回目である。その前、1969年に来たときは、まだこの寺もストーパもなかったが、熱心な日蓮宗の坊さんが町中をうちわ太鼓を叩いて廻っていたので、それについて一緒にうちわ太鼓を叩いて歩いた。ささい上人といったか。69年の三月頃に来た時は、ヒンディー語科の大学後輩で清君という学部の学生とインドをカルカッタからコモリン岬を経てここに来たのであった。
やはり、ヒンディー語科出身の清好延氏は、当時カルカッタの三菱商事支店にいて、食事をご馳走になった縁で、3月11日の地震で避難した時にたまたまその葬式に出席したので、その弟にあたる清君とは久しぶりに会えた。
その清継延君は、お兄さんのいるカルカッタから帰国して新日鉄に勤めたと聞いたが、もう退職しているようだ。

学長宅で夕食を頂く

2011年06月28日 | Weblog
昨日、副学長とその部屋で会った。
以前、観光ヴィザでは働けないとメールしていたのに、三ヵ月のヴィザで正味2ヵ月教えられるなどと、言う。
さっぱり分かっていないのか、わざと知らない振りをして、コチラから、雇用ヴィザようの書類を要求させて、自分勝手に雇用ヴィザを取らせようとして言うのか、おそらく後者であろう。
必要な書類を作るように事務方を呼んで指示し、私にそれを作るように言ったが、私のパソコンはマックであり、ウィンドウズでないと、プリントするのが難しいと言って、事務方に書類の書き方を教えた。半時間ですんだ。
三ヵ月かかってもできなかったのだが、半時間で出来るのに、やらなかったのはなぜか。
午後三時半からまた行ったら、学長が出張から帰って来ていて、その部屋で話し合いになったが、しばらく留守にしていたので、溜まっている書類に署名するのに時間がかかり、しばらく待たせられた。
事務方の作ったヴィザようの書類に目を通してくれた。そこに副学長も呼ばれ、休暇について訂正を入れてくれたが、初めに聞いていた休みが12月にはなくて、1月と7月だと言う。
納得いかないので、部屋に帰ってから、隣りのフランス語の教師に聞くと、やはり、12月と5月だと言う。学長も副学長も休暇の正確な日程を知らないのかもしれない。
学長には、夜、食事を一緒にしようと言われ、7時にお邪魔して、ご馳走になった。

環境に慣れ始める

2011年06月27日 | Weblog
昨日、親しくなった人が、街に買い物に行くというので、その車に同乗させてもらい、果物、ナイフを買った。
その人は、新聞社にいた人で、定年退職して、私同様今回ここに呼ばれて来て、これから授業の回数などを相談すると言う。
昨日の夕方、ここの学長代理が部屋に訪ねて来て、明日11時に来るようにいわれた。
この辺を歩き回ったら、この学長代理の家というのが、学長の家と並んで、特別立派な建物なので、副学長と言うべきであることが分かった。
私を訪ねて来た時も、たいそう横柄で、雇用ヴィザを取れなかったのが問題だと、言ったら、自分は外国に行ったことがないから、ヴィザの取り方を知らないと胸を張った。そういう問題でないだろうと思うが、自分の責任でないと言いたいのと、外国にいっていないので、行ってみたいということかもしれない。
いずれにしろ、威張っているだけで仕事ができない男だ。去年会ったときより、老けて見えたのは、それなりに苦労しているのかもしれない。
今日は、彼と話し合いになるが、いかにも責任逃れをしそうなのが見え見えである。
よくある、与えられた決まりきったことしか出来ない人であろう。

米国支配下での日本の生きる道

2011年06月26日 | Weblog
ヤフーニュースによると、官内閣が8月一杯会期延長したので、それだけ延命したことになる。
日本は、大手マスコミが米国支配を受けているから、その情報操作で国民は、政権を選び、それによって、支配されるという構図である。
民主党総裁選で私は、小沢一郎が選ばれることを望んだが、マスコミに操作された国民の雰囲気で民主党党員は、菅内閣を選んだ。福島原発の初期に菅内閣首相公邸に米国の専門家が入って、大量の水を流し込んで、原発を冷却するなどの指示をして、結局は、その水の重さで原子炉の破壊を速め、高度汚染した冷却水が垂れ流しになっているのを、これまた、米国の技術で汚染水を浄化するという、米国支配の構造を首相は選び、その代わりに、首相の座を延命出来ているのは、明らかである。
時を同じくして、沖縄の米人軍属が、沖縄に帰省中の学生を交通事故死させて、不起訴になっている。
要するに日米同盟は不平等でないと言い張る輩がいるが、裁判権を失っているのであるから、不平等なのは明らかである。
菅首相は、学生運動出身だというが、学生運動家なら、当然その不平等を知っているゆえに、それを利用して、米国の保証の下に首相に居座り続けているのだ。
学生運動家の一番程度の悪い活動家だから、日本国と国民のためではなく、利己の利益のためだけの政治をしている。
日本の独立を目指す素振りを見せるなら、沖縄の裁判権放棄に一言政府としての見解を述べるべきであろうが、ここで米国を刺激して自らの首相の座を放棄したくないのが丸見えだ。

なかなかブログもメールも思うようにつながらない

2011年06月25日 | Weblog
二十五日までに来るようにということで、23日に着いたが、宿と食事をあてがわれ、メールをする環境のパスワードを貰えず、やっと、24日になってもらえた。しかし、なかなかつながらず、メールもなかなか送れないのは、ワイファイ環境が、大学の隅々に行き渡っていないせいのようだ。
このブログもつながりにくいので、時間ばかりかかる。係に直せるか聞きに行ったが、仕方ないというようなことだ。
トヨマに地震の片付けに行った時に電話回線でメールやブログをした時もこうだった。

やっと大学のインターネット環境を使える

2011年06月24日 | Weblog
22日(水)午後4時頃ニューデリー駅にタクシーで行ったが、クーリーが寄って来て、AP急行は4番線で700メ-トルも歩かなければならないから、1000ルピーだと言う。冗談じゃない、タクシー代が、南デリーからでも400ルピーなのに、その2倍半の料金では、滅茶苦茶のフッカケようだ。元々が、クーリーは吹っかけるのだが、それにしても異常に高い。時間は充分にあるから、照りつける暑さの中で交渉して、やっと500ルピーまで下げた。それ以上に下げる気力がないので、それで運んでもらったが、待つ間も汗が止まらない。汽車は30分前に入線し、30分遅れで出発した。翌朝乗り継ぎ駅には20分遅れの10時に着いたが、直前に上段の客が紅茶をこぼして、私の鞄が汚れてしまったのでそれを拭いたり、バタバタしたにもかかわらず、その軍人の客が手伝ってくれたので、荷物を下ろすのに楽をした。
プラットホームでまた、クーリーとの交渉になり、今度は、200ルピーで落ち着き、そこから目的駅までの切符も買って来てもらった。駅は10番線前後ある結構大きな駅で切符売り場も分からず、乗り継ぎの切符を買うのに荷物を置いては行けないので、クーリーに全部頼むことになったが、助かった。
しかし、目的駅では、クーリーがいなくて、探しまわり、結局駅員に運んでもらい、100ルピーであった。田舎の物価がデリーの5分の1ということか。あるいは、単に私の交渉力が昔に比べて格段に落ちているとうことか。昔は値切るのを結構楽しんだが、あるいは単に体力が落ちたのかもしれない。

思惑が交錯

2011年06月22日 | Weblog
19日(日)、教授宅に夕飯に呼ばれ、鳥カレーをご馳走になった。
デリー大学教授宅は夫君のネルー大学教授宅であり、ネルー大学教授が、料理を作って下さったが、美味しかった。
デリー大学教授は、私に是非大学に勤めるように勧め、そこで、デリー大学教授の教え子を後任に採用してほしいとも言う。
大学側と面倒な交渉をすることにいささか嫌気がさしていたので、そう言ってくれるのなら、そのほうが良いとも思ったが、後任については、就職したにしてもできるだけ、早く辞めたいから、東京外国語大学の先日の学内レガッタで会った、学長補佐の日本語教授に適当な学生がいれば紹介してほしい旨伝えてある。問題は、日本の給与よりインドの給与が少ないことであるが、インドではそれで十分食べていけるのだから、努力次第で、そこから日本の大学にまた就職できるのではないかと思うのだが、そこまでやる気がある若者がいるかどうか分からない。
私が初めてインドに来たのは、まだ大学院の時で、美術カメラマンの助手というアルバイトで来て、その後、1年ほど、インド、パーキスターン、アフガーニスターンをぶらついて、ビルマ経由でタイに入り、そこでプール付きの贅沢な邸宅に出張して来て住んでいた、ボート部一級先輩の永澤昭夫さんのところに転がり込み、そこで一ヵ月ほどいてその間に国際免許を取り、帰ってからその免許証を国内免許に変えて今に至っている。そんな免許証だから、自分の証明の時しか使わない。
デリー大学の文学の日本語科は廃止になるのだから、今から、他の大学にその教え子を就職させて、生き残りを考えるのも尤もである。
ネルー大学は広いので、中を歩くのも相当あり、構内に来ているバスがどこに行っているのか分からない。
昨日は、大学から、あてもなくモーリー門行きのバスに乗って行ったが、途中下車したところが、オールドデリーに近いことしかわらず、やむを得ず、そこからオートリキシャでベンガルマーケットに行って、喫茶店に入り、またオートリキシャで大学まで帰った。喫茶店は、ナートゥの店といい、おいしいパンを売っているので、晩飯にパンを買った。

デリーにて

2011年06月21日 | Weblog
デリーの大学宿舎にいるが、郊外なので、そこから町に出るのに1時間くらい掛かる。
構内には、食堂もあり、美味しいが、たまには外に出て行きたいが、脚が不便で、アテも無くバスに乗っていき、帰りは、オートリキシャになる。
部屋にいると鳥の鳴き声がして、その中に猫のような鳴き声がするのは、孔雀だと分かった。
知らない鳥がいろいろ様々に飛び交っている。
宿舎には、いがいと蚊が少なく、なやまされることが無い。
明日はいよいよ、汽車で出かけることになるが、インターネットは、教授宅や、クラレーインディアで借りてしているので、そこによばれたときしかできない。
大学に着く23日は、インターネットが出来る環境になると思う。

デリーに到着

2011年06月20日 | Weblog
昨日、クアラルンプルでエンジン故障のため、遅れて出発、デリーに夜中に到着した。
クラレーには、遅くなったから出迎えはいらないと言ってあったのに、車が手配されていて、ネルー大学には、午前2時頃に到着、翌日になってから、ゲストハウスをとってくれた、教授に連絡、今日教授宅で歓迎の宴を開いてくれたので、夕方お邪魔して、ネットをさせてもらった。火曜日まで引き止められたので、それから夜行列車で1000キロ離れた大学まで行くことになる。
行っても観光ヴィザだから教授はできない。それでも宿舎は提供すると言うから、行くとはいったが、どうなることやら。