昨年12月初めに、以前に頼んだ屏風の修理が出来上がって持って来た須藤表具店に、銀屏風の補修も頼んでおいたのが、やっと出来上がって来た。前の屏風は、屏風に貼り絵をしてあったのが、はがれかけたりしていた。今回も前回も主には、猫が引っ掻いたために出来た穴を埋めてもらうことだった。前回も今回もいずれもそれなりに見られるようになって返って来た。この須藤表具店は、出来上がってもなかなか持って来ないので、前回も今回も催促してやっと持て来てもらったのだ。これが、トヨマの商売なのかもしれない。しかし、出来上がりは上々だ。腕がシッカリしているから誇りがあり、あわてて、金を請求に来ないのか。わからない。
川村院長の義理のお母さんは、米谷家から川村家に嫁入りしたのだそうで、米谷家は芳賀家とは、非常に親しかったと言う。米谷家の顕(あきら)と芳賀家の明(あきら)とは、秀才三羽がらすで親友だったのだそうだ。明は私の祖父でその話しは祖母から聞いたことがある。祖母あさのは、川村家によくお茶を飲みに来たそうで、私の母、禮子とも親しかったようで、レコちゃんと呼んでいる。江戸時代末期からの米谷家の話なので、ちょっと系図が分かりにくいので、また今度来た時にメモをしながら、お話を聞きたいと言って失礼しかけたが、なかなか放してもらえなかった。戊辰戦争の時に新しい家老の秋山氏が、古い家老の米谷氏を官軍の将に讒訴したため、米谷氏が官軍によって首を切られた話は聞いているが、その事実が『登米町誌』で枉げられているということは初めて聴いた。その『登米町誌』の編集長は、秋山家から鈴木家に嫁に行った人の子供である、鈴木一成先生だ。私もその先生に中学時代に英語を習った。鈴木一成先生は、早稲田大学を出ていたと思うが、そのお母さんの出た秋山家の現当主は、私より一つ年下の仙台一高の後輩で、やはり早稲田大学出身だ。我が家と秋山家、鈴木家は共にクリスチャンで、教会で良く会い、これまた非常に親しかった。
北上川を漕ぎ下るとき、6月24日の午後2時ころに登米に着くので、万一、その時に具合の悪い人がいたら診てもらうため、川村医院に行って、その頃に院長に医院にいてもらえないか相談した。というのは、川村医院が開いているのは週に何回かで、あとはどこか他の町で診るということを聞いたからだ。案の定水曜日は、どこかに行っているが、そのために戻ってくれることになった。今の院長は、仙台一高出身でボート部だったというから、話がしやすいだろうと思い、頼んだのだ。今の川村医院の院長は、お婿さんで、小学校まで岩手県の前沢にいて、仙台二中から仙台一高に行き、そこでボート部だったということを、登米診療所の石井所長と先日うちで食事した時に聞いていたのだ。突然に訪れたのに、川村院長とその義理のお母さんが出迎えて下さり、お母さんから、私の祖母、母と良くお付合いがあったことを聞かされ、懐かしいと言われた。
昨日の葛籠淵コミュニティーの総会で話をした高橋真一氏が、平泉方面からボートで漕ぎ下ってトヨマに泊まる6月24日に岡谷地南部神楽を求められれば舞いましょうと言ってくれた。我が家の『芳賀邸』をお披露目した時も岡谷地南部神楽を舞ってもらった。
これは、無料でやってくれるということだが、トヨマのやり方から、お車代として、2、3万円は差し上げることになる。そのお金を誰が払うか、宿泊客を紹介したカクヤマ旅館が出してくれるかどうかだ。もし出さないようだと、私が払って、遠方からのお客さんに楽しんでもらうことになる。
この町の人達は、他の町に比べると金持ちということになっているが、お金は出さないし、町を起こそうなどという考えもない。私が出すお金は、自分の好きですることでは良いが、無駄な出費になることは明らかだ。今回漕ぎにくる人達は、かつて、学生時代にレガッタで競った敵対手だが、今は、私同様年金生活者で、楽しみでいっしょに漕ぐことになっている人達だ。私自身が親しい人にご馳走したりすることは、勿論しているが、この町の人には関心のない効果の見込まれない町起こしに、年金生活者の私が金を出しつづけるのはどうかと思う。夕べは、夜中に目を覚ましてそんなことを考えて朝を迎えた。
これは、無料でやってくれるということだが、トヨマのやり方から、お車代として、2、3万円は差し上げることになる。そのお金を誰が払うか、宿泊客を紹介したカクヤマ旅館が出してくれるかどうかだ。もし出さないようだと、私が払って、遠方からのお客さんに楽しんでもらうことになる。
この町の人達は、他の町に比べると金持ちということになっているが、お金は出さないし、町を起こそうなどという考えもない。私が出すお金は、自分の好きですることでは良いが、無駄な出費になることは明らかだ。今回漕ぎにくる人達は、かつて、学生時代にレガッタで競った敵対手だが、今は、私同様年金生活者で、楽しみでいっしょに漕ぐことになっている人達だ。私自身が親しい人にご馳走したりすることは、勿論しているが、この町の人には関心のない効果の見込まれない町起こしに、年金生活者の私が金を出しつづけるのはどうかと思う。夕べは、夜中に目を覚ましてそんなことを考えて朝を迎えた。
葛籠淵のコミュニティー総会に呼ばれていたので、今日午後にちょっと遅刻して参加した。昼過ぎまで雨が降っていたので、それが止んでから自転車で行ったのだ。去年は、歩いて行ったが、30分強かかった。今日は、強い低気圧のせいか、数年前に骨折捻挫した左足首が痛むので、自転車にした。例年は、登米市出身の県会議員が皆参加しているが、今日は一人だけだった。それに布施市長、先日の選挙で当選した市会議員伊藤氏と共産党の工藤氏が二人とも参加していた。中田地区土地改良組合長というのも参加していたが、話はしなかった。他の来賓たちとは皆話をして、平泉方面からトヨマに一泊して石巻まで川を漕いで下る6月のイベントについて話した。それを恒例の行事にする為にトヨマの土手に艇庫を作りたいということを説いた。
大中臣春樹氏と瀬戸内寂聴尼とインドへ行ってきてから大分経ってからのことだが、ショーケンが大麻所持で捕まり、それを寂庵にかくまった瀬戸内寂聴さんから、ショーケンが寂庵で退屈だろうから、お相手してほしいと言われた。当時私は結構仕事が忙しかったので、東北新社をやめて時間のある大中臣春樹氏にその話しを振って、お相手してもらった。だから、大中臣春樹氏は、ショーケンとも親しいはずだ。私がインドへご案内したタレントは、女優では、浜美枝、歌手では、ユーミンくらいだが、作家は大勢いる。その中でも瀬戸内寂聴さんとは、5回以上ご一緒しているのではないか。寂聴尼が、私に握手を求めてきた時、隣りに座っていた角川書店の「寂聴」編集長の新井氏が立ってきて、寂聴尼から、「この人はインドのことを日本で一番知っている人よ」と私を紹介されて、近いうちに寂聴尼とインドへ行きたいのでと私の住所などを聞いて、近いうちにトヨマまで来るようなことを言っていた。天台寺での寂聴尼の法話の時にでも寄るのかもしれないと思われた。そうなると、寂聴尼も寄ることになるかもしれない。瀬戸内寂聴尼は、以前、トヨマで講演してもらえないかと当時の町長に頼まれた時に、その話しを繋いで、実現し、講演の前に、東海亭というウナギ屋で昼食を食べる前に、我が家に寄ってもらい、寂聴尼とインドヘ同行した母と奥の間で久しぶりに会ってもらった。出家間もない寂聴尼の初めてのインド旅行の案内をした時、寂聴尼のお姉さんも行ったが、私の母と同じくらいの年齢のそのお姉さんは、もう亡くなっている。そのインド旅行の時の寂聴尼のお姉さんや母の写真が、文庫本ではない、朝日新聞から出た親本『インド夢幻』に載っている。
瀬戸内寂聴さん 文化勲章授章記念碑除幕式は午前中に、その記念日が建てられた新町川水際公園のふれあい橋北詰で約一時間開催された。私たち来賓は、その記念日と向かい合う川の向こう側に設けられた席に座って見た。瀬戸内寂聴さんと流政之さんにはちかくの幼稚園の児童たちが参加して花束贈呈もした。児童たちにはまだ分からないながらも、この日のことを将来思い出すことがあるのではないか。
この記念碑は、小さい鳥居か岩戸のような形で、これをくぐると幸福になるとか、健康になるとか、いうことで、皆がそれを這いつくばってくぐった。私もその岩戸をくぐって、写真を撮ってもらった。これを徳島観光の目的の一つにいれたいと言う徳島南ロータリークラブの思惑はあたるであろう。
午後の祝賀会では、久しぶりに会った人達に何人も声をかけられ、中には、思い出せない人もいて、失礼してしまった人もいる。そんな中でもインドに一緒に旅をした人が何人かいて、その一人の大中臣春樹氏とは、彼の部屋に呼ばれてしばらく話をした。
彼の先祖は、中臣鎌足で、藤原姓の元祖であるから、飛鳥時代からの血族結婚の繰り返しをしているせいか、ちょっと変わっているところがある面白い人だ。
この記念碑は、小さい鳥居か岩戸のような形で、これをくぐると幸福になるとか、健康になるとか、いうことで、皆がそれを這いつくばってくぐった。私もその岩戸をくぐって、写真を撮ってもらった。これを徳島観光の目的の一つにいれたいと言う徳島南ロータリークラブの思惑はあたるであろう。
午後の祝賀会では、久しぶりに会った人達に何人も声をかけられ、中には、思い出せない人もいて、失礼してしまった人もいる。そんな中でもインドに一緒に旅をした人が何人かいて、その一人の大中臣春樹氏とは、彼の部屋に呼ばれてしばらく話をした。
彼の先祖は、中臣鎌足で、藤原姓の元祖であるから、飛鳥時代からの血族結婚の繰り返しをしているせいか、ちょっと変わっているところがある面白い人だ。
瀬戸内寂聴さんの文化勲章授章記念碑建立祝賀会の会場に入り、席に付くと直ぐに、瀬戸内寂聴さんがご自分の席から、わざわざ私の席に来て手を握ってすぐにご自分の席に戻って行ったので、他の人たちの手も握ればいいのにと思っていたが、そうはされなかったから、ちょっと私としては、他の人たちに申し訳ない気がした。他の人たちも今日の為に東京などの遠方から来ているのに、無視されたように思ったかもしれない。確かに私は、東北の片田舎から出かけたから、一番遠くから行った人の一人ではあろうが、そういうことに気の回る瀬戸内寂聴さんゆえ、敢えてそうしたのには、それなりの嬉しさがあったのであろう。確かに、随分疎遠になっていたのは、私の以前勤めていた出版社で、瀬戸内寂聴さんを紹介してあげた人達が、猛烈に瀬戸内寂聴さんに接近して、その人達によって私は、『源氏物語』の仕事を成功裡に終わらせたからとご苦労会を設けられて、瀬戸内寂聴番を下ろされたのであった。その切っ掛けになったのは、私が『源氏物語』の一連の仕事に、俵万智さんを呼び込んで、一緒に全国を二人で対談をして歩いたのが、瀬戸内寂聴さんの気に入らなかったことで、私の周りの人達がそれを利用してご苦労会を開いたのであった。私としては、定年も近いし、京都の寂庵にも数えきれないくらいに行っているから、その人達が京都に行けばいいと譲るつもりで、その後は、瀬戸内寂聴さんとは疎遠になっていた。ただ、今回の祝賀会には、その人たちは呼ばれていなかったのか、誰もいなかった。
瀬戸内寂聴さん 文化勲章授章記念碑建立祝賀会 というのにご案内を頂戴し、徳島市まで行ってきた。行きは、姫島で行って、姫路城をを見て、その夜は、叔母の家に泊めてもらった。昔紫雲丸の機関長だった叔父が先日亡くなり、その焼香も兼ねて行ったのだ。初め、文化勲章授章記念碑というのは、銅像でも建てるのかと思っていたが、そうではなく、世界的な彫刻家の流政之の作品で、瀬戸内寂聴さんの処女作『花芯』をイメージした作品だそうだ。花芯は、中国語で子宮のことで、この作品が文芸評論家平野謙の酷評を受けて、文壇デビューが遅れたのであった。
300人の出席者が5人ずつ60卓に座り、同席になった小学館の佐山氏は、この作品を始めとして、瀬戸内寂聴さんの作品は、エロスの小説で、若いときからそうだったので、問題だったのだと評していた。私は、若い時にエロスがでるのは当たり前であるとの考えであり、それゆえ、瀬戸内寂聴さんとは上手く合ったのであろうと思う。今回、久しぶりで瀬戸内寂聴さんにお会いすることになり、いきなり、私の席に来て手を握ったので、懐かしかったようだ。
300人の出席者が5人ずつ60卓に座り、同席になった小学館の佐山氏は、この作品を始めとして、瀬戸内寂聴さんの作品は、エロスの小説で、若いときからそうだったので、問題だったのだと評していた。私は、若い時にエロスがでるのは当たり前であるとの考えであり、それゆえ、瀬戸内寂聴さんとは上手く合ったのであろうと思う。今回、久しぶりで瀬戸内寂聴さんにお会いすることになり、いきなり、私の席に来て手を握ったので、懐かしかったようだ。
フランスは、日本に比べてもGDPの規模が小さい国である。そのフランスがなぜ米国の言いなりならず、日本が米国の言いなりにばかりなるのかを山田文比古『フランスの外交力』は考えさせる。
ひとつには、日本人の親方日の丸的な体質がそうさせているように思う。これも明治政府による中央集権政策が、日本の富国強兵に寄与したことではあるが、国民を長いものに巻かれる気質にして、政治を強権にお任せしてきたのが、前の大戦で敗戦を迎えてもそのまま残っているように思う。現在の政府は、以前より強権を発動させるようになっているが、政権そのものが、米国政権にお任せの植民地根性そのものである。今回の日本の不況も、米国発の100年に一度の金融危機と言う言葉で片付け、日本の政治経済のやり方には、責任がないように言っているが、かつての明治政府以来の強権政治にお任せの日本人のあり方が、そのまま米国にお任せの形をとっている。敗戦以来、現政権まで自立的な政策をとらず、場当たりのばらまき行政で、猿にえさをやる朝三暮四の手法を国民に施している。国民は目先の餌に満足して、将来、子々孫々に大きな負担を残すことにまるで配慮が行き届かない。そのように戦後も教育されてきたのである。
前の大戦での臥薪嘗胆の大敗と、周辺諸国に対して与えた危害についても、すっかり忘れてしまっている。
田舎を始めとして、日本の人口は減るのであるから、一人当たりの国民の負う借金は、700万円から1000万円にたちまち増え、近い将来に生まれる子供は、生まれたとたんに1000万円の借金を背負うことになる。親が何とか給付金で2万円をもらっても、子供は1000万円をすぐ返さなければならなくなるのだ。政治は、本来、この将来国民一人当たり1000万円に増える借金を減らす為の政策に2万円を使わなければならないのであるが、逆の政策で人気取りして、猿ならぬ国民を喜ばせているのだ。
ひとつには、日本人の親方日の丸的な体質がそうさせているように思う。これも明治政府による中央集権政策が、日本の富国強兵に寄与したことではあるが、国民を長いものに巻かれる気質にして、政治を強権にお任せしてきたのが、前の大戦で敗戦を迎えてもそのまま残っているように思う。現在の政府は、以前より強権を発動させるようになっているが、政権そのものが、米国政権にお任せの植民地根性そのものである。今回の日本の不況も、米国発の100年に一度の金融危機と言う言葉で片付け、日本の政治経済のやり方には、責任がないように言っているが、かつての明治政府以来の強権政治にお任せの日本人のあり方が、そのまま米国にお任せの形をとっている。敗戦以来、現政権まで自立的な政策をとらず、場当たりのばらまき行政で、猿にえさをやる朝三暮四の手法を国民に施している。国民は目先の餌に満足して、将来、子々孫々に大きな負担を残すことにまるで配慮が行き届かない。そのように戦後も教育されてきたのである。
前の大戦での臥薪嘗胆の大敗と、周辺諸国に対して与えた危害についても、すっかり忘れてしまっている。
田舎を始めとして、日本の人口は減るのであるから、一人当たりの国民の負う借金は、700万円から1000万円にたちまち増え、近い将来に生まれる子供は、生まれたとたんに1000万円の借金を背負うことになる。親が何とか給付金で2万円をもらっても、子供は1000万円をすぐ返さなければならなくなるのだ。政治は、本来、この将来国民一人当たり1000万円に増える借金を減らす為の政策に2万円を使わなければならないのであるが、逆の政策で人気取りして、猿ならぬ国民を喜ばせているのだ。